後ろ指さされることなんて、後ろ見ないとわかんない

もうだいぶ前になる。調べたら5年ほど前だった。こういうブログを書いていた。

生まれてこのかた、人の目を気にせず生きており、今日においても体質的なのか、他人の目も声も気にせずにやってきた。それはこれからも変わらないだろう。

ここ1年くらい、良いことも悪いことも人から「こんな風にいわれてましたよ」と聞くことが増えた。いや、結構この年になると見られるものなんだな。ふーん、とポジティブもネガティブも右耳から入って左耳から出て行く。

良いことでも、作ったものに対しての評価をしてくれている。ありがたい。ありがたいが、関係者全てに言えることだけどもそれは過去のことなのだ。何かができたとき、その瞬間すでに至らなさに打ちのめされる。もっとできたとか、どんだけ結果でていても、しばらくすると「あ!そうじゃなかった…」と気づくことがある。達観というのはどこまで積み重ねると至れるのだろう。死に際か…ってぐらいだ。

悪いことも、いろいろ言われる。毎日何かしら発信してるから、イラっとすることがあったのか、心配してくれてるのか、わからない。詳しく聞くつもりもないので、同じくふーんである。失礼なのかわからないが、そんな遠くで言うことは、その距離と同じくらい僕にとって遠いことである。

僕が大事にしてることは、良いも悪いも、直接言葉で伝えてくれる言葉と人だけに向き合うことだ。とても良い仕事をしてる人に、嫉妬しますわと素晴らしい仕事ですとできるだけ、直接あって伝えている。どこがよかったのか、結構細かく、伝えている。人を褒めるってすごい恥ずかしい。告白みたいだけど、好きですとしっかり伝える。

逆にあんまり悪いよね、そこっていうことはない。別にそんな悪いことだらけの人と付き合ってないからかもしれない。どこかを褒めるということは、そうじゃないところは褒めることでもないってことでもあると時々思う。全部が全方位でよくなれば良いとも思わない。

自分も身の回りの人も、すごいところをすごく良くなくっていくだけで良いと思っている。距離的にではなく、言葉の限界でもあるが遠い人は遠い人なので遠いままで良い。近い人は勝手に近くなる。一緒に良くなっていきたいなという人だけが普通に生きていれば身近にいるだろう。たぶん。

後ろ指さされるとか、陰口言われるとか、生きてるとあるでしょう。だまって生命の存在そのものを消していれば言われないだろうけど、生きてるからしょうがない。

後ろ指差す人は、物理的に自分の後ろにいる。僕が向かう目線の先ではなく過ぎた過去にいる。振り向く余裕はないので、僕の中ではもうない人である。とりあえず、今と自分の最も手強い敵は自分自身であり、他人どころではないのが正直なところである。

陰口も同じであろう。そんな建物の隙間の影でこそこそ言われても、気付きようがない。目の前に面白そうな燦々と日光を浴びる遊び場に向かっている自分からすると、そんな日陰にずっといることがなんだかよくわからない。そんな遠くの声は届かない。

自分のことでこんないっぱいいっぱいなのに、誰かのことを心配する時間がない。そういう意味でいうと後ろ指差す人も陰口叩く人も、優しい人なのかもしれない。自分ではない誰かのことを心配する余裕が今の僕にも未来の僕にもあるのかがわからない。

良いことも悪いことも、どちらでも、僕のことに数秒でも時間を使ってくれたことだと思う。ありがとうございます。じゃあ、それぞれ次の自分のことをはじめましょうか。そっちのほうが楽しいと僕は思う。

「誰も君のことなんか見てない」を書いてから5年。何気に見られていて、改めて、誰かを見てる時間は無駄だなと思ったのでした。あんまり近くを見すぎると目が悪くなる。その目は僕を見るより、もっと先を見たほうがいい。

せっかく脳みそ直近の高機能な目玉2個もってるので、今起こる様々なリスクを見ることと、もう一つ遠い先に走る先人の背中や、誰も見たことのない未来を見るために、その目を凝らしてほしい。

あと、良いことも悪いこともどうしても言いたいことがある人は、飲みにでも行こう。そこで話そう。酒でも飲んで教えてください。どちらでも、ありがとうと言えるので。自分以外のために割く時間は、直接その人と過ごす時間が僕は最高だと思ってます。

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