売り上げの回収が困難を極めるアメリカの医療業界

私はシリコンバレーの某遺伝子検査薬のベンチャーで仕事をしている。業界に飛び込んでみて一番驚いたのが薬なり検査薬を使ってもらった後の売り上げ回収がいかに難しいかということである。

アメリカは健康保険がバラバラ

まず、アメリカは日本やイギリスと違って国民全員が入る共通の保険がない。国が提供しているのは、メディケイド(Medicaid)という低所得者・身体障害者向けの保険とメディケア(Medicare)という65歳以上の老人が入れる保険の2つのみ。ほかの一般の人々は、民間が運営している健康保険にそれぞれ加入するのである。オバマケアが2010年に導入されて、国民は皆、保険に加入しなければいけなくなった。(加入しないと罰金という形で、税金がより多くひかれる。同時に保険会社側もその人の病歴を見て保険加入を拒否することができなくなった。)だけれども、保険の提供者は引き続き民間企業であり、市民は何百種類とある健康保険の中から自分が入りたい保険を選び、月々の保険金を払う。

保険会社ごとにカバーする薬もバラバラ

この健康保険の種類が何百もあるというのは、市民にとっても医療関係者全員にとっても極めてくせ者である。というのも、保険ごとに、どの病院・医者が行う医療行為はカバーされるのか、どんな治療や薬・検査はカバーされるのかが全部違うのだ。その結果、個人は病院にかかる時に、自分の保険会社がカバーしているところなのか(in-networkという)、そうじゃないのか(out-of-networkという)、調べないといけない。さらに病院がカバーされていても、そこにやってくる麻酔科医はカバーされない、ということも日常的にあって、後からバカ高い請求書がやってきたりする。病院側も患者を受け付ける時から、その人が入っている保険が効くのか効かないのかを調べ、さらにどういう治療はカバーされるのか、カバーされないのかを調べる。保険会社はたいてい化石時代のテクノロジーを使っているのでオンラインでぱっと調べられるわけでもなく、結果、病院の事務は一日中保険会社に電話をかけている。

FDA承認が下りる=保険が下りる、ではない

これは薬や検査キットを売る側からするとどういうことかというと、FDA(Food and Drug Administrationー薬の販売の許可を行っている政府機関)から承認が降りたあとも、個別の保険会社と交渉をして保険でカバーしてもらえないと、薬の費用がほぼ回収できないのである。

追記:薬が承認を受けてから保険適用対象になるまでのプロセスは病院内で処方される薬(点滴など)、病院から処方されて薬局で受け取る薬、また検査薬でだいぶ違うようです。病院内で使われる薬の場合は、FDA審査を通ると同時に、メディケア(高齢者向け)から保険適用を受けるようです。多くの民間保険がメディケアを追随するため、タイムラグは短いと思われます。処方薬の場合はその都度保険適用するかどうか判断されるようです。検査薬はFDAに治験結果を出す前からCLIAという別の承認制度(メディケアとメディケイドを運営するCMSが管理しています)を使って上市することができます。このため、承認時に十分に効用があるか、もしくは医療コストを削減できるか、というデータが揃っていないケースも多くあります。それもあって保険会社も慎重になって十分な治験結果が揃うまでは保険適用にいれない判断をするようです。保険会社がまともな治験データが揃うまで保険適用をしないのはまっとうな判断だと思いますが、それぞれがバラバラに判断を行うため、多くの重複作業が生じ、無駄は多く発生しているかと思われます。

薬を売り始めてから保険カバーを受けるまで

そこで製薬会社はどうするかというと、まず薬を開発している段階からたくさんの人手とお金をかけて、「保険カバー戦略(reimbursement strategy)」を立てる。検査薬の場合は、その検査薬を使うことによって、無駄な治療や追加の検査が省けるというストーリーがあると、それは保険会社の出費を抑えることになるので保険会社が説得しやすい。次にそのストーリーを証明するための臨床試験をやる。

注:検査薬の場合は、FDAに治験データを提出することなくCLIAという別の承認の下、検査薬を上市できるので、臨床試験が発売後になることも多くあるのです。

そして、臨床での実績を蓄えた上で、その病気の学会の治療ガイドラインに盛り込んでもらえるよう努力する。同時に保険会社とは個別にひたすら交渉を続ける。保険会社も横並び姿勢が強いので、過去のパターンを見ていると、なんだかんだメディケア(高齢者向け公的保険)がカバーすることを決めるとほかの保険会社が追随しやすい。また、治療ガイドラインに織り込まれる頃には、大半の保険がカバーする印象だ。(といっても100%ではない。)

保険カバーされるまでの数年間はタダ同然で配る

で、問題は、この「薬の承認が降りて発売できるようになって」から、「大半の保険会社からカバーされるようになる」まで、数年からときには10年近くのタイムラグがあるのだ。大半の医者は臨床現場での実績がある程度出るまでは新しい薬を使いたがらない。学会も、十分な実績が揃い、多くの医者からのコンセンサスが得られるまでガイドラインには入れたがらない。保険会社もそういう実績が見えるまではカバーしたがらない。だから、それまでは医者に使ってもらって慣れてもらいつつ、成果を示す材料(=あとから論文にする)を集めるためにも、薬会社は売上回収の見込みがなくても薬を売り込んで使ってもらうのである。

患者さんからの売上回収も難しい

なるほど。確かに最初は保険会社がカバーしてくれないかもしれない。でもそういう場合は患者さんに費用請求がいくじゃないか。現に私も度肝を抜かれるような医療請求書を何度も見た。日本のように混合診療の規制もないし、個人負担で回収できればいいじゃないか、私は業界に飛び込む前は思っていた。

ところが、入ってみて、本当に心からびっくりしたのだけど、患者に請求書が回った後の回収率が、恐ろしく低いのである。

その原因の一つは、企業側がとにもかくにもその薬を使って欲しい、と必死になるからだろう。ともかく患者にも医者にも、保険のカバーを気にせず使ってもらわないと、将来保険にカバーしてもらうための土台ができない。だから請求書を患者に送るところまではやっても、そのあと催促のための電話をしたり、Collection Agency(取立代理会社)に回して回収するというところまではやらない。

ヘルスケア業界では患者さんからの借金回収率は15–20%

だが、それでも、書面で届いた請求書の支払いをする人がそんなに少ないとは。。。気になってググったところ、ヘルスケア業界全体でのdebt collection rate(借金回収率)は15–20%らしい。。。ぬおー、、、さすが借金大国アメリカ。

保険適用を受けてからも困難がいっぱい

保険会社にカバーしてもらえるようになってからも、個別ケースごとに保険適用されるかどうかの判断を保険会社が行うため、支払い却下されるリスクもあるし、患者負担分の回収リスクは引き続きつきまとう。さらに保険会社側のミスで支払い手続きが止まったり忘れられたり間違って行われたり、ということは日常茶飯事である。(BillAdvocatesによると医療費請求書の8割は間違いが含まれているらしい、、、!)そんなわけで、薬の定価と保険会社が支払いに合意してくれた契約価格(これも保険会社ごとにバラバラ)、更に実際に売上回収できた平均価格にはそれぞれ大きなひらきがあるのである。

日本の国民皆保険制度がうらやましい

アメリカの医療費は他国に比べて抜きん出て高い。その理由はいろいろあるが、この費用回収にかかる恐ろしい手間と未回収分が費用に上乗せされている分はけっこう大きいんじゃないだろうか。アメリカに住んでいると、国民健康保険がある日本が心底うらやましくなる。