戦術・戦略の天才“源義経”

Sotsuhiko
15 min readMay 23, 2017

戦術・戦略の天才の名をあげてみよと問われた場合、率直に思いつくのは…アレクサンドロス大王、ハンニバル・バルカ、プブリウス・コルネリウス・スキピオ、ガイウス・ユリウス・カエサル、チェーザレ・ボルジア等々…かな。今の知識ではこのくらいが限度であるし、自分の好きな時代や人物に偏ってしまっているだろう。戦術・戦略は正直難しい…歴史を学ぶ上では知っておかなければならない事なので、まだまだ勉強中である。

上記武将の中で最も有名な戦いをあげるとしたら、古代ローマ人がハンニバル戦争と呼ぶ、第二次ポエニ戦争だろう。トレビアの会戦、トラスメヌスの会戦、カンナエの戦い、そしてザマの会戦。ハンニバルの華麗なる包囲殲滅戦法を用いたカンナエの戦いは、現在の士官学校でも学ぶそうだ。ちなみに、バルカとはフェニキア語で雷鳴、ハンニバルとはバール神の申し子という意味があったように思う。

時代がくだり、中世西洋においては戦術・戦略は皆無であるけれど、破茶目茶な戦闘内容が面白いと思っているので嫌いじゃない。特に十字軍の物語は酷すぎて失笑してしまう。

近世の天才となると、ナポレオン・ボナパルトになるだろうか?

では、日本史における戦術・戦略の天才となると幾人の武将の名があがるのだろうか?時代や情況などによって異なるのは勿論だが、騎兵を巧みに利用し大きな戦果をあげたとなると源義経であろう。その成功例が鵯越えの戦いである。戦術の本に、わかりやすくまとめてあったので記載しておこう。

鵯越えの戦い

【源氏軍】▪指揮官:源義経 ▪兵力:総兵力六万

【平氏軍】▪指揮官:平宗盛 ▪平氏兵力:総兵力七万

源義仲に敗れ、都を追われた平氏は屋島を根拠地に、兵力の回復に努めていた。源頼朝と源義仲が対立し、源氏内部で争いをしている様を見た平氏の総大将・平宗盛は福原に安徳天皇を動座して、勢力を都へと進出させた。

頼朝は次弟の範頼にを総大将とし、福原に進出した平氏追討に向かわせた。しかし、兵力に優る平氏はさらに進出し、前進防御の態勢をとった。瀬戸内海沿岸の六甲山系の山並みが海に迫る狭い地形を利用した縦深防御態勢は、都方面から進撃してくるであろう源氏を迎え討つには最適の布陣であった。源氏は水軍を持たず、海上を迂回される懸念はない。平氏は強力な水軍によって兵站線を確保し、源氏を上回る兵力を展開した。

防御側にとって、狭隘な通路に拠ることは、絶対的な有利となる。いかなる大兵力を持っていようとも、一度に投入できる兵力が限られたものとなるためで、防御側は攻撃側の来襲地点を特定できるばかりでなく、作戦次第では、相手を壊滅に追い込むことも可能なのだ。源氏郡の襲来を察知した平氏は、防御側の利点を活かして、場合によってはそのまま決戦に持ち込むことができる布陣をとった。

福原を本拠として、最前線となる生田口に平知盛が指揮する五万、その後方、平地を見下ろす山上に平氏きっての猛将、平教経を布陣させた。そして、福原の後方、一の谷に平行盛を置いた。

これは物資の集積地であると同時に、予備隊としての働きを期待したのだろう。さらに、万が一が一前線で敗北した場合、後退して立てこもる後詰めの要塞としての意味があったと思われる。

正面戦闘を受け持った知盛は、生田川を挟んで範頼軍と対峙した。これが第一次防衛戦となる。知盛の作戦指揮能力は範頼をはるかに上回り、また兵力も、総力を前線に注ぎ込んだ源氏よりも余裕がある。

緒戦に敗退しても、後退して範頼が不用意に前進すれば、山上に布陣する教経軍が横撃する作戦だった。平氏諸将中で最強の打撃力を持つ教経を、やや後方の予備隊として配置した知盛の手腕は、源氏に引けは取らなかったであろう。知盛の不幸は、源氏が彼の能力を上回る、戦術の天才を擁していたことだった。

騎兵の天才義経

(本を参考に、ゲーム風に布陣図を作成してみた↑)

義経は、自軍の弱点を見抜いていた。そして、兵力に余裕のある平氏を相手取り、壊滅に追い込むために、機動力を駆使した奇襲戦を構想した。源氏軍は、義経の指揮のもとで騎兵を中心とした別働隊を組織していたのだ。義経は、一万の兵を預けられており、それを二分して七千を本隊として大きく迂回させ、北側に進出させる一方で、三千を直接統率して山間を進み、平氏軍の後方警戒部隊が布陣する鵯越に向かった。

