コミュ障が生まれる過程と人格を損傷する「自由」の関係(メモ)

先日の関西でのclassoncloudの食事会にて。
コミュ障や後天的な社会不適合に端を発する中等教育に見られる問題のまとめ。僕はこうした議論を見たことがありません。よってまずは僕の「オリジナル」の議論となります。走り書きですがとりあえずup.
①一部の進学校ではいわゆるコミュ障が毎年量産されている。
②(ⅰ)しかしコミュ障だろうがなんだろうが「健全」な人間であることには変わりがない上、ペーパーでの評価とは無関係であるから問題ないとする、当事者はもとより学校側や父兄の周辺の人間の暗黙の了解がある。
(ⅱ)それどころかこの傾向を助長させる現象が顕著に見られる東大受験塾その他が存在し、むしろこの存在は入試で結果を出すという文脈において肯定的に捉えられている。
③(ⅰ)コミュ障にまつわるテキストを一部漁った結果、人間極端に特殊な訓練ばかりを積み上げていくと、当該分野における処理能力が向上する反面、危機管理能力が不可逆的に、つまり一生失われることが判った。
(ⅱ)より具体的には、動物性の意思決定回路が死んでしまうことで、人の表情から怒りや不安を読み取る能力が失われる。この結果共同体や組織の中で協同して立ち回ることができなくなる。
④③を誘発するインセンティブは平均的な学生にはわからないが、競争の激しい進学校という環境下にあって、自分の能力を差異化しようとする結果、自ら奇人変人になりたがる層というのが一定割合存在する
⑤つまり当事者たちは、危機管理能力や、人格形成上中核をなす、人間関係の構築力を代償として、高度な処理能力を手にいれる。
⑥しかも⑤の意思決定は誰に強制されるでもなく自らの意思で行う(ここ重要)
⑦ここで問題になるのが、「人格を損傷する”自由”」なるものが果たして存在するのかどうかという点。
⑧(i)憲法では自殺の自由は認めていないどころか犯罪として認めている。
(ⅱ)人格を自らの手で損傷するという、いわば精神面での自殺を図るならば、物理的に自殺まで追い込まれるのは時間の問題。
(ⅲ)しかしそうならないのは環境がお手盛りに、過保護な状態で学生を隔離しているためそれを回避できているに過ぎない。
(ⅳ)しかもこの回避にかかるコストは自費でまかなうのではなく、周囲の人間の労力に頼りきりになったり、国費を投入されることで環境が維持されていることもある。
⑨(ⅰ)危機管理能力の大幅な欠如や人格形成の失敗は、教育というミッションの失敗を意味している。つまり自立を促すどころか人間疎外を促す真逆の効果を生み出している。
(ⅱ)そればかりではなく、共同体の中で生きていくための公共の福祉すら守ることができなくなることを意味する。しかも、繰り返しになるが、この変化は不可逆的であるため一生治らない。
⑩これら一連の議論を踏まえて、⑦を真剣に議論するべき段階に来ている。
憲法の議論を敷衍するならば普通に考えて「人格を損傷する”自由”」を行使する意思決定は違憲行為ということになる。
実はこれ以上にcriticalで、文字どおり国内全体に悪影響を及ぼす論点があるけれどもとりあえずはここで区切る。
