小さな怒りを、大きな光へ

金剛界四仏についての覚書き vol.1

1200年前を生きた弘法大師・空海の教えを、21世紀的のいま、ソーシャルデザイン教育に応用しようという試み「空海とソーシャルデザイン」。

その体系化のヒントとして、真言密教の根本経典のひとつ『金剛頂経』をもととした『理趣経』を参照している。とはいっても「男女の交わりは、清浄なる菩薩の境地である」というセンセーショナルな内容で知られる大一段「十七清浄句」ではなく、第三段から第十段までの「八如来の教え」のほう。

試行錯誤中のYOSHマンダラ

それが奏功するかはわからないけれど、うまくいきそうな予感はあって、この半年のあいだ“YOSHマンダラ”をつく直しては壊す、という地道な作業をずっとつづけている。

理趣経を理解するために、ひたすら参考にしているのは、松長有慶猊下著『理趣経』。もう何度、読み直したことだろう。

『理趣経』をひとことでいえば「欲望」という、「人間の本来もっている生存エネルギーのすばらしさについて、一つの方向から解答を出そうとした経典」。かつて空海と最澄のトラブルのもととなったほど、簡単には公開してはいけない秘密の教えとして受け継がれている。

もはや表面的な理解さえも及ばないほどその内容は深いのだが、「ほしい未来は、つくろう」という、いわば「欲望を持て」というメッセージを世の中に流布してきた僕とすれば、きっと一生をかけて『理趣経』と向き合っていくことになるのだろうと覚悟している。

「八如来の教え」の主人公となるのは、金剛界四仏=阿閦如来、阿弥陀如来、宝生如来、不空成就如来(登場順)。東寺にある立体曼荼羅において、大日如来を囲む諸如来たちにあたるので、少しは身近かもしれない。

真言密教の根本となる大日如来の教えは、真理そのものながら、完璧すぎるがあまりつかみどころがない。そこで、4つの切り口からその本質に迫れるにと、それぞれの如来があてがわれている。すなわち大円鏡智、妙観察智、平等性智、成所作智という四智である。

大円鏡智(阿閦如来)=一切のものを映しとる
平等性智(宝生如来)=共通性を見つけ出す
妙観察智(阿弥陀如来)=ものの違いを見つけ出す
成所作智(不空成就如来)=活動を起こすもと
水の性(性質)が澄んでおだやかで、一切の色や姿がその上に表われるのを「大円鏡智」にたとえる。あらゆるものの影が水に映っても高下なく水面が等しい高さであるのを「平等性智」にたとえ、その水の中にー切の色とか姿の区別がはっきり表わ札るのを「妙観察智」にたとえ、(…)あらゆる生きものが水によって育まれ成長することを「成所作智」にたとえる。
『理趣経』松長有慶、p107

ここまでは何となく付いていける。水の例えもしっくりくる。

しかし、おだやかそうな「大円鏡智」担当の阿閦如来をみてみると、いきなり怒っているのである。青黒い顔をして、腹が立って仕方がない様子。こうした戸惑いから、理趣経は幕を開ける。

阿閦如来は何に怒っているのか。それは「平和に暮らす人々を襲う悪魔への怒り」である。と同時に、区別したり差別したり、物事を対立的に見てしまう考え方(戯論)をもつ自分自身に対する怒りでもある。

そのようなあらゆる迷いの原因となる戯論をやっつけて、「自由闊達な精神活動」ができるよう、敢えて怒りの姿で私たちを導こうとしているのだ。

これは釈迦が悟りを開いた「降魔成道」のエピソードそのものである。悪魔と対峙した結果として、大円鏡としかいいようのない絶対的な境地に入る、ということ。そうすると個人的な怒りの中身の質が変わって、世の中の不平等に対する怒りへと止揚していく。

このことをいつでも思い出せるように、座右のおまじないとしてみるなら「小さな怒りを、大きな光に」かな。

そんな阿閦如来は大日如来の「勇気」や「永続性」の象徴であり、そのあり方を形容詞でいえば「radical」(根源的であるがゆえに急進的)といえるかもしれない。

そしてこの怒りとの向き合い方は、ソーシャルデザインの始まり方ととても似ている。ふとした疑問、違和感、許せないこと、嘆き。そうした心の動きを密教では生きるエネルギーの源として大切にする。

そして怒りが転じて「何とかしたい!」という欲に変わったときに、小欲から大欲へ、対立を捨てるような、次元を超えた、もっと大きな「底なしの欲」へと育てていくための力を与えてくれる。

阿弥陀如来は大日如来の「慈悲」と「観察のしかた」を象徴し、宝生如来は「平等」と「価値の見つけ方」を象徴し、不空成就如来は「はたらき」と「実行力」を象徴する。こうして眺めてみるとやはり、どれもがソーシャルデザインに必要そうな力である。

「空海とソーシャルデザイン」という着想そのものは、数年前よりずっとあった。しかし、それが「ソーシャルデザイン教育」という方向性と出会ったのは京都精華大学で教えはじめてからであり、しっかり自分の言葉として伝えられそうな気持ちになったのは、いよいよ、たったいまくらいのことである。

文章を書けなくて悩んでいたのではなかった。まだまだ中味がともわなかったから書けないのであり、そのことに迷っていたのだった。

いま勉強家としての成長が、習慣の更新が、「空海とソーシャルデザイン」執筆の背中を押す。今までの小さなフラストレーションのかけらたちが、報われて大きな光へと向かっていく。

Show your support

Clapping shows how much you appreciated 勉強家の兼松佳宏’s story.