表現とコンセプトとクオリティについて

実家ですごして3ヶ月あまり。仕事の合間に、久々にピアノにいそしむ。「指を動かそう」という意識から離れるほど、指が動く。よい音を出すために、指が勝手に動く、その感覚が何かに似ていて、それは麹室で米をときほぐすあの感覚なのだと気付いた。

数年前、麹の引込み時の手入れで1度だけ経験した「ZONE」。脳の血流が増大し、体や指の感覚がなくなり、目の前の蒸米が意のままにほぐれていく感覚。そのとき意識したのは「米をほぐす」のでなく、「米がほぐされる。自分によって。」という忘我。

現代に生きる伝説の杜氏、農口杜氏は「麹や酵母を中心に考えろ。自我が出ているうちはまだまだ。」という趣旨の言葉をよく発されているが、おそらく同じ感覚なのだろう。

忘我。手段と目的の倒錯を究極まで突き詰め、正し、クオリティの体現のために自身の身体感覚すら解き放つ感覚。

それは奉仕や自己犠牲ではない。逆に、自己の可能性を見つめ活かす方向性。概念やクオリティと、そのイメージによる結果が、自分という芯を通して繋がったとき、芸術という表現が完成する。手段と目的の倒錯から離れ、コンセプトと具現を垂直統合することが創造であり表現者たる在り方。

手段や自我のレベルで終始してはならない。
概念と具現の垂直統合において、概念まで遡る“哲学philosophy”&概念を具現にまで繋ぐ“芸術art”。双方向の鍛錬が不可欠。酒の道もこの領域にきっと連なっていると信じる。

一方で、コンセプトまで遡れず浅い議論、作業自体の目的化、自己という手段が目的になってしまうエゴ、世の中にはそのレベル感の出来事があまりに多い。誰かが考えたコンセプトを階層的に実行していくのも理解はする。

創造と表現を志す場合は、その垂直統合が第一義。