最近思ったことで、一見「矛盾」している2つの行為を、意志を持って同時に行うことができる人は強い、というものがあります。

起業をした頃に難しいなと思ったことの一つが、例えば「現実を受け入れる」ことと「夢をまっすぐ見る」ことのように矛盾する2つのことを同時に行う必要があるということでした。多くの人は厳しい現実に晒されると夢を持てなくなったり、逆に夢ばかり見て現実が見えなくなったりしてしまうことがあります。

しかし起業家の場合は、しっかりと現実も直視しなければ会社は潰れますし、同時に理想も掲げなければ未来に対して強い推進力が保てなくなってしまいます。

この「同時矛盾的行動」に関心を持つようになったのは起業をしてしばらく経った頃で、全く自分の得になるわけでもなく他人の邪魔をするために邪魔をするような人からの嫌がらせなど様々な矢面に当てられて、人に対しての信頼を手放しかけたことがありました。

そのときに大先輩の経営者から、「人を疑う」と「人を信じる」は両方同時に持てるものだから、頑なにならずに変わらず純粋でいてほしいと言われました。それがきっかけで、人を信頼もしながら健全な猜疑も同時に持つということができるようになり、矛盾することは同時にできるのだと思い始めました。

上記の例だけでなく、会社経営を行うに当たっては、多くの相反することに向き合う必要があります。自分の利益と他者の利益が相反する、短期的利益と長期的利益で取るべき施策が矛盾する、進みたい方向とステークホルダーに求められる方向が相反する、などです。

このように社会は多くの矛盾を保持していますが、それではこのような矛盾は何故生じるのでしょうか。経営を通してさまざまな相反することを経験するうちに、世界の矛盾に対してどう向き合うべきかについて考えるようになりました。

生命は生きるだけでそもそも矛盾を抱えている

原点に立ち返ってそもそもですが、生命自体が生きているだけで多くの矛盾を抱えています

生命は「個体として生き延びて種として繁栄する」ことをミッションとして、その様々な仕組みを持っています。しかしそのミッション自体が矛盾を含んでいます。

例えば、個体として生き延びるために必要なのは「利己」的思考なのに対し、種の繁栄のために必要なのは「利他」的思考です。また、細胞にとっての死が個体の生を生み、我々一人ひとりの個体がいずれは死ぬことが種全体の繁栄を生み、生物種の栄枯盛衰が生命を存続させる、というように利害が一致しないように見えます。

ここで、例えば「細胞が死んで入れ替わった方が体を健康に保つことができる」という風に、メカニズムを客観視すると誰もが同意するにも関わらず、「我々人が死んで入れ替わった方が人類を健康に保つことができる」と、自分が一員になって主観的になった瞬間、「一人の命と多くの人の命はどちらに価値があるのか?」というような矛盾的な問いを抱えたりします。

ここから考えられることは、本当は矛盾はどこにも存在せず、どこに「主観的な思考の系」を作るかという思考枠が複数存在するだけだということです。

「現実を受け入れる」と「夢をまっすぐ見る」を同時に行う

それでは冒頭の話に戻って、「現実を受け入れる」と「夢を描く」を同時に行うことの解説をしたいと思います。

「現実を受け入れる」という思考が由来する事象の時間軸は、現在を含む現在以前の「過去」に起こってきたものです。当然ながら現実的な思考は現実に起こったことがベースになっているからです。

逆に、「理想を追い求める」というのは思考の時間軸が、現在を含まない未来にあります。現時点で現実に存在するなら理想ではないからです。

つまり現在・過去に起こった事業の影響をより受けると現実的な思考となり、未来に起こりうる事象の影響をより受けると、理想ベースの思考となります。

ここで、「現実を見ること」と「夢を見ること」が矛盾しうるのは、人は限られた思考枠の中では左を見ながら右を見る、というのがなかなか難しいからです。

さらには、主観が付加されると、その主観の対象とする思考枠と自分の結合が強くなってしまい、両方の思考枠で見ることができなくなってしまいます

例えば、前述の「一人の命と多くの人の命どちらが大事か?」という問いに対して、ほとんどの人は主観が入らない限りは多くの人の命を選択するでしょうが、その一人の命がもし自分の子供やとても大事な人であれば、他の思考枠で捉えることができず、答えは変わってきます。

いま様々な場面で「超高齢化社会だから」「人口減少だから」「暗い世の中だから」など課題が山積している社会だという悲観的な風潮が見られることがあり、また昨今の世界状況をVUCA、つまりVolatility(不安定)、Uncertainty(不確定さ)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)と表現することがよくあります。

