「民放がNHKと異なりタダで見られるのはCMのおかげだからCMを容認する」なんて人はほぼいないわけで、基本的に広告というものはネットにかぎらず歓迎されていない。
一方、メディア側は「タダ」で提供することが競争上避けられなくなっていて、そのために広告収入は不可欠になっている。
雑誌はタダじゃないぞという指摘もあるとは思うけど、広告が入らなかったら雑誌はいまの価格で売れないことは自明だよね。

まず大前提としてメディアの原価構造なんてことに関心を持つ視聴者・読者は少数派で、ゆえに広告が必要悪だとしても、そう認識されていないという事実がある。

ただしネットの場合は広告位置(≒バナー位置)がわかりやすかったこともあり無視しやすいためにそれほど大きな問題にはならなかった。
画面上のバナー広告など広告的なものを「見えてるけど見ない(見てない)」ことを指して「バナー・ブラインドネス」なんて呼ぶけど、これはメディア側にとっては深刻だけど「広告が多いからこのサイトを見ない」とはならなかったのは不幸中の幸いともいえる。
(CPMはどんどん下がるので、それを補うために広告スペースが増えるけどね)

ネットにおいて広告は嫌われものでありながらどうにかユーザーと共存できていたのに、昨今スマホ閲覧が一般化したために、通信料の節約を理由に「広告を消したい」という声が大きくなってきたのはたぶん予想外。
(もちろん画面を専有して強制的に見せるタイプの広告はネットでも激しく嫌悪されてきた)

そうしてアドブロックが技術的にもそれなりのレベルで実現可能になり、ユーザーの「見ないんじゃなく、最初から表示したくない(それによって通信料を抑えたい)」という要望が顕在化すると、メディアとしてはバナー的な広告はもう未来がないと認めざるをえない。

スマホの影響はデザイン面でも起きていて、ようするにサイドバーやフッタでの広告枠が事実上消滅したので、いままでのように広告を配置しようとすると、メインエリアに置かざるをえないというのもあるよね。
シングルカラムレイアウトで、無限スクロールのサイトをつくろうとすると広告が置ける場所なんてコンテンツの間しかないわけで。

これはなにも広告にかぎった話ではないのだけど、スマホの普及(ウェブ閲覧のスマホシフト)が根本的な構造変化を求めているというのは興味深い。

つづく、かもしれない。
書いてないのは

  • 広告はほんとうにジャマなのか、ネイティブアドだけがまぎらわしいのか
  • むしろネイティブアドって従来の広告がスパム化していることを真摯に受け止めた人たちがはじめたんじゃないのか
  • それを都合よく解釈して新たなスパムツールにしたのはべつの連中じゃないのか
  • とはいえそんなのはユーザーの知ったこっちゃないから、けっきょく業界に自浄作用がないのが問題なんじゃないの

などなど。

新語をつくってごまかしてる感があるのは否めないけど、広告主にとっても、メディアにとっても機能しない広告に意味はないので、新しい拡声器としての広告は必要だよね。
それは(現状の反省からはじまってる以上)ユーザーにとって「それなりに歓迎されるもの」になってると思う。

広告の再定義。広告の再発明。


「まんがseek」のタグラインは「みんなでつくるマンガデータベース」ですが(2000年にオープンした際は「みんなでつくる世界最大のマンガデータベース」とより大仰なものでした)、今回の復活にあわせてコンセプトをあらためて言語化しました。

それは「マンガに関するあまねく情報を収集・整理して、索引化する」というものです。

現在公開している人物や作品のデータはぼくらがつくろうとしているデータベースの一部に過ぎません。
すでに作成中の商品、人間関係、掲載誌に加え、作品同士の関係性(続編やスピンオフなど)、雑誌の号単位のデータなども順次つくっていく予定です。

ひとりの漫画家がいて、その人が誰と関係しているのか、その人はいつどんな作品をどの媒体で発表したのか、そしてそれはどこで読めるのか。

マンガのデータはかなり複雑です。
ペンネームも複数使い分けますし、藤子不二雄先生のようにコンビで描くケースもあります(おまけにのちに個人で描くようになったケースもありますね)。
どこで読めるかについても、15年前には普及していなかった電子版や、「絶版マンガ図書館」のような場も出てきてます。縦横無尽にデータがつながっています。

