貨幣を貨幣たらしめるものはなにか&仮想通貨の今後の展望(貨幣論の観点からの考察)


本記事のテーマ

①貨幣を貨幣たらしめるものは何か
②ビットコイン等の仮想通貨の今後について貨幣論の観点からの考察

そもそもの疑問:なぜ我々は貨幣に価値があると思う(ex.貨幣を欲する)のか?

一般論として人々が貨幣(お金)を欲するというのが体感的に理解できる。そして、それは不況の際に顕著に現れる。 多くの人が銀行に殺到し、お金を引き出そうとするも銀行の保有する現金が足りず銀行が破綻する現象などがその典型である。

では、貨幣の価値を根拠付けるものは何か。その根拠については、様々なことが言われている。金貨の流通する時代は金が含有されているから、金本位制下の兌換紙幣は金と交換できるから、信用できる国家が発行しているから等々 。

しかし、私は生きているうえでそのようなことを意識したことはなかったし、また仮想通貨のようなただのデータも貨幣として使われだし、何が貨幣に価値を与えているのかという疑問が湧いた 。そこで、我々が貨幣に価値を感じる理由は何かについて考察を始め、貨幣を貨幣足らしめるものとはいったい何なのか、そして仮想通貨は貨幣として成立しうるのか、その展望はどのようなものかについて考察した。

結論

①貨幣を貨幣たらしめるものは何か
→A.貨幣が貨幣として流通していること。
②ビットコイン等の仮想通貨の今後について貨幣論の観点からの考察
→A1.他の貨幣と同様に存続しうる。
→A2.ただし、中央集権的組織によって管理されない、世界共通の唯一の貨幣として、長期に渡って存続することはなさそうである。

本論に入る前に:使用価値と交換価値

この記事は、岩井克人氏の著書「貨幣論」をベースとしていてる。貨幣論は、資本主義社会を分析するために商品・貨幣について深く考察したマルクスの「資本論」の貨幣についての記述をベースにその理論を発展させたものである。
そこで、議論の前提として資本論と貨幣論の中心的な概念である使用価値と交換価値を説明する。
マルクスは資本論の中で商品には2つの価値があると言い、貨幣論もそれを踏襲している。
(左写真はAmazonより)

  • 使用価値
    使用価値とは。「人間生活にとって一つの物が有用であるとき、その物は使用価値…(略)。」(資本論p.56)とされている。ブランドもののカバンを例にとれば、ものを入れて持ち運びができるという機能や持ち歩くことによる社会的ステータスの獲得という機能が使用価値と言える。人々の欲望を満たすものと言い換えても良い。
  • 交換価値
    交換価値とは、他のものと交換できるという価値のこと。例えば、Tシャツ1枚が、スニーカー1足、お米15kgと交換できる時、そのTシャツはスニーカー1足と交換できる交換価値がある、お米15kgと交換できる交換価値を持つといえる。1つの商品単体でこの価値を表現することはできない、あくまでいくつかの商品の関係性の中でしか出てこない価値である。(Tシャツ1枚はTシャツ1枚の価値であるといったところで、それは何の意味もなさない。)

本論

①貨幣を貨幣たらしめるものは何か

結論①の答えにたどり着くために、商品の世界をいくつかの段階に区切って順を追って説明していく。

I.資本論(マルクス)、貨幣論(岩井氏)共通の論理展開

第一ステップ:2つの商品の関係から商品の価値について観察する(貨幣に価値を感じる秘密の発見:モノとしての生来の機能と社会的な関係にすぎない交換可能性の混同)
単純な物々交換の世界を想定する。Tシャツ1枚を持っている人が空腹により、お米を欲しいと思った。この時、お米を持っている人もTシャツがほしいと感じたため、Tシャツ1枚がお米15kgと交換されたとする。
この時、以下の等式が成り立つ。