しかし私は、そんなカオスな状況こそが我々にとって最高を描くきっかけになり得ると考えているため、その考え方をシェアしたいと思います。

なぜカオスを生きた人は最高を描きやすいか

輝いている人々を観察していて気付いたことの一つで「カオスを生きた人は最高を描きやすい」という持論があります。

例えば、私は起業してから6年目になりますが、順調に進んでいたときよりも予想不可能なことや理不尽なことが起こったときこそ、自分自身や企業が目指したいものが何なのかということを明確に認識することができました。

私の周りの友人の起業家に、これまで生きてきていつが一番カオスだったか?という質問をして回ったとき、予測不可能な様々な問題が起こったときにこそ自分が目指したいものが固まっていると感じました。例えば3.11の震災をきっかけに起業した人も多いです。

また例えば、この仕事を人生をかけてどうしてもやりたいと、熱々と語っていた人に何故そうなるのかを聞いたところ、以前難病で生死の際をさまよった経験があり、そのときに「こういう風に生きたい」と気づいたと語ってくれました。

予測不可能な事態が起こる環境や理不尽な環境にさらされたときに人は、どういう環境であろうとどうしてもここに行きたいと、初めて理想とする世界を決めることができるというのはよくあることです。

それでは次に、なぜカオスな環境にさらされると人は最高を描きやすいか?という疑問になります。

そもそも「カオス」とは、「混沌とした秩序のない環境で予測が不可能である」ということです。

その混沌とした世界で自分の思い通りに行かない経験をすることで、自分が何を求めているのかの認識を重ねていくことになります。もしも世界が自分の思い通りであり、思い通りに進まない環境を経験しないのであれば、「社会をよくしたい」という概念が生まれることはありません。

人はカオスな環境にさらされると「自分軸」を持てるようになります。

例えば、規則正しい流れでどこにたどり着くかわかっている清流であれば身を任せても何の問題もないかもしれませんが、どこへ行きつくかもわからない大海にいるのであれば、自分の羅針盤は必要不可欠となります。カオスな環境では、他力本願では行きたいところへ行けません。

大海で予想外の流れに流されそうになって初めて、そっちは自分が行きたい場所ではないのだと認識できます。

つまり、カオスなによって自分の理想を認識しやすくなるのは、①カオスな環境によって自分軸が認識できるから、また逆に②自分軸がないと行きたいところにいきつけないから、ということになります。

それでは次に、何故カオスな環境によって自分軸が作られやすくなるのか?という疑問になります。

カオス環境だと自分軸が作られる理由

カオスな環境、つまり自分が予測不可能な無秩序混沌の世界だと、予測していなかった方向に行ったときに「何故そうなったのか?」という疑問が生まれます。

この「何故」の力が、カオス環境だと働く回数が多くなるため、自分軸が作られていきます。

例えば、仮想通貨の価値がずっと一定に高騰していたときは投機目的で思考停止しながら投資していた人も、価値が予測不可能になったときに初めて何故仮想通貨の価値が上がるのか?仮想通貨とは何なのか?何故自分は投資するのか?という思考が働くようになります。

また例えば、最初からその仕事がずっと存在している大企業に就職すると「何故その仕事が存在する必要があるのか?」について考えることは少ないかもしれませんが、起業して間もないベンチャーでカオスな環境下であれば、何故この仕事は存在する必要があるのか?何故この事業は取り組んで他の事業は取り組まないのか?何故自分はこの仕事をしたいのか?など繰り返し思考する機会が増えます。

近年では、「how」を考えるのは人工知能などあらゆるテクノロジーが代替することで飛躍的に問題解決をできる分野も増えており、それよりも「why」を設計できる頭が代替性が低く価値があると言われてきています。

サイエンスにおいても、データが溢れる時代では、どのように課題を解くか?よりも、何を課題と設定するか?のwhyの力の方が研究者にとってはより重要になるだろうという話を拙著にも書きました

企業でも個人でも同じで、何故自分はこの方向に進むと嫌なのか、何故自分の会社はそこに向かいたいのか、その疑問を積み重ねていくと、目指したい理想の世界が浮かび上がってきます。

それでは次に、なぜ「何故」を積み重ねると自分軸が作られていくのか?という疑問になります。

なぜ「何故」が重要かは、主観的命題が原動力だから

直近で、自分自身や会社のメンバーなど周囲で発生し交換される「何故」の疑問を観察してみて、それが何故生まれるのかを考えていました。

そうすると問いはおおよそ以下に当てはまります。
・自分の生活に直接関係する事柄
・自分の未来に関係がある事柄
・自分が期待している(のにそうなっていない)事柄
・自分が関心をもつ事柄
・自分にはないものや異なる考え方