こうした基礎となるデータがあって、だからこそその上にさまざまなデータを関連づけていきたいんです。

たとえばレビューとか。現在、ネット上のマンガについてのレビューはAmazonへのアフィリエイトリンクなどで集約するくらいしかできませんが、これを作品IDでまとめて読めたら(しかもコミックスの巻数や雑誌の号数などを使って時系列で整理して読めたら)とても楽しいと思うんですよね。

あるいはニュース。
そう、今回公開した「マンガヲッチ」はそのとっかかりとなるものですが、ニュースにもIDを付与したいんです。

マンガについてのニュースは出版社のサイトはもちろん、アニメ化ならテレビ局のサイトに掲載されたり、コラボ商品ならそのメーカーのサイトで紹介されたりとさまざまな場所にアップされています。
「コミックナタリー」のようにそれらをかなりの範囲で収集してくれてるメディアもありますが(とても助かりますよね)、こうしたすべてのニュース記事に関連する作品IDや人物IDをひもづけることで、自分が追いかけてるマンガのニュースを取りこぼさなくなるし、なによりあとから参照できますよね。
(ま、そのページが未来に存在している保証はないのですが)

将来的には独自のニュース記事も掲載していければと思ってますし、自分たちでコラムやレビューを書いていきたいとも思ってますが、まずはいますでにある情報をデータベースにおさめていくための仕組みづくりを優先して、取り組んでいきます。

やりたいことは文字通り山ほどありますので、ぼくらの「マンガに関するあまねく情報を収集・整理して、索引化する」というコンセプトに共感してくださった方は、ぜひ参加していただけるとうれしいです。

http://mangaseek.net/pages/joinus.html


ようやく「まんがseek」を再公開できました。

ハードディスクからデータを救出したのがちょうど1年前くらいで、そこから時間がかかったけれど、ふたたびこのネットのみんなとつくった資産ともいえるデータベースを公開できたことをうれしく思います。

すでに本格的に手伝ってくれてるメンバーもいるし、未登録のままゲスト編集してくださる方もあらわれています。
(先日は漫画家ご本人による編集もありました!)

ぼくにとっての「まんがseek」は自慢できる実績というだけでなく、自分にとってのネット観を決定づけたサイトでもあります。
インターネットをつうじて多くの人間がつながり、ただ目的のためだけに協力しあい、仲間意識まで芽生えて楽しめる、まさに「光の側面」を実感できたのが「まんがseek」でした。

閉鎖してから10年経ち、正直不安もあります。
当時は「荒らし」的なことはほとんど無縁で運営できていましたが、はたしていまでも同じようにできるんだろうか、データベースをむちゃくちゃにされたり、心ない方に悪用されたりするんじゃないかと考えもしましたが、それでも懸けてみることにしました。
(最低限の対策は考えましたけどね)

とりあえず今日の時点では10年前に止まった時計を動かしただけです。まだまだ満足していませんし、ここからだと思ってます。
休んでたあいだのデータも補完していかなきゃいけないし、機能も追加したいし、コンテンツの企画もいっぱいあります。

そういうことはトップページにポエムとして書きましたが(まあこれもポエムだけど)、ひとつずつ実現していければいいなと思ってます。
今度は止まることなく、ゆっくりでもいいからネット上に存在しつづけることを再優先して取り組みたいです。

ボランティアに依存するのはなんとも前時代的だし、それこそクラウドソーシングとかで解決したほうがいまっぽいのかもしれないけど、それでもぼくは気持ちの入った人たちだけでこのプロジェクトを進めていきたいのです。
(ほんとはその上で金銭的にもお支払いできれば最高なんだけど)

この10年で良くも悪くもネットを取り巻く環境は変わりました。
その現実は真摯に受け止めつつ、それでもなお「変わらないもの」としての「集合知」や「相互扶助」といったネットの本質を再確認できればいいなと思っています。
性善説が通用する部分がまだ残っていると信じて。

お時間のあるときにサイトをのぞいてみてください。
そしてなにか気づいたことがあれば、お気軽にメールなどで教えていただけるとうれしいです。


いまも数名の仲間とデータベースのメンテナンスをしているのですが、とうぜん読んでるマンガ雑誌もちがえば、好きな作家さんも異なるので、いろんな方面からデータが補完されていっています。
こういうところが「みんなでつくる」魅力だなあと随時通知される更新情報を見ながら感じたり。

