そう信じて今日も書く。

できるだけ毎日何かを書く。厳密に言うと大学生の頃、尊敬する先生に、どうやったら文章はうまくなりますか?と相談すると「書け、毎日書け」ただそれだけを言われて、若かりし僕はそこから8年ほどブログやSNSに誤字脱字も気にせぬまま、文字通り書きなぐってきた。

本職では無いまま、書評の依頼がきたり、本職の方では企画書に書いたコピーがそのまま受け入れられでかでかと展開したり、その派生でコンセプトを作る仕事など、気づけば枝葉が分かれて血肉化しているように思っていた。

そこから数年は毎日何かを書くよりも仕事で何かを書いてる時間が圧倒して、改めて思い返すと「毎日書く」を仕事のせいにしてサボっていた。去年の末くらいから、何気なしに再スタートし、10数年前ほどの勢いはないにしろ、できるだけ何も書くイメージがなくとも(あったためしが無い)ペタペタとタイピングするようになって気づいたことがある。

「毎日書け」というのは、目標とする「文章が上手くなる」ためのトレーニングではなく、食事をしたり、寝たり、トイレにいったり、そういった行為と並列だったということに気づいた。トレーニングではなくて生活なのだ。

それに気づいたのは最近で、恩師のアドバイスもこのような気づきを与えるために端的な回答だったのだ。これは自分で気づかないと意味が無い。実際に書き続けないと本当に意味が無い。さすがである。

いつもまったくの真っ白い頭の状態で考えるより先に文字が先行している。今もまさにそうだ。なんか急に書くことを書き出したなと追いかけて思っている。今もだ。それでも自分が言語化できないまま何か感じていたことをツラツラと書き連ねることで炙り出そうとしてる感触がある。

まさに言葉とは、再現性の低い像を言葉という表現をもって他者の頭に再構築する道具である。それは書き手と読み手という関係性だけではなくて、書き手から書き手へという流れで主に僕は言葉をサプリのように使っていると気づかされる。

毎日、しっかりとした睡眠を取ることが健康上大切なように、毎日、しっかり言葉を落とすことが精神衛生上とてもいい。1日を過ごす中で感じた物事を言葉で記録する行為の中に感情の再確認が含まれている。

そうやってこうやって何かを書き続けているうちに「物事の本質的なことを抽出すること」が「上手な文章を書く」より、よっぽど大切なのだと気づく。後者はスキルで、前者は人間性である。豊かな人間性からこそ、人を動かす文章が生まれるはずだ。そう信じて今日も書く。

ちなみにこの結末も5分前には考えもしていない。さらにいうと5分以上時間をかけて書いたことが一度も無い。駄文でいい。言葉にすることが大切なのだ。

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