<A:単純な価値形態>
Tシャツ1枚=お米15kg

Tシャツ1枚はお米15kgという交換価値を持つと表現された。この時、Tシャツは、お米の持つTシャツとの直接的な交換可能性(=お米があればTシャツと直接交換できるということ)を通じて、その価値を表現しており、お米はTシャツの価値を表現するための材料となっている。
ここで、ある錯覚が起きる。お米がTシャツの存在と関係なしに価値を持ち、それ自体の価値によってTシャツと直接的に交換できるのだという錯覚である。Tシャツの価値が、自分とはまったく異なるお米との相対的な”関係”の中で表現されるもので(Tシャツだけでなくお米が登場して始めて価値が表現できていて)、それ単体ではその交換価値を表現できないことは明らかであろう。その一方で、お米は、そのTシャツとの直接的な交換可能性によって、それ自体に価値があるように見えてしまう。具体的には、お米に価値があるから、お米15kgでTシャツ1枚と交換できると感じるということである。本来、お米がTシャツと直接交換可能なのは、お米がTシャツから直接的に交換する可能性を与えられているという社会的な関係(e.g.Tシャツ1枚をお米15 kgと交換したいという人とお米15kgをTシャツ1枚と交換したいという人が出会い交換を合意した)の結果に過ぎないのだが、Tシャツとの交換可能性を、使用価値(ex.食し空腹を満たすといった機能)と同様にお米が生まれながらにして持っているものだと錯覚し、そこに価値があるように感じてしまう。
ここに、私達が貨幣に価値を感じる秘密を明らかにするきっかけが見出だせる。

ただ、このままでは一個人が勝手にそう思いこんでいるだけ(上記の例で言うと、Tシャツを持っていた人がお米そのものに価値があると錯覚している)の状態である。つまり、「Tシャツ1枚=お米15kg」の等式のお米15kgの部分を貨幣に置き換えても、貨幣に感じる価値は一個人のただの錯覚でしかないことになる。ということは、ある日、その個人が貨幣の価値は錯覚だと気づけば貨幣に価値を感じなくなり、その貨幣は貨幣として機能しなくなるのではないかという疑問が出てくる。しかし貨幣はそう簡単に消え去る錯覚などではないという現実がある。
この問題を明らかにするために、以下でより多くの商品を登場させた世界を考察する。

第二ステップ:より多くの商品を登場させてみて、交換において、手に入れる商品(上記の「Tシャツ1枚=お米15kg」の例で言うと右辺のお米15kg)そのものに価値があるという錯覚が一個人ではなく社会において成立している過程を観察する。
まずは、Tシャツ1枚がお米15kgの他にも、鉛筆200本、茶碗4杯、ゲームカセット1つ等々、あらゆる商品と交換できる状態を想定する。その結果、Tシャツ1枚の交換価値は様々な商品を通して表現される。

<B:全体的な価値形態>
Tシャツ1枚
=お米15kg (Tシャツはお米15kgの交換価値を持つ)
 =鉛筆200本 (Tシャツは鉛筆200本の交換価値を持つ)
 =茶碗4杯 (Tシャツは茶碗4杯の交換価値を持つ)
 =ゲームカセット1つ (Tシャツはゲームカセット1つの交換価値を持つ)
 =…… (Tシャツは…の交換価値を持つ)

Tシャツ作りとその販売を生業にしている人がいたら、「Tシャツ1枚がだいたいどれほどの価値を持つのか」が、交換できる無数の商品郡によって、それとなしに把握できる状態。「Tシャツ1枚、だいたい”アレくらい”だな」という感じで。
続いて上の等式の左右をひっくり返してみる。 (上の式が成り立つのだから以下の等式も成り立つ)

<C:一般的な価値形態>
お米15kg = Tシャツ1枚
鉛筆200本 = Tシャツ1枚
茶碗4杯 = Tシャツ1枚
ゲームカセット1つ = Tシャツ1枚
…… = Tシャツ1枚

左右逆にしただけで何も変化が内容に見えるが少し変化がある。先程のTシャツ作りを生業にしている人が「Tシャツ1枚、だいたい”アレくらい”だな」と思っていた”アレくらい”が、世の中の基準になったような状態である。「この食器はTシャツ2枚ぶんだな」、「この魚3尾はTシャツ1枚と交換できるな」等。
この段階で、世の中の商品は全て、Tシャツという統一媒介によってその交換価値を表現されるようになる。
(cf.マルクスはこの時のTシャツを、一般的等価形態と呼んだ。)

第三ステップ:金が貨幣の地位を得て、交換媒介たる金そのものに価値があるとの錯覚が社会的に固定化する。
上では媒介物としてTシャツという商品を例にあげたが、現実世界においては媒介物として金という商品の方が優れている。(均質的・分割可能・耐久的etcの理由で。Tシャツは耐久性が足りず長い流通過程で欠けたり消失したりしてしまう。)
そこでTシャツに代わり、金が媒介物としての地位を得たとマルクスは唱えた。