また愛読している作家や作品といったちがいだけじゃなく、データベースの質と量(あるいは詳細度と網羅度といってもいいかも)に対する傾向も個々人でびみょうに差があっておもしろいです。

当然、長年やっていけばそれらは両立した上で、どちらも充実していくんですけどね。

そして「まんがseek」のひとつの魅力は「器だけがそこにある」ことによって、質量ともに追求しやすい環境が提供できてるという点にあるのかなあと思いました。

ぼくが大好きな「銀の匙」の作品データ編集画面

検索しても見つからない(存在しているのに登録されてない)データを片っ端から入力していってデータベース全体の登録件数を増やすという支援のカタチもあれば、連載開始月などの細かなデータを補完したり、その作品が読める商品と関連付けていくことでひとつのデータの完成度を高めるという支援もあります。
(いうまでもなくどちらの支援も大変ありがたいです)


人間にはふたつの不安があります。

何をすればいいのか「わからない」漠とした先行き不透明な不安と、それは自分にできるのだろうかという自信のなさからくる不安。

これらの不安はまったくの別物なので、それぞれを分けて対処しないといけません。

何をすればいいのか「わからない」漠とした先行き不透明な不安”は、初めてのときには誰でも感じるものです。
仕事や役割を与えられた場合、未経験であるがゆえに、じっさいよりも過大に考えてしまって動けなくなる。次何やっていいかわかんないから、指示待ちくんになったり、あるいは逆ギレしたりします。

でもこういう不安はマニュアルを作ったり、段取りを示すことで解消できます。OJTが有効に作用するのもこっちのパターン。

それでも動けない人がいるのは、不安の種類がちがうから。

それは自分にできるのだろうかという自信のなさからくる不安”は、なかなか克服できるものではありません。それこそ自己啓発書でも読めば、その週くらいはやる気に満ち溢れるんでしょうけど、すぐにまた元通りになります。ほんとうは解決してないからです。

もちろんぼくにだってこういう不安はあって、新しい仕事とか、大勢を前にした講演とか、そういうときには、不安や緊張、恐怖心に悩まされているのですが、以下の3つの方法で乗り越えています。

ひとつ目はその不安を受け入れるということ。向き合うと言ってもいい。
ぼくがいつも思い浮かべるのは、「SLAM DUNK」で山王戦の前の安西先生のセリフ。

試合前の
恐怖心は
誰にでも
あるもの

それから
逃げずに
受けとめ

そして乗り越えた時に
初めて理想の
精神状態に
たどりつける

「SLAM DUNK」完全版20巻

ぼくも部活をやってた頃は翔陽戦のミッチーのように、試合前はよくトイレに行ってたし、いまでも講演前はトイレに籠もることが多いです。必ずしもウンコしたいわけじゃないんだけど。

やっぱり緊張するんですよ。
うまくいかなかったらどうしようっていう不安は常にあります。でも悩んだからといってどうにかなるものでもないし、「人事を尽くして天命を待つ」じゃないけど、やるだけやったら腹をくくるしかない。

松井秀喜も「自分の力でどうにもならないものについては、あれこれ考えません」といってましたね。

だから事前の準備として、自分にできることをやり尽くしてたら、この方法がいちばん簡単です。

2つ目は考え方のアプローチなんだけど、秋元さん(秋元康)のスタンスを真似ることです。
秋元さんは「作詞できますか」って依頼に、「もちろんできます。むしろ得意です」みたいな感じで答えてたそうなんですね。自分の仕事の幅を広げるために、来る仕事を拒むことなく、どんどん受けていったと。

それをぼくはプータローの時期に読んで(場所も憶えてる、桜木町のワシントンホテルにあるコンビニの雑誌コーナー。雑誌はたしか『SPA!』だったと思う)、えらく揺さぶられたのを憶えてます。

なので、やったことがないのは別にどうということではなくて、むしろ成功すれば自分の人生が変わるかもしれないっていうプラスの面を意識するようにしたら、前に進めるようになるんじゃないかと。

