謙虚さと謙虚道

謙虚であれ、というのは、水戸黄門の印籠的な、万人が認めざる得ないお言葉だとされているのが気持ち悪いと思ってきた。それ言えば、相手をやり込めたり、反撃を防いだりできる呪文みたいなものだと。

「いいか。うまく行った時ほど調子にのるなよ」

「褒められたら、いやー、運がよかっただけです。とか言うんだぞ」

よく、父親などに言われたものだ。確かに、親が子に言うべき、含蓄がそこにあるが、その親の気持ちは子に伝わらなかった。

むしろ逆効果で、子供の時「謙虚」なんてのは嘘くさいと考えるようになった切欠になってしまったのでたちが悪かった。そこからずっとピラニアのいるアマゾン川を食われながら泳ぐような人生になる羽目になったのだから。

で、いい年になって思うことは、ようやく「謙虚」という言葉の意味がわかりつつあるな。という感じでして。

「謙虚的な立ち振舞い」と「謙虚」は全然違い、両方持っていると美しく鬼に金棒ですが、日本で強く求められるのは「謙虚的な立ち振舞い」であって、「謙虚」は重視されていなくて、それが僕が子供の頃から混乱していた原因なんだな。という結論めいたものが出た。

身のこなし、お礼のいいかた、感謝の表明の仕方や表情と頻度、こういうものをポケモンGOのようにコツコツ貯めこんで「この人、謙虚な人だなぁ」という評判を勝ち取るゲームなんだ、と理解できた。

で、僕が思っていた謙虚というのは、どちらかと言うと、無力感とか絶望に近いもので「こんなに一生懸命やったのに、大して理解できないなぁ」とか、「ああ、この人自分とは全然違う考え方で、好きにもなれないけど、確かにいいとこ突いているよなぁ」とか、そういう風なもの。人に示したり、表現するのではなくて、自分と自問自答する状態なんです。

謙虚的立ち振舞の強者の落とし穴は、「自分は自他共認める謙虚な人間」という錯覚を持ってしまうので、逆に謙虚に向き合うことが無く、結果としては謙虚とはかけ離れる事なのかな。と観察しています。謙虚なしぐさ職人として謙虚道の達人になるべく集中すると、謙虚な気持ちそのものを忘れてしまうように世の中できてるんじゃないかなと。

僕の皮肉な見方もあるけど、だから傾向としては、謙虚っぽい人ほど謙虚とは遠く、謙虚の欠片も無い人に謙虚さが垣間見える、という事があって面白い。

「オマエ、もっと謙虚になれよ」と無骨な人は、色々言われる機会が多いからか、謙虚に無意識に向き合うんじゃないかなと。僕は少なくともそうだった。

「もっと謙虚に人の話聞けよ」

確かに、僕は人の話を聞くときに、真剣に聞いている時ほど、相手には聞いていない印象を与える事を経験的に知っているので、そう言われると辛いものがある。

逆に、ちゃんと聞いているように見せかけて、相槌を打つ事に集中すると、中々話をきちんと聞けない、という事も知っているので、相槌上手とか、謙虚な姿勢で耳を傾けるの図、をしている人を見ると、「ああ、大して聞いていないんだな。この人」と思ったりもする。

話の内容なんかどうでもいいのが大人の世界で、もっとチンパンジー的な、鳴き声や、奇声や、呼吸に応じて、どう相手が反応するか、という原始的なコミュニケーションが実は求められている。

「ウホ!」

といったら

「ウホウホ!」

と言わなければならない。とか、そういう掟に従っているか従わない奴なのか、それをチェックしている動物的な本能だ。

「とりあえず、ありがとう連発しとけばいいんだよ」

「いや、それ以上に大事なのは、自分の意見を言わない事だ。要は、沈黙は金なんだよ。金って、カネっていう意味だからな。文字通りカネになるんだよ。だまって微笑して、頷いているだけで俺はやってきたんだから、間違えねえよ。綺麗な身なりして、どこにでも顔出して、何もしゃべらない。これに限る。後は勝手に相手が良く言ってくれるから」

関わった相手の気分を良くさせる事は、僕は絶対的に善だと思うので、そういう人に大して、深いリスペクトを感じるし、自分にはできない事をやっている、と謙虚に受け止めているけど、そいつらの事は好きにはなれねぇな。

謙虚というのは、そういう事じゃなくって、嫉妬とか、決めつけとか、自分のスタイルとか、レッテルとか、劣等感とか、そういうのから自由になった人の態度、ぐらいなんじゃないかと想像する。

だから、若者はなかなか謙虚にはなれない。若いうちは、嫉妬や劣等感が多く、年寄りになるほど、エネルギィが低減して、なくなってくるから。

そういう人間の汚いところから自由になった状態が謙虚だとしたら、人生の大きなテーマとして追求する価値がある。

ありがとうを連発する謙虚道には、勝手にやってればいいんじゃないすかね?ぐらいしか感想が持てないんですよね。