義経自身は、三千の部下を武将の熊谷直実に託して平氏軍の後方に貼り付けさせ、七十騎の精鋭を率いて一丿谷城の後方に出た。ここで、義経は土地の豪族を通じて、地形に詳しい道案内を雇っている。義経の作戦は、山中の間道を経由しての迂回奇襲を狙うものだった。

源氏は平氏よりも、馬の扱いに長けている。しかし、それはあくまでも戦場レベルでの話であり、十三世紀の日本では、馬の大量使用は前例がない。それどころか、世界のレベルでも、大量の馬を集中しようした例はほとんどなかった。中東地域に勢力を伸ばした遊牧民系の国家が騎兵の集中運用に先鞭をつけてはいたものの、それは歩兵中心の軍のなかで、打撃力として用いていたに過ぎなかった。

平氏の布陣を堅固なものとしている六甲山系の山間を縫って、背後から奇襲をかけるという戦法は、無謀なものとしかいいようがない。騎兵は開けた平野で使用して初めて効果があるものであり、また当時の戦術では、歩兵と同時に使用することでその打撃力を活用するという、いわば、歩兵直協用戦車の役割を持たされていた兵種である。その運用には莫大な経費と、そして何よりも、戦機を見極める戦術眼が必要とされたため、効果的な活用例は歴史を見ても極めて少ない。

七十騎の精鋭を直率した義経は、夜間の強行軍の末、一丿谷を見下ろす鉢状山に到着した。すでに別働隊のうち、七千は平氏軍予備隊の背後に回り込み、三千を指揮する熊谷直実は鵯越で平氏軍と対峙している。義経はそれぞれの布陣を点検した後、一丿谷城の背後に聳える尾根の突端に展開した。一丿谷城の背後は、高さ六百メートルに及ぶ傾斜の強い断崖で、平氏にとっては自然の防壁になっていた。

午前七時頃、最前列の生田口と鵯越で、ほぼ同時に戦端が開かれた。この時代の戦闘は、多分に様式化されている。戦闘開始の合図として放たれた鏑矢が異様な音をあげて空を飛び渡り、両軍の平氏がえびらを叩いて囃し立てるなかで、源氏軍は猛然と突撃する。

生田口の知盛は、生田川を防壁として、懸命の防御線を見せた。源氏本隊は盛んに矢を射かけつつ、先陣を競って川を押し渡る。やがて、戦闘を切って突入した騎馬武者が平氏の防壁を乗り越えて、防御陣内に躍り込んだ。

平氏の大潰走

源氏は、騎馬戦法であると同時に、長大な合板弓を使用する騎射戦を得意とする。馬の圧力に押された平氏軍は、その馬上から放たれる長射程の矢に射すくめられて、平氏の防衛ラインは崩壊を始めていた。

緒戦は源氏の有利に展開していたが、この時点では勝敗の行方は定かではなかった。ほぼすべての戦力を全面に投入した源氏だが、狭隘な地形ではそのすべてが敵と接触しているわけではなく、まだ平氏は後方に膨大な予備兵力を残している。知盛は源氏の勢いを殺しつつ後退して、戦線の再構築をするつもりでいた。福原まで後退すれば、民家が源氏の騎馬隊の足を阻み、また教経の横撃が期待できる。そのまま戦況が推移すれば、おそらく勝利は、平氏のものとなっていたに違いない。

義経が待っていたのは、平氏が防御線を支えきれずに後退する、その瞬間だった。山間を往復する伝令を義経が整備していたのかもしれないが、その戦術眼は、的確に戦況の分岐点を衝いていた。

義経は伝令を下した。隠密行動のために、馬に履かせていた藁沓を取り除き、鐙を下ろして騎乗する。義経隊の全面斜度は、およそ三十度に達する。その断崖に近い急角度の山肌を義経の号令一下、七十騎が一斉に駆け下った。一丿谷城背面の防御は、皆無に等しかった。それに平氏の兵は、前面で展開される熊谷直実の別働隊と、一丿谷城防備軍の戦闘に気を取られて、義経隊に気付いた者はいなかった。

無防備の一丿谷城に突入した義経隊は、すぐさま城内に火を放った。季節は旧暦の二月七日。春の長雨にはまだ間があり、乾燥した城は、煙を発して燃え上がる。時ならぬ火災に浮足立った平氏の防御線に、義経達の七十騎は、喚声をあげて突撃した。

