バイオテック業界のリーンスタートアップ

SR
11 min readJun 13, 2019

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昨年末からシリコンバレーに本社を置く遺伝子診断のベンチャーで働いています。以前も遺伝子検査のベンチャーに所属していましたが、その時の会社は入社時の社員800人、退社時には1000人に達しようとしていました。

今の会社は社員10人の始まったばかりのスタートアップです。共同創業者のCEOとCTOは2016−2017年にPhDを取得しそのまま起業した若い会社です。若者が起業するのはシリコンバレーでは珍しくありませんが、彼らは前職の会社の数百人規模のR&Dチームを持ってしても開発できなかった最先端技術を大学に頼らず開発し、特許を取り、正社員10人以下で医療機関向け遺伝子体外診断薬の上市にこぎつけました。

バイオテックの会社を大学に頼らずに興すということは、10年以上前に大学で分子生物学を学んだ私には思いつくことすらできなかったことです。上市準備がようやく一段落し心の余裕ができたタイミングで、弊社の創業物語を通じて、シリコンバレーのバイオテック業界のリーンスタートアップ事情を共有しようと思います。

「ハッカーラボ」で始まった研究

テックショップという本格工作機械を揃えた会員制DIY工房をご存知でしょうか。日本では富士通が支援してアークヒルズに工房を構えています。アメリカでは一時期10箇所以上まで拠点を広げたのですが、2017年に突然倒産してしまいました。(今は別資本で再建中。)ビジネス的にはなかなか運営が難しかったものの、シリコンバレーのハードウェアスタートアップやDIY好きのオタクには深く愛されていたものです。

さて、シリコンバレーにはそんなテックショップのバイオ版のハッカーラボ:Biocuriousがあります。私は行ったことがないのですが、話を聞いた感じでは、高校の実験室にちょっと毛が生えたようなラボにバイオテックDIY愛好家が集まるなんともオタク感満載のラボのようです。ビジネス的にはテックショップと同じく経営が難しそうで、ますます親しみが湧きます。

弊社の創業者2人は大学院で遺伝子の研究をする傍らPhDの終盤には会社を創業することを決め、ゲノム業界のスタートアップ潮流を徹底的に調べたそうです。そしてお金も実績も肩書もなかった彼らはBiocuriousで超初期のプロトタイプを作ろうと試みます。最低限の研究をするにもお金がかかるバイオテックの世界。最初のシードファンドを集まるにも最低限のコンセプトは必要だったからです。

注1: 大学の研究室は使えません。大学の設備を少しでも使った時点で大学側が特許権を持つからです。アメリカの大学の知財管理は極めて厳格です

注2:ネットビジネス以上に、バイオテックは創業サイエンティストの経歴が問われます。コア技術は大学からライセンスしてくることのほうが多く、コア技術はないけどこれから若者大学院生2人で開発します、というのは2019年の今もなかなか投資を受けづらい案件です

インキュベーションプログラムを通じてラボ設備にアクセス

スタンフォード大学にはStartXというベンチャーのインキュベーションプログラムがあります。スタンフォード発のベンチャーを増やすことを目的とした大学併設インキュベーターで他のプログラムと違って一切エクイティ(会社の株式)を取りません。応募には創業者のうち最低1名がスタンフォード関係者(卒業生含む)である必要がありますが、さすがは起業家だらけのスタンフォード。半年に1回の選考には数百社が応募し、デモデーには投資家がたくさん集う優良インキュベータープログラムに成長しています。

注:数年前に東京大学との協業?で日本からのスタートアップも参加していました。尊敬する秋田さん率いるアフリカの発電キヨスクベンチャーのWASSHAもその一つ。

Biocuriousで超初期アイディアをテストした創業チームはStartXに応募。選考に通ります。バイオテックベンチャーにとって、StartXの最大の魅力はインキュベーターに併設されているラボ、そしてスタンフォード・UCSFのコア設備(イメージングセンター、細胞アナリシス、マススペック, 動物実験施設などなど)にアクセスできることです。もちろん使っても大学に特許権が発生することはありません。Biocuriousと違ってStartXのラボは本格的な大学実験施設です。ここでようやく本格的な研究が進みます。