お米15kg = 金1g
鉛筆200本 = 金1g
茶碗4杯 = 金1g
ゲームカセット1つ = 金1g
…… = 金1g

ここにおいて人々は、金(貨幣)の持つ世の中のあらゆる商品と交換できる性質を生来のものと捉え、金そのものに価値があるという錯覚が社会的に固定化する。
以上が人々が金(貨幣)に価値を感じ、金が貨幣として流通する理由である。

II.貨幣論(岩井氏)特有の論理展開

岩井氏は、「マルクスの主張のままでは、金が価値を持つように感じるというのは人々の共同幻想の域を出ないのではないか」という主張した。
今までのマルクスの論と岩井氏の論を整理すると以下のようになる。

【マルクスの主張】
金がその均質さ・分割可能性・耐久的等の貨幣として優れた特性を持つがゆえに諸商品の中から媒介物として選ばれた。
→結果として、あらゆる商品を金と直接的に交換できるようになった。
→それゆえ、金の持つあらゆる商品との交換可能性をそれ自体に内在しているものと人々は誤解する。そして人々は金その物に価値があるように感じるようになり金は貨幣として流通した。(ここまでマルクスの主張)
【岩井氏の主張】
確かに一個人の錯覚とは言えないが、共同幻想でしかなく、人々が同時に金自体にあらゆる商品との交換可能性があるわけではないと気付けば金を欲しなくなりそうなものである。例えば、日本国政府が一万円札は紙切れでそれ自体に何の価値もないですと、アナウンスしたところで人々は一万円を使わなくなるわけではない。実際、私たちは一万円札はただの紙きれでしかなくそれ自体に価値はない(ex.1枚の紙切れが高級メロンと交換することができる性質を元々持っているわけではない)と理解しているが、それでも私達は一万円札には価値(←他のあらゆる商品との交換可能性)があると思い一万円札を使用する。それはなぜか?共同幻想以上の何かがあるのではないか?という問を岩井氏は立てた。
(=貨幣が貨幣であるという事実は玉音放送によって、霧散してしまう共同幻想などではない、商品世界の存立構造そのものが必然化する社会的な実在…。貨幣論p.52)

岩井氏は、マルクスが「C:一般的な等価形態」を想定したあとすぐにTシャツを金に置き換えてしまったこと点に問題があったと考える。そこで、一旦Tシャツとその他商品が交換されていた第二ステップに戻る。
以下の等式が最初から成立している世界(あらゆるものがTシャツを通じてその交換価値を表現される世界)を想定する。

<C:一般的な価値形態>
お米15kg = Tシャツ1枚
鉛筆200本 = Tシャツ1枚
茶碗4杯 = Tシャツ1枚
ゲームカセット1つ = Tシャツ1枚
…… = Tシャツ1枚

上記の等式が成り立つなら以下の等式を導ける。

<B:全体的な価値形態>
Tシャツ1枚
=お米15kg 
 =鉛筆200本 
 =茶碗4杯 
 =ゲームカセット1つ
 =……

つまり、
Tシャツがほかの全ての商品に自分との直接的な交換可能性を与えている(C:一般的な価値形態:「お米15kg・鉛筆200本・…は、Tシャツ1枚と直接交換できる」)ことによって、Tシャツが他の全ての商品からそれら商品との直接的な交換可能性を与えられる(B:全体的な価値形態:Tシャツ1枚はお米15kgにも鉛筆200本にも…にも直接交換できる)という関係が成り立つと言える。

これをIIまでの考察と合わせると、①Tシャツがほかの全ての商品に自分との直接的な交換可能性を与えている(C:一般的な価値形態)ことによって、Tシャツが他の全ての商品から直接的な交換可能性を与えられ(B:全体的な価値形態)、②Tシャツが他の全ての商品からそれら商品との直接的な交換可能性を与えられる(B:全体的な価値形態)ことによって、Tシャツが他の全ての商品に自分との直接的な交換可能性を与えている(C:一般的な価値形態)という、①と②が繰り返す循環論法に、媒介物としてのTシャツは支えられていることがわかる。