以上からわかるのは、基本的にすべて自身が関わる「主観」に基づく発想であるということです。

5W1Hの疑問視うち、他のhowやwhatは客観的視点から疑問が生じる場合もあるのに対し、whyのみが「自分」に関わるとてつもなく主観的なものです。

つまり「何故」が発生した瞬間、その思考には主観が影響していることになり、逆に言えば主観を捉えるチャンスとなります。

例えば「この人は仕事ができる」は客観的指標を持って定量化できますが「何故この人は仕事ができるのだろう」と「何故」をつけた瞬間、自分との比較や、自分もこうなりたい、自分との差異は何か、など主観的な思考が含まれます。

例えば「今は超高齢化社会だ」と言うことは主観抜きで客観的に話せますが「何故」今超高齢化社会になっているのか?となった瞬間、例えば自分の視点の基準は前の時代に比較基準を置いている、超高齢化社会ではない社会をのぞんでいる、超高齢化社会で起こる問題を解決したいと思っている(=本当はその先にもっといい未来を望んでいる)、などの主観的な考えに気づくことになります。

「何故」の問いを設定することによって主観的な命題にきづくことができ、何を目指したいのかという「自分軸」が発生するようになります。

逆に「何故」の問いの設定能力が自分を持っていない人は代替性が高く「自分軸」が弱いことになります。

つまり何故「何故」が重要かというと、疑問の中で唯一の主観に基づくものであり、他には代替できない主観を形成する要素となるからです。

起業家でも「前に進む明確な理由がある人」が最も強いですが、その理由のほとんどは主観的な命題によって発生します。

それは企業にとっても同じで、ビジネスがうまくいっているときよりも、うまくいかないカオスなときの方が、何故それでもこの事業をやるのか、何故この事業をやらないのか、の問いを重ねることで企業として強くなっていきます。

「何故」の年輪を重ねることで、屋久島の縄文杉のように企業は太い幹を作っていきます。

これに関連して、京都大学の酒井敏先生が以下の記事のようにとてもいいことを言っており「カオスな時代こそ、生き残るためには変人であれ」と言っています。

世界が滅んでも生き残るため、京大生よ変人たれ。酒井教授が語る、カオスに立ち向かうための「京大の役割」

変人とは相対で、いわゆる「変人」と「常識人」がいたとして、世界中にその2人きりしかいなかったら「常識人」の方が変人とも言えます。

現在の常識人は、周りのマジョリティと一緒である、という他人軸なのに対して、変人というのは自分軸を持っている人です。

上記記事で酒井先生はマイノリティであればいいと言っているのではなく、「カオスな時代には周囲に忖度している場合ではなく、堂々と自分軸を持つ人であれ。」と言っているのだと思います。

他人にこう思われたいからこう、こうしてほしいと思われてるからこう、ではないということです。

日本で本当によくないなと思うのは、日本の教育環境ではwhyの封じ込めを一生懸命行っているということです。小学生の頃、なんで普通の鞄じゃなくて皆と同じランドセルじゃないといけないのか?と聞くと、そんなの聞くなんで変だと言われたのを覚えています。

しかし実際の社会では、教育によって封じ込められたはずのwhyの課題設定能力の方が極めて重要となります。

私の場合は会社経営を通じて簡単には思い通りに行かないカオスな環境を経験したことで、起業前よりもwhyの問いの設定能力が飛躍的に上がったという実感がありますが、後天的に獲得可能な能力だと考えています。

アントレプレナーシップはAIには代替されないと言いますが、それはwhy能力は人工知能には代替されないということです。

なぜなら何をするか、計算とか、どうできるかのhowは限界がある(時間があるから)が、whyについては生命が生きている限り主観的な世界に限界がないからだと考えています。

カオスな世界をどう見つめるか

カオスな時ほど、主観的な信念を心の底から固めていくチャンスでもあります。

これは、生物も、個人も、企業も、団体も、国も同じです。

しかし残念ながら、急にカオスな世界にさらされ過ぎて、潰れてしまう機会でもあります。

もしも今カオスな環境に身を置いていて、辛い想いをしている人がいるなら、「何故」の問いを積み重ねていくことで、能動的に信念を固めていくとよいです。

「何故自分はその環境がつらいのか?」「本当は何を目指したかったのか?」を積み重ねていくことで信念を積み重ねていくことができます。この積み重ねた信念は代替できない貴重な命題となり、それがカオスな世界を進撃する糧となります。

以前twitterの質問箱で以下のように回答したことがありました。

私の持論で、生命の仕組みについて学ぶと、個人の生き方や組織の作り方にも役立ち、課題解決力も上がるというのがあります。特に経営者や企業の人事に携わる人は、みんな生命の仕組みについて学ぶといいと考えています。

たとえば企業の運営においてありがちなこういう問いも、生命の仕組みに則って考えるとわかりやすくなります。
・退職率は低ければ低い方が良いのか?
・朝型勤務を推奨すべきか?
・縦割り社会は悪か?
・職場で男女以外の性を認めるべきか?

