知性の正当性について

今後、世界はどう変わるのだろうか?ということを予想する本がたくさんある。5冊くらい読んでいて分かったことがある。それは、みんな同じようなことを同じように語っている、ということ。どれも、現在のITテクノロジー、ロボティクステクノロジー、バイオテクノロジーなどを観点として、「これだけすげぇ未来が来るぜ。このままだとみんな置いてきぼりにされしまうかもしれないよ?大丈夫か?」的なところがある。そういった未来予測本のほとんどがアメリカ人が書いたもので、あるいはアメリカナイズされた日本人書いたものである。あまりにも、彼らの未来感が似ているように思うので、びっくりしてしまう。だからこそ、自分の立つべき位置のようなもののヒントがもらえるという良い点もあるわけだが。

いろいろと批判めいた点はありつつも、そんな未来本のなかでも一線をかしているのは、正当な科学者が書いたものだ。ミチオカクさんのフューチャーオブマインドなんかは、物理法則に反していないかどうかをひとつの基準にして、記事を書くという明確な方針があるから信頼感がある。何より、彼自身が物理学者であるわけだから、物理法則に関する造詣は、文系コンサル系の未来学者と比べれば断然良い。「こんな未来が来る可能性は物理法則としてはあり得ることであるが、それを実現させる工学的・経済的な問題を考えるとまだまだ先のようだ」ということを、しっかりと科学的根拠を持って記載してくれているあたりが文系コンサルと異なる点だ。もちろん、科学者の持つ目が最も正当である証拠なんてどこにもない。文系コンサルのほうが正当であるかもしれない。が、そもそも正当って何さ?という話にもなる。

僕は、その知性に背後にある「 正直さと高潔さ、探求への情熱、未知の世界を見たいという欲求。オープンマインドさ」のようなものを正当性の基準にしてみたい。そうしたときに、文系コンサルよりも科学者のほうが、正当性が高そうだし、実際高いであろうと、僕は個人的に結論づけた。だから、それは自然科学者だけでなく、社会科学者、在野の研究者でもいい。そのテキストの論理の積み重ね、実証性、などの観点から、「あ~いいなぁ」と思えば、それでオッケーなんです。

正当な知性とは一体なんなんだろうと

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