煙にまぎれて数がつかめず、絶対に安全と考えていた後方からの奇襲を受けて、一丿谷城を預かる平氏軍は混乱状態に陥った。大混乱となった一丿谷城の戦況を見て、鵯越で直実と対戦していた部隊は戦意を失った。また、煙は生田口からも遠望できる。後方の予備隊からあがえる炎に、平氏軍からは裏切りを疑う叫びが沸き起こった。

一丿谷城の背後からの攻撃はあり得ないと信じていた平氏の兵は、自軍に裏切り者が出たと信じた。その混乱は退路を塞がれたことによる恐怖を増幅し、最前線にまで波及した。範頼を引き込み、教経軍との挟撃で葬り去ろうとしていた知盛には、青天の霹靂だった。頼みの教経も、義経の別働隊七千を相手に獅子奮迅の働きを見せているものの、他の隊を救援する余裕はなく、平氏が立てた必勝の戦略は、何よりも自軍の動揺により、根底から崩れつつあった。後方基地を失い、前線の不利を伝えたれた平氏の総大将宗盛は、いち早く撤退を決意した。

安徳天皇を擁していた宗盛は、自軍に知らせることなく福原を引き払い、待機させていた軍船に乗船した。敗戦のときこそ、総司令部が全軍を掌握して態勢を立て直すべきだ。その機能を果たさずに総司令部が真っ先に戦線離脱してしまったとなれば、兵の士気は急速に衰えていく。

ここに至っては、知盛や教経の指揮能力は問題なかった。平氏軍は後退し、大軍は崩壊、兵は潰走したのだった。七万余の大軍を収容できる舟はなく、待機していた軍船は、潰走の末にたどり着いた兵で満船となるそばから碇を揚げて、残された兵たちは一丿谷を制した別働隊と本軍の挟撃に遭う羽目に陥った。

この戦闘で、平氏は名のある武将を多く失った。総大将の戦意を感じられない行動は、兵の信頼をも大きく揺るがせた。事実上、平氏の反抗作戦はこの一戦で潰えたといっていい。

戦術の意義

一丿谷の合戦は、大兵力を擁し、地の利を得た軍団に対して、騎兵による機動迂回戦を成功させた、稀有の実例である。平氏の戦力は、決して源氏に劣るものではなく、海上からの物資補給に裏打ちされた継戦能力は源氏を上回るものだった。狭隘な地形を封じる形で展開される陣形は、騎馬戦を封じるのに優れたものだった。

最前線を指揮する知盛の作戦指揮能力は、源氏の総指揮官である範頼を超えていた。にもかかわらず、敗北を喫した最大の理由は、源氏が義経という天才を擁していたことだった。

義経の作戦は、騎兵の長所を存分に活かしている。元来、騎兵という兵種は育成と維持に多大な時間と費用がかかり、また戦線に投入する時期の判断が非常に難しい。日本では、戦国時代の終焉に至るまで、騎兵を有効に利用した例はほとんど見られない。

義経といえども、別働隊のすべてを騎兵で固めたわけではない。おそらく、全兵力の十分の一から二十分の一で、残りは歩兵で占められていただろう。歩兵との協調戦法では、進軍の速度は限られる。義経は、別働隊を編成した時点で、山歩きに慣れた兵を選抜したことだろう。

そしてさらに選りすぐった三千を鵯越に配備、その時点でさらに兵を絞り、馬に劣らない速度で山中行軍が可能な精鋭だけを抽出して、自身が指揮を執る奇襲部隊を編成したと思われる。

騎兵の特質は、歩兵とは比較にならない長距離を高速で移動する機動力と、集団使用した際の打撃力になる。反面、集団となることで強固な防衛力を発揮し得る歩兵に比して、防御力は皆無に等しい。

常に剥き出しで戦闘に入る騎兵は、強大な打撃力と引き替えに、敵の攻撃をも生身で受けることになる。極端な場合には、一戦で騎兵戦力のほとんどを消耗し尽くすことになりかねない。

騎兵の本領は、実は打撃力にあるのではない。長大な距離を短時間で急行できる機動力になる。それを見抜き、騎兵本来の機能を発揮させた義経の能力は、やはり天才である。

平氏の敗因は。義経の奇襲によって後方の本拠地と為すべき一丿谷城を失陥したことのみならず、それを裏切りを誤認したことで、兵が戦意を失ったことによる。また、一丿谷城の陥落は退路を断つことになる。そのために恐慌に陥った平氏軍は優越する兵力を活かすことなく、戦力では下回っていた源氏の惨敗した。