機会があれば全体をまとめたいと思いますが、今回はその中でも活かせると思う考え方を掻い摘んで書きたいと思います。

なぜ、生命は「死」の仕組みを手放さないのか

生命科学に関わる仕事をしていると、よく「人類は不死を実現できないのですか?」という質問をいただきます。

秦の始皇帝が不死を求めたという話があるくらい、昔から人類は不死を切願してきましたが、そもそも何故わざわざ「命を創って壊す」という一見非合理なことを行っているのか、という問があります。

「不死」を実現できるのかという問いに対する回答をする前に、当前ですが「不死」の枠を定義する必要があります。

もしたとえばSF漫画「銀河鉄道999」に出てくる、魂を機械に移植した「機械人」のように、意識だけをそのまま残してロボットに移植した状況も「不死」に含めるというのであれば、いずれは実現可能だろうという回答になります。

しかし実際は、生命における死の特徴は「連続性」の喪失です。例えば体が思考に及ぼす影響とは極めて大きいため、意識だけを切り出したとしても、体がついていた頃の意識が再現性を持って連続的には機能しません。

たとえば夏目漱石の作品や思考をAIに入れてロボット化したとして、もし体がない状態で、月夜を見て肌で感じる夜風の心地よさや、月の光としんとした静けさや人の息づかいや温度の対比に現れる美しさなど、体で感じる微量なインプット情報がなければ「月が綺麗ですね」という表現は出てこないだろうと思います。

つまりその定義に立つと、いくら「機械人」でも連続性を担保した不死は実現できないということになります。

逆にそこからわかるのは、ヒトや生命にとって「死」の仕組みがもたらす恩恵は「非連続性」の意図的創出ということです。

生命は非連続性の創出により環境の変化に対応してきた

それでは、生命がなぜ意図的に「非連続性」の創出を行っているかという話になります。

以前のブログで、環境が変化することを前提にしてゆらぎの構造を持つことが必要だと書きましたが、生物は変化しつづける外界の環境に対して、連続的な変化だけではなく、非連続的なジャンプをすることを、生き残る術として持っています。

それは何故なら環境の変化の方が、生命の個体の中で連続的に起こりうる範囲の変化を超越しているからです。すべてのモノがエントロピー増大に従うが生命が唯一の逆エントロピーの力を持っていることが要因の一つです。

それでは、生命が何によって非連続性を担保しているかというと「多様性」と「新陳代謝」です。

会社などの組織にとっても多様性が重要であると言われて久しいですが、これも生命としての仕組みを考えると理にかなっています。普段、ゲノム情報を扱っている立場からすると、全く同じゲノムを持つ人は存在せず、本当に多様なものが人類を構成しているんだなと身をもって実感することができます。

実はこの多様性と新陳代謝は似たようなことを言っており、縦軸の非連続性と横軸の非連続性の創出を行っています。

なので、図にすると両者は似たような図になります。

取材等でときどき聞かれる「なにがきっかけで情熱が芽生えたのですか?」という問いに対してこれまで興味を抱いてきませんでしたが、ベストセラーとなった著者ユヴァル・ノア・ハラリのサピエンス全史の続編の「Homo Deus」を読んだことがきっかけで、一度考えてみようと思いました。

人類のこれまでの史を書いてきたサピエンス全史とは対照的に「Homo Deus」はこれからの人類の未来がテーマです。人類が飢餓や貧困を克服してネガティブな面を克服しつつあるからといって人類の継続的な幸福が達成されるわけではなく、今後の人類の最重要課題の一つとして残るという話が書かれています。

期待値に現実が追いついたときに幸福ではあるものの、それは刹那的であり、継続的に達成されることはないという課題を人類はどのように克服していくのかという話です。(まだ日本語翻訳されていませんが、日本語で概要を知りたい方は落合陽一さんの解説記事がわかりやすいです。)

その中で人類の継続的な幸福の達成のキーのうちの一つに、人生のドライビングフォースとなる情熱があるのではないかと、その性質を考えてみました。

私個人の話でいうと、私は生命科学の領域に情熱を注いでおり、「なぜ生命科学の分野に携わろうと思ったのですか」「なぜ起業しようと思ったのですか」という質問を高頻度で聞かれます。たとえば何かのきっかけで突然情熱が湧いたから、というような話はないのですか、と聞かれたりします。

例えばこどもの頃に、生命科学の分野にいきなり唐突に情熱が目覚めたわけではなく、高校や大学で勉強や研究をしていくうちにこの世界はすごい、自分が関わることで一歩進むかもしれないと思い頭の中で情熱が鳴るようになってきました。

