静かな海

海のない街で育った。見えるのは山。冬には雪。記憶に残る風景は、真っ白な雪原と数メートル先も見えないほどの吹雪。誰しも多くの美しいものを見る機会があり、丁寧に記憶されている風景があるはずだ。

さっきまで歩いてきた道のりが足跡として残る。ぼうっと吹雪に立ち尽くし、オレンジ色にぼやけた遠くの街灯を眺めていると足跡は白い雪にかき消されている。たった少しの軌跡すら白で埋め尽くす自然の圧倒さの中にポツンと佇む感じを今でも思い出す。

今は雪も積もらぬ京都で生活をしている。大学生の頃も、少し東京にいた時代も、1人で何も考えていない時、僕は記憶の中の雪原に佇んでいた。そこが一番落ち着くのかもしれない。本当に心を空っぽにできる場所は、圧倒的なものを目の前にすること以外、方法はないのかもしれないなと今は思う。

その記憶の中の大切な風景に静かな海辺が増えてる。昨夜、終電を逃し大阪から京都へ戻るタクシーの中から、寝静まって真っ暗な街並みを眺めながら、僕が見ていたのは静かな海だった。

会社を立ち上げ、慌ただしく働く中に瀬戸内国際芸術祭に関わる機会をいただいた。小豆島の坂手という港町に2週間ほど滞在し、作品を制作する。僕が生まれ育った北海道とは真逆の、真夏の、直射日光と目をほそめるほど光り輝く瀬戸内海。静かに波がうねるように時間も同じようにゆっくりと流れている様は北海道と唯一似てるのかもしれない。北海道は草木が風に揺れる風景が、時間の流れとシンクロしているように思っていた。

東京や、大阪、京都といった都会に住むと、離れた田舎としかいいようもない町で過ごすことは退屈なように思われる。しかし、北海道で生まれ育った人間からすると、多くのもの、こと、ひと、言葉がひしめく都会は生きづらく、息苦しく、何か言葉をかわさなければいけない強迫観念のようなものを植え付ける。

あまりに何もしゃべらないときと、やたらと話しまくるギャップに初めましてな人たちを何度も困惑させた。気分屋だとか、AB型だからとか、そういうのもあるのかもしれないが、平たく言うと、しゃべることも、しゃべらないことも、僕の中では等しく対話である。

家で飼うペットたちを膝に抱えて撫でる時間を理解できても、無言でぼうっと誰かと酒を飲んだり、川を眺めたりする時間に、言葉がたりず落ち着かない人は、たいてい僕といると無駄に気を使う。申し訳ないと思う反面、そんなに言葉が必要かとも思う。

小豆島に初めて降り立った時、僕たちが宿泊するエリエス荘や、ボロボロの食堂にいくと「波打際、なにもしない。」というコピーと、浜辺で椅子に座って、海を眺める女性2人というポスターがあった。僕は今でもそれをいたく気に入っており、最終的に何年も小豆島と関わりを持つ中で、僕は小豆島に「なにもしない」ために行くことが目的となる。

坂手から少しだけクルマを走らせる。クルマがないときは自転車でいってもいい。海沿いの道をうねうねと進むと、美しい浜辺が広がる。観光客もいない静かな海。遠くで見ると青から紫へと美しくグラデーションした海なのだが、足元にゆらめくそれは至極、透明で全てを見透かされているようだ。小難しいことも、仕事のことも、ささいな苦悩も、その海を前に意味を見出せないほど、美しい佇まいである。

海外や、別の観光で有名なビーチでも、そういった海があるのかもしれない。ただ、なぜかあそこの海だけは僕にとって特別で、足跡もかき消される白い草原の風景と、あの浜辺でぼうっと海を眺めている風景のどちらかに僕は時々たっている。気がつけば大切な風景が増えているなんてことは、初めてだ。そして、どちらの風景も愛おしい。

僕が記憶する風景は、そのような存在でありたいという憧れの表れなのかもしれないと、昨夜のタクシーで思った。たぶん、そうあることが自分にとっては望むべき未来なのだろう。けど、もう少しだけ混沌の中に佇もうとも思う。その風景が当たり前になったときに、何か失ってしまいそうな怖さもある。ひとしきり、この混濁した状況を泳ぎきり、飽ききったのちに、その景色を当たり前にしたい。

無言の中に言葉を見出すこと。それは、無尽蔵に流れ出る言葉から何かを探すより大切なことである。

気がつけば、やることに押しつぶされそうな日々も、何もしないことが勝ってしまうことがある。それは仕事という定規で図ると見えてこない、もう一つの価値ではないか。人はそういった時間と視点を往々にして、忘れてしまうものである。それに気づいた時、僕は静かに目を閉じて、記憶の風景に足を運ぶ。そこにあるのは静寂と抗えないほどの圧倒的な存在。

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