義経は騎兵の特質をつかんだ用兵によって源氏を勝利に導いたわけだが、同時に山間の間道をつかむために、的確な情報収集活動を行っている。

機動戦を行うには、地形を知ることが不可欠となる。義経は一丿谷の合戦に席だつ三草山の合戦で捕虜にした多賀谷管六から情報を得て、さらに土地の猟師を道案内として採用、一丿谷城の背後に、馬が降りることができる地点を見出した。

一丿谷戦の勝利は、騎兵の長所を活かした迂回機動戦法を使いこなし、また情報を駆使して奇襲の効果を最大限に発揮させたことにある。天才指揮官のみがなし得る戦術だった。

アレクサンドロス大王の時代には、すでに歩兵集団を軍の中核に置き、騎兵を両翼に配置して、歩兵が突入する際に敵陣を撹乱する配置が案出されている。この陣形ははるかに後年のナポレオン戦争に至るまで受け継がれる。

余談になるが、先日古代史について話をしていた時に、東西で言葉が異なるのは何故かという話題が出た。自分も知らなかったのだが、聞くところによると、百済や高句麗が滅ぼされた時にやってきた亡命者に関係するらしい。亡命できるということは、それなりの身分である人達なのだろうと思う。因みに、当時朝鮮半島にいた民族は、現在とは別の民族と言われている。

朝鮮三国時代の日本の中心は奈良であり、西から見れば東は僻地。まつろわぬ蝦夷が跋扈する地とも言われていた。そこで、開拓のために亡命者を東に送り込んだそうだ。その地で、先住者と融和していったのだろう。だから、使用する言葉が西とは違う独特のものになったらしい。それと、亡命者達は馬を扱うことにも長けており、坂東武者が騎馬を得意とするのはこの流れからだという。

去年放送していた真田丸では全くと言っていいほど、騎馬での戦闘シーンが出てこなかった。予算不足?と勘違いしていたが、理由は相馬野馬追などの後継者不足で、そういったシーンを撮ることが難しいらしい。素人がやったら死人がでてしまうしね。こういった伝統がなくなろうとしているのは大変残念なことだ。そういえば、相馬氏の家紋は馬だった気がする。

平将門公も、騎馬に長けていたという。将門公の父親が鎮守府将軍だった頃、陸奥にて訓練したとどこかで読んだ記憶あり。

自分にとっての武士は、戦国時代よりもそれ以前の坂東武者のイメージが強い。以前、能で観た謡曲『鉢木-はちのき-』は坂東武士がよく体現されている。舞台が栃木や群馬と諸説あるが、話の流れからして群馬県佐野町だろう。

その鉢木のあらすじは…

上野国の佐野あたりを僧が旅をしていると、雪がひどくふってきたので、通りがかりの家に一夜の宿を借りようとします。その家の妻は主人が不在だからと断ります。そこへ主人が帰ってきますが、貧しい家だから、と一度は断ります。しかし、妻のすすめもあり、雪の中を去っていく僧を追いかけ、呼び戻します。

二人は他には何もないけれどと、粟の飯を炊き、秘蔵の鉢の木を切って火を焚いて僧をもてなします。僧が主人に名を訪ねると、佐野源左衛門常世と名乗り、一族の者に領地を横領されて今は零落していても、「いざ鎌倉」という時には、古びた武具に痩せ馬であろうとも、一番に駆けつける用意があると語ります。僧は立ち去ります。 やがて最明寺(北条)時頼に仕える者が関東八州の大名小名は鎌倉に集まるように触れて回ります。それを聞いた常世も痩せ馬に乗って馳せ参じます。時頼は集まった武士の中から千切れた具足、錆びた薙刀、痩せた馬に乗った武士を連れてくるように命じます。呼び出された常世に時頼は自分は過日の僧であることを告げ、その忠誠を褒め、取られた領地を返し、また火にくべた鉢の木の礼にと鉢の木にちなんだ梅田・桜井・松井田の三カ所の荘を与えます。常世は痩せ馬の上で胸をはり、喜び勇んで、本領の佐野へと帰っていくのでした。

見ず知らずの旅僧に、先祖から受け継ぐ大事な鉢木を薪にする、源左衛門のせめてものもてなし。そこからは、生活は貧しいが、武士としての誇りを捨てず、晴朗な心の強さをも感じる。

能では、源左衛門が武者姿で舞う場面があるのだが、薙刀を勇ましく構えるその姿は壮大な益荒男振りである。

その雄大な武士の姿と、時頼の御恩に目頭が熱くなった。

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Sotsuhiko

古代日本、山岳・民間・庶民信仰、寺社仏閣、美術、着物のことを備忘録として綴っていきます。密教も気になる。