起業も同じで、ジーンクエストを立ち上げる前の1社目はとりあえず登記して自分で手を動かしてゲノム関連のデータ解析の受託業務を個人的に始めました。そしたら、個人の属人的な力だけじゃなくてチームで仕組みを作ってより大きな事業をやりたいという情熱が湧き出てきました。

情熱とは行動することで湧いてくるもので、情熱があるから行動が起こるわけではないのだな、ということを体感しました。そのようなことを考えていたところ、先日東京大学の池谷裕二教授の記事を目にして、体感していたのと似たようなことだなと思いました。何もない状況で、新規の外界からの刺激を含む行動なしに唐突に情熱が生まれることは稀です。

人間は、行動を起こすから「やる気」が出てくる生き物なんです。

「簡単にやる気を出す方法を教えてください!」→脳研究者「やる気なんて存在しない」|新R25

情熱は「未来差分+初速」から生成される

情熱とは行動することで湧いてくるものであり、情熱があるから行動が起こるわけではない、と前述しましたが、それを様々な人のケースに当てはめて分解して考えてみました。

結論から書くと①行動を起こしたときに想定されるいい未来と、現状のままの未来との間に「差分」が見えており、かつ②それに対して行動の「初速」が伴っていること、が情熱の源泉である、ということです。

未来の思い描く状況と現在の状況に差分があり、さらに現状維持するとその思い描く未来には到達できないことがわかっているとき、その差分を解消しようと行動が生まれます。

いい未来を思い描く想像力が高い人に行動力がある人が多いのは、未来における差分が頭の中で明確に描けるからです。もし現在の生活に十分満足しており、未来もそうであるという「現在=未来」の状態なら行動を起こす必要はありません。

また、その差分を頭の中でイメージできたとしても、現在の行動の初速がそれに伴っていなければ情熱は生まれません。逆に、私の起業のように行動を起こすことによって、未来の差分が見つかったり、見えやすくなったりすることもよくあります。

よく揶揄される「意識高い系」の人は、差分を語れても行動の初速が伴っていない人だなと思います。

また例えば、企業や組織の中で働いていて、自分が行動してもしなくても結果が変わらないとわかっている環境のときに情熱が生まれないのは、未来の差分が見えたとしても、その差分の解消に対する初速をつくることができないからです。もし差分を描けているのであれば、それに向かって初速を出せる環境にさっさと身を置いた方がいいです。

「考えるより行動を」という話もよくありますが、私の認識では半分正解で、初速を伴う行動を起こすこと、かつそれが未来における差分解消に向かっていくという「差分+初速」の行動が情熱を生むと考えています。

未来差分を構想する方法

周りの経営者や研究者にヒアリングしていて気付いたことの一つは、いい未来を想像して現状との差分を想像するのがうまい人と、意識的に「差分づくり」をしている人がいるということです。

前者の差分を作るのがうまい人は、たとえば合成生物やバイオロジカルテレポーテーションに取り組んでいるクレイグベンターや、テスラやニューラルレースのイーロンマスクなど、コンセプトメイキングがうまい人です。日本の起業家にもそういうタイプの人がいますが、発想力が高い人は未来差分を頭の中に常に明確に描いています。

また後者でいうと、自分より先端を行っている、あるいは規模の大きい次元の企業や経営者の情報を収集することで、自ら目線を上げることを意識して行っている人もいます。たとえば、人に会って刺激を受けるのも、差分が自分にとってより明確になるからです。熱は炎のように伝染するという話を以前書きましたが、それも同じような原理だと考えています。

私個人にとって意識的に行なっている差分作り方は、最先端の論文を読むことで、世界にはこんなにも天才が全力で新しいことを取り組んでいて成果を上げているのかと思うと、圧倒的な未来の差分が見えてきてわくわくしてきます。逆にどうしようもなく辛い出来事があっても、未来差分を思い出すことで何度も再起してきました。

静的な行動と動的な行動の違い

もう一つの「初速」という要素、本来は大事なのは初速だけではなく、継続的に進んでいくことですが、主観的に捉えると常に現在が0時点なので、現実的には常に初速が大事となってきます。

行動の初速といっても、気をつけなければいけないのは、静的な行動と動的な行動は異なるということです。

たとえば企業の経営者で毎日スケジュールが埋まって走り続けているのに情熱が静まっている人は何なのかというと、行動をしているように見えて実は「静的な行動」になっています。

物理の慣性の法則のように、人は過去の初速さえあれば、慣性で行動ができてしまうものです。たとえば毎日忙しく仕事に取り組んでいる人でも、自分にできるとわかっていることだけをやり続けることはできますが、それは電車に座ってる人と同じようなものです。