StartXの更なる魅力は3ヶ月のインキュベーションプログラム卒業後も費用を払ってオフィス・ラボスペースを借り続けられること。ラボスペースはベンチごとに借りることができ、まさにラボのコワーキングスペースが実現しています。中にはStartX内のラボの一つのベンチ1つ(長さ2m程度)を医療検査診断ができるCLIA Laboratoryとして政府に登録し、ライセンスを取得したベンチャーもあるほど。私が今の会社と出会ったのもオフィスがStartXにあり、社員5人でコワーキングラボにベンチを持って研究していた頃でした(今から1年ほど前)。

Y Combinatorでビジネスを学ぶ

弊社の創業チームと働いていてもう一つ驚嘆しているのは彼らの驚くべきビジネスセンスの良さです。私は大手戦略コンサルティングファームで働き、MBAを取得し、かなりの数のバリバリビジネスパーソンを見てきたつもりですが、それと比べても舌を巻くほどです。創業者2人ともほぼ社会人経験もなく、PhDをとって起業したにもかかわらず、です。

彼らのビジネスセンスの根底に流れているのはリーンスタートアップの哲学・手法です。StartXとほぼ同時期にシリコンバレーで最も有名なインキュベーションプログラムのYコンビネーターに参加します。

小さい頃から学校で一番、地域で一番、最後には国で一番良い成績を取り続けた勉強オタクのCEOは、YCでも勉強だましいを発揮。先入観を持つことなく、謙虚に徹底的に型を学ぶとセンスよくリーンスタートアップができるようになるのか、と見ていて驚嘆します。同時に、Y Combinatorのようなインキュベーターは「技術力はあるけどビジネス経験はないハッカー」のためにあるプログラムであり、本当にそういう会社を底上げし、「プロジェクト」から「ビジネス」にするパワーを持っているのだな、と感心します。

Y Combinatorでは近年バイオテックベンチャーの参加割合が増えています。10年前であればそもそも大幅な資金調達をしないとコンセプト開発もできないのがバイオテックの世界だったので、7%の株式と引き換えに$150,000の資金提供をするYCのモデルが当てはまるのだろうか、と思っていたのですが、今の会社と出会って合点がいきました。バイオテックのベンチャーがY Combinatorで「インキュベートできちゃう」時代がやってきているのです。

バイオとITを組み合わせた技術開発

StartXとYCでラボ設備とビジネスセンスを手に入れたとはいえ、会社のコアはやはり技術開発です。弊社が持つ特許の一つは遺伝子のシーケンス時に発生するノイズを、バイオインフォマティクスの分析段階でキャンセルすることができる技術です。キャンセルすると言っても、アルゴリズムだけで消失させるのではなく、シーケンス前の試薬準備の段階のケミストリーに手を加えることによって、分析時にノイズキャンセリングできるようにする、というものです。

弊社のCTOは小学生の頃からファームウェアのプログラミングをし、プロトタイプを作っていたバリバリのソフトウェアエンジニア。が、大学は両親の期待を裏切って?生物・物理・インフォマティクスを融合させたできたてホヤホヤのバイオ総合学科を選考します。CEOとCTOはその総合学科で出会うわけですが、曰くその学部で生物という有機的で経験則に基づく学問を、いかに物理的・情報学的な視点で考えるか、という訓練を受けたそうです。本当に学部の学科でそんなにインパクトが出るものなのか?と思うものですが、プログラム第1期の卒業生30人のうち、7−8人もバイオテックの企業を創業しているそうです。