ありとあらゆる商品をTシャツと交換することができる(C:一般的な価値形態)→Tシャツをありとあらゆる商品と交換することができる(B:全体的な価値形態)→ありとあらゆる商品をTシャツと交換することができる(C:一般的な価値形態)→Tシャツをありとあらゆる商品と交換することができる(B:全体的な価値形態)→…

Tシャツが他の全ての商品と直接的に交換可能であるという性質はTシャツ生来の性質ではないにしても、共同幻想ではなく、この循環論法によって確立しているのである。
そして、この循環論法が成立し貨幣が貨幣としての役割を果たすためには、社会的労働の投入(ex.金で言うなら、金を掘り出すのにたくさんの労働量が必要)や主観的な欲望(ex.金で言うなら金を身につけることでステータスを獲得できる)といった実体的な根拠は必要ではない。
均質的で分割可能で耐久的等々の貨幣として優れた性質を備えたものであればどんなものでも貨幣となり得るし、貨幣として社会的に認められ一度流通しさえすればその商品は貨幣となる。

少し冗長かもしれないが以上の結果を、Iまでに導かれた「金(貨幣)が価値を持つというのは共同幻想でしかない」という論理展開と比較してみる。

Iまでの論理展開では、Tシャツ以外の全ての商品がTシャツとの直接的な交換可能性を持つ(B:全体的な価値形態)ことによって、Tシャツはほかの全ての商品に自分との直接的な交換可能性を与えている(C:一般的な価値形態)。その結果、他のあらゆる商品との直接的な交換可能性というTシャツとその他の商品の関係による帰結でしかない性質が、Tシャツ自体に生来備わっているものだと錯覚しTシャツそのものに価値があると勘違いする 。
その認識はTシャツ自体にはなんの価値もないと全員が気づけば霧散してしまうような淡い共同幻想である。ここまでがIまでに導かれた結論である。

一方、上記で見たように、Tシャツがほかの全ての商品に自分との直接的な交換可能性を与えている(C:一般的な価値形態)ことによって、Tシャツが他の全ての商品から直接的な交換可能性を与えられるという関係も成り立つので、Tシャツが他の全ての商品と直接交換可能であるという事実そして他の全ての商品がTシャツと交換できるという事実は、Tシャツ生来の性質ではないにしても、循環論法によって確立しているのである。
それは共同幻想ではない確かなものである。

以上まとめると、
貨幣はそれ自体、何の実体的価値を持たずとも、一度貨幣たる地位を占めたならば(循環論法の中の媒介物として成立したならば)、「あらゆる商品と交換できるかつあらゆる商品はその貨幣に置き換えられる」という貨幣としての機能を果たし続けるということである。
より具体的に、特定の値を持つ一万円札を例にとって説明すると、
一万円札が、一万円の価値をもつ全ての商品(ex.高級メロン、松阪牛500g)から直接的な交換可能性を与えられている(買い:一万円札を提示し、高級メロンと交換)という役割と、一万円の価値を持つすべての商品に直接的な交換可能性を与える(売り:高級メロンを提示し、一万円札と交換)という役割を交互に無限に繰り返すことで、自らの一万円という価値を持つ媒介物として存在し続けるということである。

ここに置いて結論の①に到達する。
①貨幣を貨幣たらしめるものは何か
→A.貨幣が貨幣として流通していること。
(※補足:流通することで上記の循環論法が発動し、貨幣が貨幣としての役割=「貨幣をあらゆる商品と交換することが可能」&「あらゆる商品を貨幣と交換することが可能」を果たすようになる。)

以上より、理論上、貨幣を貨幣たらしめるものは、貨幣として流通することであると言える。

III.貨幣に実体的な価値がなくても、貨幣たりえた有名事例

ここで、貨幣に実体的な価値がなくても、人々・社会が一度貨幣として受け入れさえすれば機能し始めた有名な事例として、ドイツのハイパーインフレーションを収束させた「レンテンマルクの奇跡」を取り上げる。

第一次大戦後、ドイツでハイパーインフレ(物価の急激な高騰、貨幣価値の急激な低下)が発生した。当時の貨幣であるマルクの価値は大暴落し紙くず同然となった。ドイツ政府はやむなくレンテンマルクという新しい貨幣を導入したところハイパーインフレ状態は一気に収束した。レンテンマルクは土地を担保にしたとされるが、実際には土地とレンテンマルク交換することはできなかった。しかし、レンテンマルクは機能したのである。
結局のところ人々が、導入されたを貨幣として機能する(レンテンマルクの例で言うと、1レンテンマルクを持っていれば、将来1レンテンマルク相当のものと交換できる)と一度信じさえすれば、循環論法に支えられ貨幣に価値があると人々は認識し、貨幣が貨幣として回り始めるのである。