端から見たら動いているように見えても、昨日の自分、1か月前の自分、一年前の自分と比べると動いていないという「静的な行動」をしています。その場合は初速が伴っておらず、情熱も生まれません。

法人も同じで、動いてるように見えて静的な動きの場合は明らかなことのみを惰性で取り組んでいるうちは情熱が生まれることはありません。

情熱があるから進化するのではなく、常に進化し続けようとする人は情熱が溢れてくるということです。

年を重ねるほど情熱が湧きにくくなる理由

もちろん年配の方で情熱的に生きている方もたくさんいらっしゃいますが、一般的には年齢を重ねるほど情熱は湧きにくくなってきます。

生物学的に老化とは、修復システムが衰えていくことによって結果的にDNA損傷や老廃物の蓄積などの風化作用に、徐々に負けていくプロセスですが、それと似たようなものだなと思います。

未来を描く力と、それに対する初速のバランスが取れなくなってきます。たとえば何かで世界一になりたいと思っても、小学生なら初速を持って行動できても、50代になるとどれだけの初速をもってしても体力的・時間軸的に不可能になってきます。それと同じように、大きな夢との釣り合いが取れなくなってくるのだと思います。

ツァラトゥストラは「君の最高の希望を聖なるものとして持ち続けよ」と語っていますが、つまりここでいう「未来の差分」を描き続けるということはやはり大事なのだというです。

情熱が脈動する、鮮麗な世界に生きるため

もし最近、個人的に情熱が滾るようなできごとがなかったという人がいれば、情熱がある人のそばにいって差分を分けてもらったり思い出したり、まず初速を出してみたりするといいのではないかと思います。

もとの命題に戻って、人類の継続的な幸福の達成のために私たちができるを考えると、未来的差分を発信して行動することも一つの解だと思いました。

たとえば起業家なら「こんな世界も創ることができる」と、生命科学者なら「ここまで生命の可能性を広げることができる」と、宇宙飛行士なら「人類はここまで未踏の地に行けるのだ」と、政治家なら「こんなにいい社会へと変えることができる」と、未来の差分を世界に映し出し、それを自分がやるのだと初速を出して生きていく、ということです。

情熱が響く世界に生きていたいなと思いつつも、周りには情熱を燃やしている人が多く、大袈裟かもしれませんが皆さんと同じ時代に同じ星に生まれてよかったなと、心から思っているところです。そんな鮮麗な世界に生きることを愛しながら、初速を出して生きていこうと改めて思いました。

まとめ

・情熱は「未来の差分+行動の初速」から生まれる。

・行動には静的なものと動的なものがある。

・未来の差分を見据えて発信し、今日から初速を出して生きるのが大事。

もっと考え方を知りたい方は・・

生命科学オンラインサロン「高橋祥子ラボ」のラボメンバーを募集中です!オンラインでニュース配信・ライブ配信をしたりメンバー同士でディスカッションをしたりしています。興味ある方は是非どうぞ。
https://community.camp-fire.jp/projects/view/119285

私がゲノム解析のベンチャーを起業してもうすぐ5年になりますが、多くの起業家がそうであるように私も多くの葛藤と遭遇しました。もともと私が起業した理由は、研究成果を活かしながら事業を創り、結果的にその事業によって研究自体も加速する、というサイエンスと事業のシナジー効果を生む仕組みを創りたい純粋な想いで起業しました。

しかし実際起業すると他意のない人々から、それは実現不可能である、あなたには到底無理である、なぜならこういう理由があるからだ、という旨を何百回も繰り返し宣言されます。

新しいテクノロジーや概念を怪訝に捉えるような人々からは、あなたの顔も一生見たくもないと邪魔されたり拒絶の壁に打ちのめされたりもします。起業当時は博士課程在学中だったため、研究活動と起業の狭間でうまく立ち振る舞えない自分への苛立ちや不安になる瞬間もありました。

挑戦しては否定され、自分の理想を信じながらも、これは本当に実現可能なのか、この選択はものすごく間違ってはいないのか、などこれまで繰り返し繰り返し葛藤し、自問自答してきました。

と、まあここまでは、起業家にはよく起こるあるある話かと思います。

ここでの問いは、果たして葛藤とは何なのか?ということです。

この正体を理解することでより生きやすくなるのではないかと考え、周りの人にその本人が抱える葛藤についてヒアリングしました。

葛藤のあいだを綾なす

葛藤と課題の違いを考えると、課題は客観的に誰が見ても同じものが見えますが、葛藤は他人からは見ることができず本人にしか理解できないことが多いです。葛藤とは、当事者意識の最たるものです。なぜなら葛藤は、自分の夢や理想、自分の信じるものと、実際に選択しなければいけない現実との乖離だからです。