ふーん、総合教育ねえ、と流してしまいそうですが、分子生物学とバイオインフォマティクスを融合して学べるようになったのは本当に最近のことなのです。マサチューセッツ工科大学で学部生向けにバイオインフォマティクスを教えるようになったのは2005年です。プリンストン大学で上述のバイオ総合学科が始まったのは2007年です。それほどにバイオインフォマティクス教育の歴史は浅いのです。

次世代シーケンサーの寡占企業であるイルミナ社がベンチトップ型のシーケンサーMiSeqを発売したのは2011年です。MiSeqが発売されてからようやく大学研究室レベルで日常的に次世代シーケンサーを使った研究ができるようになりました。その年に大学院に入学した創業者2人は、日常的に次世代シーケンサーに触れることができたほぼ一番若い世代です。そして研究室の成り立ち上、一番雑用をやらされ、シーケンサーの長所も短所も癖も知り尽くしているのも一番若い世代です。

弊社が持つ特許は、この日々シーケンサーを使って感じるフラストレーションとCTOのハッカー精神が融合したことで生まれています。やっているケミストリーの加工もバイオインフォマティスも複雑ではないのですが、通常の会社だと、ケミストリーとバイオインフォマティクスは完全にチームが分かれているので、その両方の特性を知り尽くし、組み合わせで課題を解くことができないのです。また弊社がやっているような技術改善は大学では応用領域に近すぎて取り組まれないような内容です。そこに大学の研究室もない・企業のR&D予算もない一介の大学院生が起業する余地が生まれます。

若者がゼロからバイオベンチャーを創業できる時代がやってきた

ここまで読んで、そういうことは普通にアカデミアの世界で起こっているタイプのブレークスルーではないか、日本にだってそういうイノベーションを起こせる大学院生はたくさんいるのではないか、と思われた方もいるのではないでしょうか。

そうなんです。ここに書いたような技術開発や改善は、日本人が得意とする分野なんじゃないかと私も思います。そして、日本発でグローバル級のベンチャーを興すなら、ディープなテクノロジーを持った会社を興すほうが勝算があるのではないかとも思います。

日本でも各大学にベンチャーのインキュベーションプログラムが作られ、VCファンドが組成され、大学発ベンチャーの界隈は盛り上がりを見せています。大学発ベンチャーが増えるのは大変喜ばしいことですが、大学に頼らずとも、最先端の研究の世界とツールを知り尽くした大学院生が、大学を離れてハードコアのバイオテックの会社を創業できる時代がやってきていること、そして、実は研究室の前線兵士である大学院生こそが、最もイノベーションが起きる現場に近いところにいることを、サイエンティストの皆さんにお伝えしたく、ブログを書きました。

研究室にこもっているあなたこそベンチャーの最先端を走っている

リーンスタートアップのビジネス手法も、ソフトウェアのプログラミングのお作法も、機械学習までも、急速に民主化が進み、オンラインで学び、習得できるようになってきました。

が、バイオロジーは高価な研究設備・研究室への日常的なアクセスがないと学ぶこともできないし、イノベーションを起こす材料と出会うこともできない世界です。CRISPR、癌のイミュノセラピー、遺伝子シーケンシング、、、テーマを挙げればキリがないほどにこの10年で分子生物学は驚異的な進歩を遂げました。この日進月歩のバイオの世界で、ITとリーンスタートアップのお作法を学んだ若手サイエンティストがおこしうるイノベーションのポテンシャルは無限大です。

そして、ある程度の偏見も込めて、そのイノベーションを起こすのは、ソフトウェアエンジニアではなく、日々研究室で朝から晩まで実験しているサイエンティストからではないか、と思うのです。

最近、日本でもシェアラボができたり、バイオ系インキュベーションが増えたりとエコシステムがどんどん良くなっています。

可能なら10年若く生まれたかった、今大学院生でいたかった、と思うこともしばしばですが、これも運命。ちなみにある程度ビジネスの経験を積んでから、キレキレのサイエンティストと一緒に仕事できるのも、とても、とても楽しいものです。

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