私たちは、言葉を与えたがる。

平木
平木
Jul 25, 2017 · 4 min read

初めまして。初投稿の平木です。

先日、とあるコラムニストさんのお話を聞く機会がありまして、「絵にキャプションを与える」という大切さを知りました。

今日、テレビを見ていた時にその言葉を思い出し、こうして投稿した次第です。

私たちが普段使う言葉。そこには物事を規定し、世界のどこかに存在させる力がある。ソシュール的な考えですね。コラムニストさんのお話の中では、「絵を描いた後、そこに一言言葉を与える」というものでした。そうすることで、人はその絵に安心感を覚え、その絵の付加価値が増大するということです。確かに経験、ありますね。

LINEスタンプなんかわかりやすい例ですね。これはワタナベエンターテイメントの「ブルゾンちえみ with B ボイススタンプ」です。顔だけでなく言葉の存在で、何を伝えたいのかはっきりしますね(このスタンプの使い所はよくわかりません)。

さて、今日私が見ていたテレビ番組はクローズアップ現代です。
相模原障害者施設殺傷事件からちょうど一年が経ち、その事件について番組が組まれていました。その中でこの一年間、容疑者との間に交わされた手紙の内容が一部、紹介されていました。
「意思疎通をはかれない障害者は安楽死すべき」
正確な文言ではありませんが、こういった内容のものです。これに対しNHKが与えたキャッチは、
「心の闇」
なるほど。便利な言葉だ。容疑者を擁護するつもりは全くないが、どんな複雑な事情を抱えていても、どんな気持ちがそこに内在していても、それは総じて「心の闇」であり、それ以上でも以下でもない。視聴する側はこれを見て一方的に
「この容疑者はある危険な思想に取り憑かれた(ともすると不幸な)頭がおかしくなってしまった人」
として認識する。私たちは言葉が与えられないことに対して常に不安を覚える生き物なのだ、ということを改めて認識した。
容疑者の言葉を聞いて、(納得できないという顔をしながらも)納得する。ああ、容疑者はこうやって考えるから、これだけの数の障害者を殺したのだ。そして勝手に腑に落ちて、安心する。

重ねてですが、容疑者を擁護するつもりは全くありません。かと言って、被害者や遺族を哀れむわけでもない。ただただフラットに。
もちろんこうした考え方を気に食わない人は多数いるだろう。でも私はこう考えてしまうのです。

そしてこうも考えます。
この事件に関して、何かしらの感情的な意見を述べて良いのは、被害者の遺族であり、被害者その人たちだけだと思う。第三者がこれを取り上げ、大げさに悲しんで見せること、それは事件の消費に他ならない。それはこの事件を起こした危険思想(という風に番組でネーミングされている何か)や容疑者本人よりも、絶対的に悪である。

こうやって記事にすることがそもそも事件を消費している、と言われればそれまでですが・・・。
話が脱線してしまいました。

コラムニストさんが言っている通り、言葉というのは物事に対し付加価値や見る人への安心感というものを与えます。人は知らないものやわからないものを極端に恐れますので。
しかし言語化できないものを無理に言語化することは、そこに本来あったはずの何かのっぴきならないもの、いつか何かに(それの良し悪しはわからないけれど)化けるもの、そういうものを排除してしまうということも考えられるのではないでしょうか。事件の話ともこじつけですがリンクしてますね(笑)

初投稿ながら、最後まで読んでくださったあなた。ありがとう。不快に思うかもしれないけれど、最後まで読んでくれたということは気が合うのかもしれませんね。
また気が向いたら、投稿します。

平木でした。

平木

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平木

日常の出来事も繋げていけば一つの物語になっていく。日々のメモとして開設されたブログ。文章を書くことが好きだったり超好きだったり、すげえ好きだったりする。

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