唯一の正解がない世界で、他の正解を犠牲にして何かを選択する。そんなときに葛藤が起きます。

たとえば、自分がやりたい方向と、大切な人からの期待が異なる場合、個別に見ればどちらも自分にとって正しくても、何かを捨てて何かを選択しなければなりません。

そのため、叶えたい夢や願望や、こうありたいという自分の信念が大きい人ほど葛藤しやすいし、外因的な選択を要求される競争環境が常に激しい仕事をしている人は葛藤を感じやすいです。逆に、既に夢をかなえた人は葛藤を持ちにくいし、強く目指したい方向がない人も葛藤を持ちにくいと、様々な生き様を見て思いました。

仏教学者と宇宙物理学者の対話を綴った「真理の探究」という本でとても面白かったのが、仏教と科学の両方で行きつくのは、世界のほとんどの事象はどこまで行っても「正しい」ことと「正しくな いこと」の2択で捉えることはできないということです。

受験勉強や義務教育で習ってきたような、この一つさえ選択すれば絶対に正解である、という状況は生きる上では稀です。まるで生物のようだな、と思います。正しいことが時間の経過に伴って正しくなくなったり、逆に正しくなかったことが正しくなったりします。

そんな中、進むべき道がわからず葛藤を抱えていたときに、大先輩の経営者の方から、「自分の中に相反する矛盾があるときには必ず何かを発見できる」ということを教えてもらいました。

福岡伸一、西田哲学を読む — 生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一という本にも、相反する概念の「あいだ」を考えることが生物学的にも哲学的にも重要だと書いてあり、なるほどなあと思いました。

それがきっかけとなって改めて先述の様々な葛藤と対話してみると、実は多くの発見がありました。

研究室と会社の二足の草鞋を履くことで、時間の選択で迷うよりも、自分が選択した時間配分を心から信じて集中力を発揮する方が圧倒的に大事だということに気がつきました。否定をされたことで、向かい風でありながらも進みたい意志があることを発見しました。拒絶を経験したことで、落ち込まないことよりも何度も立ち上がれることの方が何倍も大切なのだと気がつきました。

痛いという感覚はとても優秀で、頭痛や腹痛を感じることで目には見えない重要な病気に気がつくことができます。同じように、心が痛いと感じることで、自分が何を大切にしているのかに気づくことよくあることです。

もしいま何かに葛藤を持って悩んでいる人がいるなら、自分ではまだ無自覚だとしても、何かの新しい可能性が既にあなたの手中にあるのだと思います。

一方で、様々な方に葛藤についてヒアリングしてみると、自分の信念や理想を強く持っているにも関わらず葛藤なんて全くないと言う人もいることに気がつき、そのような人の特徴を観察してみました。

そこで気がついたのは、目指したいものに対して大きな覚悟を決めている人は葛藤しない、ということです。

覚悟が葛藤を凌駕する

さて、次の問いは、覚悟とは何なのか?ということです。

時間軸を客観視できるようになったのは人類史上の最も大きな収穫の一つだなとよく思いますが、覚悟とは、まさに時間軸が大きく関係するものだと考えました。

覚悟とは、不確実で曖昧な未来に対して、どうなっても絶対に後悔しないということを最初に決め抜いておく碇のようなものです。

覚悟を持っておくと、葛藤が少なくなります。なぜなら時間軸の中で先にそう決めているからです。覚悟は、いつも後から付け足すことはできず、後からは改竄できません。まるでブロックチェーンのようだ、と思います。

葛藤しないと言う経営者や研究者は、これを達成するまでは絶対に迷わないし後悔しない、ということを考え抜いた上で先に決めて覚悟を持っている人がほとんどでした。

たとえばオリンピック選手が、インタビューで「自分にできることはやり切ったので何も悔いはないです。」と清々しく言い切れるのは同じような現象です。不確定な未来に対して、これをやり切れば後悔しないと先に心に決めています。

覚悟というと大袈裟ですが、自分にできることをやり切ってってみよう、それで何が起きても後悔しない。というのがそれです。どちらにせよほとんどの未来は不確定なのだから、正解を選択できているか葛藤するよりも、自分で選択した道を正解にすると決め切る方がよいという考え方です。

たとえば、美味しいものをたくさん食べたいけど、太ったり健康を害したくはないという、日常の葛藤があるとします。この場合、どれだけ太っても後悔しないから美味しいものを我慢するのは絶対譲れない、と覚悟をしている場合は、葛藤なんてしません。私の場合は、自分にとっての適正体重の範囲と継続的に達成できる平均摂取カロリーの上限値を決めていて、その範囲の中であれば、後悔しないことを決めているため葛藤は起こりません。

