豊島美術館

Sato Sosei
芸術祭の記録
Published in
3 min readSep 4, 2016

豊島美術館。

言葉にならない。

内藤礼の作品を抱えて、なにがここに在るのだろう?

水滴を模した建物の白い外観にまず目を見張った。木立に囲まれ、瀬戸内海を見下ろす緩やかな斜面にあって鮮やかだ。長いアプローチを抜け、小さな入り口をくぐると、1958m2の空間が広がる。柱や間仕切り壁がない、広大なワンルームだ。2カ所に設けられた円形の開口部からは青空が見え、風が流れてくる。床に目を落とすと、水滴が動いている。流れてはいない。小刻みに形を変え、軽やかに移動する。その行く先を目で追うと水たまりがある。幾つもの小さな水滴が、何かを追いかける生き物のように水たまりに集まっていく。

これが、行った事の無い人にどう伝わるのか想像できない。豊島美術館に入る前、少し緊張していた。入ってからもずいぶん、今自分が何を感じているのか?という事を考え続けていて、でも思考が感覚を邪魔して、その静かな空間で、なんだか大声を出したい気分だった。落ち着かずにうろちょろしたり、水滴を弾いたりしてしまうから、広い空間に2人いた監視員の人に計4回も注意されて、最後の方ではその人も少し笑ってた気がする。

内藤さんは「地上に存在していることは、それ自体、祝福であるのか」をテーマにしている。それは、人生を突き詰めて考えた時、僕らがいつも心配していることのような気がする。この前内藤さんと一緒に地域を巡っている時に、僕が2年間このエリアで死んだ動物を埋葬していた話をした。その時に「お肉が美味しく感じるって、どういう事なんだろう」と言っていて、それは内藤さんが、この地上に存在していること自体が祝福なのか、心配しているって事と繋がってる気がした。

その心配は、パンクでロックンロールなのだと思う。僕らが当たり前だと無視している全てに、疑問を投げかける事だと思う。僕らが今、生きているこの社会は、循環は、世界は、本当にこれでいいのか?

自分の内側から、人格や自分だと思っていた殻を壊すような体験がある。思春期に始めて女の子のおっぱいを見た時、軍事国家で銃剣を顎に突きつけられた時、海の真ん中で溺れた後に陸地を踏んだ時、または息子が産湯に入った時、僕は自分を更新した。豊島美術館にはそんな体験にも似た、それ以外ではありえない、強烈な「今ここ」の密度がある。たぶんそれが「普遍性」の可能性なんじゃないだろうか。

--

--