②ビットコイン等の仮想通貨の今後について貨幣論の観点からの考察

ここでは、ビットコイン等の仮想通貨の今後の展望について、①で導き出した結論から考察する。Proof of work等の仮想通貨の技術的な側面に関しての問題についてはここでは立ち入らず、貨幣論的に仮想通貨の今後について考察する。

仮想通貨の存続可能性

これまでの考察で、貨幣はなんの実体的価値を持たずとも貨幣として機能することがわかった。とすれば、仮想通貨でも貨幣として優れた特徴(均質さ、分割可能性、耐久的等々)を持てばもちろん貨幣となりうる。
仮想通貨はただのデータであり目に見えないため既存の貨幣と断絶があり感じられ貨幣として成立するのか疑問を抱くかもしれないが、貨幣の歴史を紐解けばそのような断絶は過去に何度もあり結果的に乗り越えられてきたことがわかる。具体的には、「金→鋳造された金貨(〜gの金を含有と書いてあるが実際すり減ったりして額面通りの含有量はない)」、「金貨→兌換紙幣(金との交換を保証するという裏付けがある紙幣ではあるもののそれ自体はただの紙切れ)」、「兌換紙幣→不換紙幣(金との交換が保証されていない紙幣)」のように。
そしてもっと言えば、現在日本で支払い等に使われるお金のうち実体として存在する現金通貨(日本銀行券と硬貨)は約95兆円であるのに対し、銀行預金は約620兆円(cf.信用創造)である。(マネーストック残高:2017年5月、日本銀行資料)。つまり仮想通貨の誕生以前にお金は電子化・仮想化されているのである。

以上より仮想通貨は、他の貨幣と同様に存続しうると考えられる。

中央集権的な管理組織が存在しないかつ世の中に流通する唯一の貨幣としての仮想通貨は存続し続けられるか

まずとある貨幣が存続できなくなる状態について考えてみる。それは、貨幣が使い物にならない状態、すなわち他のいかなる商品とも交換できずかつ他のいかなる商品もその貨幣に交換できない状態である。具体的に言えば、ハイパーインフレーションのことである。
ハイパーインフレーションとは急激な物価の上昇すなわち急激な貨幣価値の下落であるが、その発生過程は以下のようなものである。

人々が進行中のインフレーションが一時的なものではなく、将来ますます加速していくに違いないと予想し始める→貨幣価値が下がると予想する人々は自分の貨幣を手放して商品を買う→商品への総需要があがりかつ市場に貨幣がさらにあふれることで、物価がますます上昇する→人々はますますインフレは加速すると思うようになる→貨幣を手放し商品を買う→…
以上の繰り返しによりインフレーションに歯止めが効かなくなりハイパーインフレーションが起きると言われている。(ちなみに、上述した第一次大戦後のドイツのハイパーインフレでは1922年6月から物価上昇が急速化し、1923年11月までの月平均物価上昇率は322%であった。)

ハイパーインフレが発生すると貨幣の価値はほぼ0になりその貨幣は使い物にならなくなる。このためハイパーインフレが起きぬよう、貨幣の供給量を調整する必要があり、日本だと日銀が管理している。しかし、現存する仮想通貨は脱中央集権的でその供給量を管理する主体がいない。供給量を管理することができないため、中央集権的組織によって管理されない世界共通の唯一の貨幣が出現したとしても、それは存続し続けることはないであろうと予測できる。ただし、中央集権的な組織に依存せずに供給量を調整する仕組みが出てくると、その仮想通貨は長期に渡って存続し続けるかもしれない。

再度結論

以上より再度結論を述べると、

①貨幣を貨幣たらしめるものは何か
→A.貨幣が貨幣として流通していること。
②ビットコイン等の仮想通貨の今後について貨幣論の観点からの考察
→A1.他の貨幣と同様に存続しうる。
→A2.ただし、中央集権的組織によって管理されない世界共通の唯一の貨幣として、長期に渡って存続することはなさそうである。

参考資料

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