丑三つ時は思考の旅

夜は思考を運ぶ。疲れもなく、時間だけが有り余る大学生の頃か。大人になってしまって眠ろうにも考え事が多すぎる今か。今日は割と前者が近い。時計の秒針だけが唯一動いているような錯覚を怯える。

考えないことより、考えていることの方が好きだ。アイデアでも、人生でも、明日何しようかなでも、いい思考の大半は未来に向けられた望遠鏡のようである。そして、過去に向けられた視線は思考ではなく後悔という。

最近、とても退屈だ。そういう時は自然と小説なんかを読んでいる。現実世界が退屈だから物語に逃げている。それがいつもの僕の癖でもある。もうこの2週間くらいで3冊ほど読み終えてしまった。そういう時は大概自分が退屈な存在として、暇な状況を生み出した当事者でもある。

家であくびをする猫。紙を超えてお絵描きをしちゃう子供。自由な存在が身の回りにイキイキいることがとても刺激になる。お餅を盗んだ猫も、レゴを広げすぎた子供も、やりたいが先で、どうしようが後なのだ。

大人になるとどこにその馬鹿さを置き忘れたのか、どうしようが先に来る。これはとても虚しいことだ。特に僕のような人間はこれで気持ちが患う。自由にできない環境に僕がいても意味はない。大人になると無意識に大人たるルールのもとに自分では自由にできない環境の壁をこしらえているときがよくある。

こんなに真面目な大人がいっぱいいてくれるのだから。その人たちと同じことをしても意味がない。そこはよろしく頼んだので、 僕は自由にやらせてもらう。なんのために生きてるかってね、その人にしかわからない。あぁ、この人このために頑張ってたのか!ってのは、やってしまった後にやっと理解してもらえるんだろう。

少し周りの目線や声におどおどしすぎな世の中だ。それは間違ってるという人もいれば、それは正しいという人もいる。でも本当は、誰かの意見なんかに耳を貸さないこと、周りがこう思うも無視すること。誰の助言もアドバイスも聞くなってことだと思っている。

今日の夜は、そんなことを考えていた。大人になればなるほど配慮すべきものが増えて、つまらん。そのつまらなさは常に自分が運んでいる。えらい高い壁をこしらえたな自分よ、と思いながら、それを瓦解させるべく思考の旅は続く。