はじめまして。私は熊本に在住しています。このたび震災に見舞われました。
イワシ タケ イスケ
71

非常時の中、丁寧にコメントをくださり、大変有難く拝見いたしました。

被災されたとのこと、心よりお見舞い申し上げます。

この様に文字にすると、何だか単なる無機質な文字の羅列に見えてしまいますことをどうかご容赦ください。我々当事者でない者、震災の現場を目で見ていない者達は、被災者の皆様の状況や心情を完全に理解することはできませんが、少なくともあらん限りの想像力を働かせて震災と向き合いたいと思っております。実際のところは、コメントしていただいた現場の声を拝聴し、お恥ずかしながら想像と現実とのギャップを感じた点が多々ありました。

熊本城という熊本のシンボルは、皆様にとって長年慣れ親しんできた愛着のあるものだったのですね。そこには命こそ無いけれども、きっとそこに建っているだけで頼もしく思えるような、人々に愛される存在なのでしょう。言われてみれば、確かに私達の故郷にもそのような存在はあります。というよりも、その土地全体が自分の一部であり、故郷であり、命なのかもしれません。

取材者は現場で、皆様の悲しみや怒り、或いは私達が報道を見て想像しているものに比べたら意外と強く現実的でいらっしゃるのかもしれないその生の様子を確かに見て、声を聞いているのかもしれません。それが編集によって物語じみた内容に仕立て上げられてしまうというのは、編集者自信がその目で現場を見ていないからだと思います。体験したことのない、想像でしかないそれを目前にして、一つのストーリーとして解釈し、自分の中で納得するしかなかったのかもしれません。しかしその分だけ非現実的になり、受け取る側にとっても物語を聞いているような感覚しか覚えないようなものになってしまうわけですね。生鮮食材が遠い場所へ出荷されてしまう間に鮮度が落ちてしまうというようなイメージで、取材者から編集者へ、そしてその編集物を報道する人へと、段階を踏めば踏むほど生ものとは遠ざかって、形が変わってしまうような気がします。

かく言う私自身も、想像を以ってしか考えることができず、コメントをいただいて初めて「そうだったのか」と、自分のイメージと実際に被災者の方々が思われていることとの大きな差異を知ったのでした。

理想を言うならば、取材者と報道する人が一致していればそのような事は起こりにくいかも知れません。物語調な映像の編集中に違和感を覚えるはずだからです。しかしメディアというビジネスにおいて、一人一人が取材をし編集して報道までするということは例え有意義であっても非効率的という乗り越えられない壁があります。そこで、例えばボランティアの一形態として、取材から報道までの一連の流れを同じ人がするというものがあるべきだし、必要なのだろうと思いました。