インストールはできても教育はできない

工場のような、生産性が無慈悲に数値化できる世界、大型居酒屋のような顧客満足がすぐに査定できるような世界、ソルジャー型な飛び込み営業がものを言う世界、こういうのは、いわゆる「教育」が大事だと思う。そういう業界の経営者は、人を育てる大事さを常々言う。いわゆる、と言ったのは、そこで使われる「教育」というのは、「焼きを入れる」とほぼ同じ意味だと暗に示したいからである^^;

実態は、育てるという言葉の意味が持つ、温かさとかが利用できるから、育てると言っているだけで、厳密には育てるのではなくて、インストールしている、という感じ。よく言えば、型を習得させている。悪く言えば洗脳。5Sという日本の美徳、その中でも、躾。犬の訓練やガキのメシの食い方と同じように大人を扱うのを日本では教育と呼んで良い事になっている。

それが機能した理由は、人間性が必要なくて、機能、ファンクションが整えば儲かった仕事が昔は大半であったから。これからどんどん少なくなっていく。

そういう過渡期で、「教育」という好ましい、前向きさを持つ抽象的な言葉に惑わされて、自分がやってる事を見失いやすい。

あるいは、インストールするのが上手な人が、身の丈を超えて、教育もできると思ってしまう。そういう事が続いて、ワタミの社長を代表するような、経営者が続々と生まれたのだろう。彼らは自分ほど人を育ててきた人間は無いと心の底から思っている。ただ、周りからしてみれば、そうではない。そこに埋めようのない断絶がある。ワタミはインストールの達人ではあったが、教育はしていないからだ。

じゃぁ、教育ってなんだ?

現状の僕の結論は、教育は幻想であり、誰もできないので、教育はしないほうがいい。

という身も蓋もない結論である。

人は変われない、変わるなら自分が変われ。

これはよく言われる。ほぼそれと同義である。

人は教育できない。教育したいなら自分を教育せよ。

つまり、自分で自分を教育するしかできない。他人がやれるとしたら、その人が今まで気づけていなかった良さを見出し、鼓舞する事だ。

自分は人と話すことが嫌いだから営業なんかできない、と思っていた人に、その分析力と観察眼を見出し、あえて営業としてデビューさせて成功させる・・・とか、そういう事が、教育に近い事なんじゃないかなと思う。

つまりは、モチベーションを自家発電し、核融合のように原料が無くても莫大なエネルギィを生み出してやる。

だから、それは料理に例えると、ラーメンのような雑味の美味しさではない。昆布出汁とカツオ出汁と鶏ガラと豚骨を混ぜ合わせて究極のスープを作るというような、足し算の話では無い。

あれもこれも、勉強させて足して足して足して足して、という事で結果が出る世界と信じているからそうなる。常に勉強しろ、努力しろ、という全うな意見を言っていれば、身の安全が保証される、持つものが有利な構図。持たざる者は疲弊する。

そういうのが有効なケースもあるかもしれないが、素材の本当の良さを見極め、余分な事を排除してこそ至高の味に達するものもある。料亭のお吸い物とか。

人の育成、人材教育、道徳、生き方、この手の事を言っている人を抽象化すると、羞恥心が無いから、人前でそういう事が図々しく語れる。という逆説が生まれる。だから、言っている事とやっている事が乖離する。でも、羞恥心無く、猛烈に働くほど強いことは無いので、一定数は成功する。そして、有名になり、必ず一線超えると下半身のスキャンダルが暴露される。

教育、という抽象的な言葉をもっと分割して、精度の高い自己投資ができるようになれば、個人も会社ももっと良くなるんではないだろうか。

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