似たようなことはしりあがり寿さんもいってました。
「自分の知らない才能がそこで開花するかもしれないから、なんでも受けちゃう」って。こんなにカッコいいスタンスもそうそうないですよね。

3つ目は正しく現状認識するということ。これはほんと簡単です。誰かの受け売りとか引用とかじゃなくて、ぼくがやってることだから。

たとえば自動車の運転について、免許を持ってない人とか、ずいぶん乗ってないペーパードライバーは不安を口にするわけですが、一般の道路は事故が起 こらないように、(運転がうまい人ではなく)下手くそにあわせて整備されています。道幅とか、コーナーの角度とか。
だからよほど裏道にでも入らないかぎりは、誰でもまっすぐに走れます。だってそういうふうにできてるから。たとえ自分の運転技術が平均より下であっても、事故ることはほとんどないんです。

そう、これはただの現状認識です。そしてこれは相対化の話にも通じます。
世の中にはそれを「できてる」人がいて、その人がふつうの範囲にいれば、自分にだって十分できる可能性はある。マスターズでアンダーパーで回ることはできなくても、10万球くらい打ったらホールインワンは出せる(いや、適当に言ってますけどね)。

不安を口にする人は、成功の可能性の大きさを見ずに、むしろ小さいはずの失敗の可能性を過大評価しちゃってるのです。
だから正しく現状認識ができれば、そういうのは払拭することもできるはずです。

まあ不安なんてなくなるもんじゃないので、どうやって「いなす」かだけだと思いますよ。
それを「受け入れる」って言う人もいれば、「乗り越える」って言う人もいるだけの話で、不安とどう向き合うかってだけの話です。


ちょっと冷静に考えてみると、これからぼくらがどんどんヒマになることは「すでに起きている未来」なんだよね。

経済はグローバル化し、コンピューターによる自動化が進めば進むほど仕事は減るし、それにともなって給料も下がるだろうから、いまのうちからお金のかからない趣味を持っておかないといけない。城巡りとかね。

これから何十年も仕事を作り続ける人もいると思うし、そういう人を尊敬もするけど、ぼくのように「ほどほど」で納得するほうを選ぶ、もしくは選ばざるをえない人のほうが増えていくのはまちがいなくて、じゃあそこで生まれた時間(だけどお金はあんまりない)をどう過ごすかという問題は、そのまま「どう生きるか」という問題でもある。

そういうこともあって、「ライフワーク」というものにここ数年関心が強まっていて、人様のことをとやかく心配する前に、自分が一生楽しめることはなにかなーと思って始めたのがお城巡り。

まあぼくらの世代って「信長の野望」や「三国志」といった光栄世代なので、歴史が好きな人が多いと思うんだけど、学校で習う歴史ってひとことで言えば年号暗記ですよね。ぼくらは必死で年号を暗記して、歴史を理解したつもりになっている。

たとえば鉄砲伝来は1543年。これは銃暦(じゅうごよみ)と覚えましたね。キリスト教の伝来は1549年で「以後よく(1549)広まるキリスト教」と語呂合わせで暗記しました。
だけど、この出来事が歴史にどういう影響を与えたかはちゃんと学んでないのです。つまり鉄砲によって織田信長の天下取りはどうプラスに作用したのか、キリスト教はどうだったのかを学校では習わない。

じっさいには織田信長は鉄砲の威力を誰よりも早く重要視したからこそ武田の騎馬軍団に勝てたわけだし(三段構えはウソっぽいけどね)、信長が仏教など従来の宗教を信じなかったからこそキリスト教は日本に浸透したわけで、すべてつながってるんですよね。

この「歴史の連続性」という当たり前のことをぼくらは学んでない。両親が出会い、セックスしたからいまのあなたがここにいるわけで、同じことは織田信長にも言えることなんです。

たとえば坂本龍馬。
ドラマでも上士と下士という武士同士の階級差別が描かれてましたが、これが生まれたのは山内一豊が1601年に土佐に移封(転勤みたいなもの)されたときに、もともと土佐にいた長宗我部家の旧臣たちの反乱をおさえるために武力鎮圧したのが始まり。

つまり、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝たなければ、山内一豊が東軍についてなければ、あるいは長宗我部盛親が東軍に与していれば、上士と下士なんてものは存在しなかったし、坂本龍馬も誕生しなかっただろう。

