からっぽな日々

夏の暑さと湿気にも慣れてくる頃、京都では祇園祭がピークを迎える。毎年何十万人と訪れる人たちは、一体どこから湧き出たのか不思議なほど。その喧騒を避けるように京都の中心を避けるように生活をするか、家にこもる。

静まり返った深夜の我が家でふらりと飲みに出歩きたい衝動を抑え、遠くの海辺に想いを馳せる。少し多めの酒と、花火と、ありあまる時間だけをもって闇にさざめく海と遠くで光る小さな漁船の光を眺めて、他愛もない会話や考え事。そんな時間が今過ごせたらと海の遠い京都で考えていた。

学生の頃は、暑苦しく眠れないので友達の家で酒を飲んだり、夜の街中を自転車で走り回ったり、なぜか大人になるとそういう時間は減ってしまう。夜はいつでも僕らの時間だったのに、気がつけば本当、遠い日のできごとのようになってしまっている。

意味もなく車を走らせて、知らない場所の朝焼けを見ることや、後先考えずに飲み明かしてしまう夜も、歳を重ねるごとに、そんな夜は減っていく。そんな時間を過ごしていたであろう夜に一人家で仕事をしていると大人になった反面、しっかり仕事している自分を褒めたくもなるし、遊び倒してない自分を攻めたくなる気持ちがぶつかり合う。

でも、人はグダグダしたり、意味もなく過ごす時間の中で人生の大きなチューニングをしてるんじゃないかと思う。全ての時間に意味があるなんてありえなくて、過去にあったなんともいえない無目的な日々に僕らは言葉にできない大切な選択や思考を重ねていたんじゃないかと思う。

10年以上前、土砂降りでやることもなく、ただ一人ぼっちに慣れない1回生の僕らは居酒屋一番で酒を飲み、お手元の袋の後ろに30歳までに成し遂げたいことを書き連ねていた。思い返せば青臭くなることを真剣に酒を飲みながら考えていた。何も生まない、名前のない時間。でも、そのお手元の袋に書かれたことを一つずつ成し遂げて、今僕がいる。一緒に書いていた友達は見事弁護士になった。

どうやればその値段で出せるかわからない日本酒を飲みすぎた僕らは、土砂降りの夜にケタケタ笑って転倒して、それでも笑ってびしょ濡れで家路を辿った。名前もない夜が今でも僕の記憶に鮮明に残っている。あの日があって僕がある。

小豆島でも穏やかな海を眺めて、何もしない時間を覚えている。それも名前もない時間であるが、僕にとって大切な瞬間だった。日も暮れて、防波堤に寝転んでバカみたく見える星空を眺めて、何も考えず、何もせず、手元の酒を全て飲み干した。

意味を求めすぎている。そんな気が今夜した。意味を求めて、意味を探して、無理やり意味をつけて、なんでもない日をできるだけ減らすことが安心になってしまっているのかもしれない。大人になって色々なことがわかりすぎて、あの頃、何もわからなかった自分が過ごす日々はとても意味があったことを知る。当時は意味なんてない日常だったことに今意味を見出す。本当は、そうやって過去を見つめ直して意味を見つけてくことが正しいのかもしれない。

インスタントな意味づけを、ついついしがちなのかもしれない。
意味なんて大抵後付けでいいのだ。今日がどうだったかなんて、未来の自分の肯定のために空っぽにしておこう。バカで何も考えてなかった日々のことの方がなんだか大切に覚えているのだから。

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