スペキュラティブ・デザイン

この本を読んだ。

私たちが本書で話しているのは、現在の物事のありようについて実験を行い、改良したり修正したりするための場ではなく、全く別の可能性を考えるということなのだ。
私たちが興味をもっているのは、むしろ物事の可能性に関するデザインだ。
p39
理性の仕事とは、経験の主張する事柄が確定的なものであることを否定することである。そして、経験が従うべき概念を提示することで、我々の経験の限界を押し広げることなのだ。
p40

スペキュラティブ・デザインの最大の意義は、現状に対する代替案の提示することだそうで。それは、未来予測を含んだ代替案というより、もっと根本的な代替案を示すことが強調されている。根本的な代替案は「 既存の正常さのなかに潜む欠陥を浮き彫りにする」ものであると。

しかし、スペキュラティブ・デザインの実例として紹介されているもののほとんどが、デザイナーが先端的な科学者の知見をもとにしたプロトタイプを示すことが多いように見受けられた。つまり、スペキュラティブ・デザインが示すものの多くは、現状に対する根本的な代替案というより、先端的な科学者であれば当たり前に想定されうる”未来”をプロトタイプとして示しているに過ぎないのではないか?と思う点が多かった。例えば、このようなもの。

リヴイタル・コーエンはLife supportシリーズで、消費用や、娯楽用として商業的に生み出された動物を、ペットとしてだけではなく、体外の臓器代わりとして使うことを提案している。p104

このような例は、技術発展の先に見いだされうる代替案を示すものであるが、果たして、それが「既存の正常さの中に潜む欠陥を浮き彫りにする」のか、と言われれば疑問がある。バイオテクノロジーに対する批判や、動物愛護という観点からの嫌悪感などは容易に感じることができるが、それは改めて強調されるべき批判的観点としては弱い部分があるように個人的には思う。

むしろ、筆者が本の中で言及しているように、スペキュラティブ・デザイン的なコンセプトを良く体現しているのは、デザイナーというより、小説家、科学者あるいは映画監督なのではないかと思う(個人的には起業家も付け加わる)。その理由は、小説家や科学者、映画監督は、かなりリッチなコンテンツを私たちに届けることができるからだ。一方で、(筆者が定義する)デザイナーは、小道具を提示するという表現方法しか持っていない(ように思えた)。この超制約的な状況=小道具を掲示することくらいしかできない状況において、「既存の正常さの中に潜む欠陥を浮き彫りにする」作品を生み出すのは並大抵のことではない。仮に、それを表現できたとしても、それは文脈依存的になる。つまり、鑑賞者を選ぶことになる。

スペキュラティブデザインの小道具は、物理的な提喩として機能する。つまり、その小道具が存在する世界を見る者に思索させるために、部分で全体を表現するするわけだ。p140

この理想はかなり刺激に満ちているが、それを実現するのはかなり難しいようだ。実際、この本の中では、上記の理想を実現している実例があったように思えない。

例えば、ミシェル・フーコーの「狂気の歴史」は、「既存の正常さの中に潜む欠陥を浮き彫りにした」作品であると断言してよいだろうと思う。この作品には膨大なテキスト量と膨大な引用、そして読み手の膨大な時間を必要とするものである。それによってはじめて、「既存の正常さの中に潜む欠陥を浮き彫りにした」作品が実現可能になるのではないか、とさえ思う。

その思いが強くなればなるほど、結局、スペキュラティブ・デザインという理想そのものが実現性のないもの、として捉えられるような気がするのだ。

スペキュラティブ・デザインとは、デザインという業界に対するデュシャン的な問いのはじまりで、デザインからクラフトマンシップを引き離すものなのかもしれない。

そして、それは僕にとって非常に残念ことであるし、また、結局、デザインの本当の力をそぎ落としてしまうものではないか、と思ったのです。

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