こういう知的教養を深めることこそがオトナの趣味だし、ライフワークになると思うのです。じっさい歴史ってのは興味の糸を引っ張れば芋づる式にどんどん新たな発見があって、もっともっと知りたくなる。

なんでもいいと思うんだけど、一生かけてやっても終わらないくらい壮大な趣味を持つってのは、こんな時代に生まれたぼくらに与えられたチャンスなのかもしれない。


坂の上の雲』はおもしろかったですね。 しっかり見てたわけじゃないんですけど、なんとなく浮かんだのがこういうことでした。

小が大を喰うには精度を上げるしかないんだけど、それは効率を高めることとはちょっとちがうんだよなー。効率化はしばしば「捨てる」ことが大事とされるけど、そうじゃなくて自分たちの努力で伸ばすというか。

で、そのまま見てると、秋山真之が「百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」というようなことをいってたらしく、やっぱりそうかとひとりで納得してました。 ちょっと調べてみました。

真之は各種戦術や戦略を、兵力や兵器などの「有形的要素」と、運用術や心理などの「無形的要素」の二つに大別している。そして、 「連合艦隊解散の辞」で「武力なる物は艦船兵器等のみにあらずして之を活用する無形の実力にあり。百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」と 述べているように、目に見える「有形的要素」だけではなく、成果が見えにくく軽視されがちな「無形的要素」の重要性も説いている。

秋山真之の軍学 - 概略、解説

ようは「コンバージョン100%で訪問者ひとり」と「コンバージョン1%で訪問者100人」は同じだよねって話なんですけど、マーケティングの世界でもどうにかして大砲を増やそうとする人たちが多いですよね。

もちろん少ないよりは多いほうがいいんだけど、お金で解決できない場合は知恵で解決しようって話です。けっこう諦めちゃってる話もよく聞くんですけど、たぶんここで踏ん張れると収益化が見えやすくなると思うんですよね。

まあマーケティングを戦争でたとえるのはあんまり好きじゃないんだけど、この「有形的要素」と「無形的要素」に分けて考えるというのはわかりやすくていいですね。どっかで使わせてもらおうっと。


メディア論をする際、人によって「メディア」や「コミュニティ」などの言葉の定義が曖昧だったりズレてたりするのでむずかしいよね。

ぼくは「メディア」はサイトや雑誌をつくっただけでは「メディア」になりえないと思ってて、そこに乗っかる「コンテンツ」の一貫性があり(テーマの共通性があり一定間隔で更新される)、そのコンテンツを肴に「コミュニケーション」が行なわれ(コンテンツは会話の肴にすぎない)、コミュニケーションが活発になり参加者が増えることで「コミュニティ」が形成される
そこでようやくほんとうの意味での「メディア」になれると考えている。

じっさいの立ち居振る舞いとしては、自分も会話に参加していくこともあるだろうし、あくまでも会話の肴を提供する側にとどまってニマニマと眺めるのもあるとは思うけど、「メディア=コンテンツ」を否定する必要なんてなくて、そこからいかに広げていくか(コミュニケーションを育み、コミュニティを形成するか)を考えていけるかって話でとらえている。

前に読んだある専門家の記事では
「紙や電波ではコミュニケーションがとれなかったというのはある。あるいは、日本人全員を相手にしてたのだからコミュニティもへったくれもないだろう、とも言える。」
とあったけど、そんなことはなくて、読者投稿欄をはじめコミュニケーションは存在していた。「ジャンプ放送局」なんて600万人規模の一大コミュニティだったし、ラジオなんてのはコミュニティがなければ継続しようがないもの。

ネットとの連携も昔からあって、たとえば1995年とか1996年当時において、『ダ・ヴィンチ』などの雑誌はNIFTY-Serve上にBBSを開設して
読者とのコミュニケーションを図っていた。

メディア論をとくにネットとの対比で語る人の多くは、テレビやラジオや出版(新聞、雑誌)が古くて遅れているという論を展開しがちだけど、べつにそういう話でもないんだよね。
ネット企業でもぜんぜんコミュニティを築けてないところはあるし。
また、コミュニティがなきゃダメって話でもないし(ここ大事)。

