「自己犠牲: 人類みんなの大好物」

『インディペンデンス・デイ』の続編が近くで上映されていたので暇つぶしに観てきた。そもそも1作目がどんなだったか忘れたが、地球はてんやわんやで大騒動してるうちになんやかんやエイリアンを撃退する映画だったよな確か、と結末を公言することも憚らないほど、予定調和的でご都合主義の作品だったっけ、と思い出しながら上映を待った。

2作目の本作も例によってエイリアンがやってきて、親しき人をみんなが失い、もうどうにもならないと絶望のところを間一髪で人類は助かり、フォー‼︎‼︎‼︎てな感じだ。

もちろん、映画製作の都合上、いつも世界にラジオで呼びかける時は合衆国大統領で、遊牧民も誰も彼も地球人なら全員、彼(本作では女性大統領であったため彼女であるが)の判断を固唾を飲んで見守るし、人類の興亡を賭けた最終決戦の地として選ばれるのはいつだってアメリカの辺境コロラド州であり、少なくとも合衆国である種々の点もお決まりである。

そして、やはり問題は自己犠牲である。自己犠牲なしに地球は救われず、自己犠牲なしの地球滅亡阻止など美しくもなんともない。


さてここに自己犠牲が好きな民族がいるとされる。

日本である。

戦争のなかった江戸期まで形骸化しながらも魂だけは生き残っていたとされる武士。いざという時の切り札として主君を諌めたり、自らの家族の保護を求める際に切腹をすることにより、自らの死をもって願いを通すことができた。

切腹に始まり、明治精神に殉じたとされる乃木中将、しばらく目立ったエピソードはなかったが、太平洋戦争期に入ると零戦・回天などといった殉死者を多数出した。

デュルケムの自殺の4類型に従ったところで、特攻隊の方々の死をどう位置づけるかは非常に難しいだろう。アノミー的ではないにせよ、利己的・利他的・宿命論的いずれにも当てはまる要素がある。

彼らが夢に敗れ絶望的な状況で華々しく散ってやろうと考えたのなら利己的。愛する家族のためを思って踏み切った死ならば利他的だろうし、過度に抑圧された自我を国家イデオロギーに重ね合わせて殉じたのならば宿命論的と言えるだろう。

ともあれ敵国の不合理な死を数々目撃した連合国は、恐らくオリエンタリズムの想像力をもって、奴らはinsane気の狂った「特殊」な人間に違いない、と納得しようとしたに違いない。もっともだ、人間を爆弾にくくりつけて海から空から突っ込ませるなんて正気の沙汰じゃない。


とはいえ、こうした死の絡む自己犠牲は、その行為の駆動因がいくら邪悪であってもドラマチックに描かれれば涙を流させてしまう妖しい魅力に溢れている。

適切な演出と内面の描写、良好なカメラの画角が成立した時、私たちはISのテロリストの「自己犠牲」にも涙を流すだろう。それが物語の持つ共感の力であり、その共感反応は時に誤った認識をもたらす邪悪な力でもある。感動と涙は、その行為の善し悪しの判断を無効化するのである。

だが、冒頭に挙げた映画の中でも、自己犠牲は泣かせるための立派な要素となっている。アメリカは70年余の月日の中で、そうした自己犠牲を賛美する作品をいくつも制作した。キューブリック初期の作品『突撃』は極めて冷静に自己犠牲の残忍さを描いたがそうした作品は極めて少数だろう。自己犠牲を冷静に描けば限りなくドキュメンタリーに近づき、ドラマチックに描けば物語になる。

アメリカと同じ北米大陸の国カナダに行けば、消防士の殉職を覚えて作られたモニュメントだってある。どんな死を迎えられたのかは分からないが、きっと不合理であったにせよ、自らの生を賭して為された行ないは崇高であったと人々は振り返るだろう。

つまりみんな自己犠牲が好きなのだ。好きと言えば恐らく多くの人の違和感と反感もついでに買うだろうが、私はそう言って差し支えないように思う。夜、実存的な生と死の悩みを天井と問答を続ける平々凡々の私たちにとって、自己犠牲はあまりにも尊いのだ。

それがたとえエイリアンを倒すためであろうが、アメリカの艦隊を大破させるためであろうが、愛する家族のためだろうが、はたまた信ずる中心教義に従ったとしてもだ。

そんな風に理性を常に抱えながら私たちは、物語の強度には勝てないのだ。

※文中に登場したイスラム教を想起させる自己犠牲に関しての記述は、広く他の宗教にも見られるものであり、彼ら彼女らを異常者と看做す意において書かれたものではない。

201707/16

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