読者と運営者、あるいは読者間で会話(コミュニケーション)がなきゃいけないのかっていうと、そういうことでもない。
「会いにいけるアイドル」もいれば「紅白すら出ないミュージシャン」もいていいし、大事なのは「支持を得ているか」であって、その支持のカタチはコミュニティ形成だけじゃない。
会員モデル(サブスクリプションモデル)は、べつにコミュニティがなくても成立するし、コミュニティがなくても広告以外の収益化は可能だから。

ただこれも「コミュニティ」の定義次第な話で、
「お金を払ってくれるような支持者がいるなら、それはもう立派なコミュニティ」
といえばそういう話でしかない。

まあそんなこんなでメディア論ってそもそも会話が成立しにくいんだよねえ。
だから直接会って、言葉の意味とか定義を確認しながら議論していかないとなかなかむずかしい。

でもこういう話は大好きで、できるだけオンライン・オフライン問わずにいろんな人とじっくり話をしたい。


流行と普遍性の話。

その昔、誰かが書いてたJ-POP批評に
「どうしてユーミンは凋落して、サザンは生き残ったのか」
みたいな記事があって、その結論が
「サザンが常に世の中の流行りを取り入れて、現代的な、まさに『流行歌』をつくってきたからだ」
というのを読んだことをいまもおぼえてる。

ちょうど『LOVE AFFAIR~秘密のデート~』の頃で、マリーンルージュとか当時のデートスポットを歌詞にぶち込んできてたこともあって、なるほどねえと妙に納得したんだよね。

あれから15年以上経って、サザンはまあいろいろあったけどいまも売れている。
ユーミンもここ数年また盛り返してる。

だけどサザンが同じような売れ方、支持のされ方であるのに対して、ユーミンのそれは昔とはちょっとちがうようにも感じる。

ユーミンの支持はいい感じに熟成されつつあるというか、「積み重ねている」ような印象を受ける。

じっさい、サザンの曲は時代性が強いので、昔の曲を聞くとその頃の思い出がよみがえりがちだけど(だいたいはつらい恋の思い出だけど)、ユーミンの昔の曲はいま聞いても色褪せない。
もちろんノスタルジックな曲調ではあるけどね。

「いま」売れることは大事だし、時代に適応できることはそれだけで偉大な才能だけど、10年、20年後にも新鮮さを保てるということも同じくらいすごいことだよね。

で、それを両立することはむずかしいんじゃないかと。

最近は時代性を追いかける人が多いので、ゆっくりじっくり丁寧に普遍性を追い求めると数年後とかにちゃんと評価されたりするかもよ。

どっちがいいとか、すごいとかって話じゃなく、もし両立できないのであれば――あるいは両立することがめちゃくちゃむずかしいのであれば――ちゃんと意識的にどっちを追い求めるのかを選ばなきゃいけないね。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0096KVMSY/allconsuming-22

読んだり聞いたりすることの重要性は言わずもがなだけど、人に伝えるには言葉が必要で、だから書くことと話すことの重要性のほうが相対的には高いと思っている。
伝わるように話せなければ、聞いて理解したことさえ伝えられないわけだしね。

対面、手紙、電話、メール、ソーシャルメディアとぼくらは言葉を使って、特定または不特定の誰かに自分の気持ちや考えを伝えようとする。
でもまあ残念ながらほとんどは伝わらない。自分の伝える能力の不足をなげくこともあるけど、それだけで超えられる壁でもないので、最初から諦めておくことも大事。

「人と人は往々にしてわかりあえない。だけどわかりあえなかったということがわかるだけでも価値がある」

と誰かがいっていたけれど、そういうことなんだろう。

それでも伝わるように努力することには意味があると思うので、これまでいろいろと考えてきたけれど、はたして「伝わる」ために必要なのは、技術なのか誠意なのか、あるいは、才能なのか努力なのか、といったことにすら答えは出ていない。

なんでもかんでも大事だといってると、「何が大事かわかんなくなった」とやさぐれてしまうので、もう少し意識を集中していきたいところなんだけどね。

がんばってなんとかなるならまだいいんだけど、意外と相性なんかだったりするのでややこしい。

こうのたけし

たまに書きます。シェアしてもらえたり、レスポンスを書いてもらえるとうれしいです。座右の銘は「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる」。むかしは smashmedia ってブログを書いてました。いまは「攻城団」とか「まんがseek」を運営しています。

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