同じように先に決めた決意に則って行動すれば、悶々と懊悩することは少なくなります。なぜなら自分が先にそう決めたからです。以前、けんすうさんがブログで、新しいことをはじめる時のコツは先にルールを決めておく、ということを書かれていて、似たような概念だなと思いました。

新たなプロダクトを作るときにこのような設計でいいのだろうか?と悩むときも、このような研究をしていて何かの役に立つのだろうか?と思うときも、若い人の才能を目の当たりにして自分の立ち位置はこれでよいのだろうか?と疑懼するときも、考え抜いた結果覚悟を決めれば、凛として対峙することができます。

今日一日の過ごし方から人生の大きな選択まで、事業も研究も職業選択も結婚も生き方も、同じことが当てはまります。悶々と悩むよりは、これは絶対やり切るし、それでダメでも後悔しないと先に決め切ると、自分に胸を張って清々しく挑戦ができます。

それにしても覚悟は、なかなか無意識にはできることではないな、とよく思います。たとえば、よほど重要な日ではない限り、大きな覚悟を持って今日を絶対後悔しない一日にしようと臨むという人は多くはありません。

覚悟を決めるのを習慣化するがうまいなと思う人がたまにいますが、自ら意識した方が覚悟は決めやすいです。

社会的積み木と覚悟とてこの原理

さて次の問いとして、覚悟がより必要な場合はどんなケースか?と考えてみます。

たとえば起業するのに、時間がかからない人もいれば、起業したいと思ってから10年かかる人もいます。

私が起業したのは思い立ってからすぐでしたが、それは私が何の実績も経験も資産もないただの学生で、社会的積み木がとても少なく身軽だったのだと思います。

自分では気づきにくいですが、大人になるにつれて、社会的説明のための人生選択が増えていきます。家族や周りの友人に説明できる転職なのかどうか?親や配偶者を安心させられるかどうか?一度成功したから、また成功しなければ周りに説明できないのではないか?転職するにも起業するにも何かに挑戦するにも、大人になるにつれて社会的積み木が増えていきます。

何もしなくても生きているだけで積み木はどんどん増えていきます。しかも成功すればするほど重たくなっていきます。

まるで、てこのようだ、と思います。

ある日唐突に、Twitterにこのような質問が飛び込んできましたので、皆さまが命を燃やすときに少しでもお役に立てればと書きました。

「鶏が先か、卵が先か」問題への終止符

鶏が先か卵が先か問題は、鶏がいないと卵が生まれないし卵がないと鶏が生まれないという、因果性のジレンマの例として使われ、私が世の中で最も危険だなと思うものの一つです。

例えばビジネスにおいては、市場が大きくならないと成功事例が出ないけど成功事例がないと市場が拡大しない、とか、多くの人が買ってくれないと原価を安くできないけど安くできないと多くの人が買わない、などのシーンです。このような行き詰った状況の場合に、「これは鶏が先か卵が先かという問題だ(だから打ち手がない)」という風に言う人もいます。

しかしほとんどの場合においては、AとBはそれぞれからしか生まれないという状況は視野を狭く定義しない限り、そんなことは成り立ちません(なぜなら、本当にそうであればAもBも存在不可能だからです)。

実はそこで思考が止まって悩んでしまっても、本当は解がある場合が多いです。

上述の鶏と卵の話に戻ってみると、鶏は鶏という生物種だけですが、卵は鶏以外の鳥類も卵を産むのでどう考えても卵が先です。進化論から考えると鶏に近い種の卵から徐々に鶏という種に近づいていったということです。

このときの考え方に何が起こっているのかというと、このようなことです。

元旦にこういうツイートをしたらたくさんリツイートしていただいたので、せっかくならそう思った背景と決意を書き残そうと思い、初めてブログの筆を取りました。

すべては宇宙の大原則から始まる

こんなにも世界は進化しているのに、何故また次々新たな問題が出てくるのだろうと、疑問に思うことがあります。

たとえば、インターネットによって確実に世界は便利で安全になっているのに、より孤独を感じます。WHOは、世界で鬱病に苦しむ人が急増し、推計約3億人強にも上ったと発表しています。飢餓問題が減っても、肥満患者は世界に約10億人いて、今度は過食で死ぬ人が増えています。

たとえば会社経営においても、組織としては確実に成長しているのに、課題を解決したと思ったらまたどんどん新しい課題が出てきます。以前、オリックスの宮内さんが、会社小さいうちはいろんな問題があると思って頑張って会社を大きくしたけど、結果的には、会社が大きくなってわかったのは、より大きな問題が起こるということだけだった、とおっしゃっていたのが印象に残っています。これは単に成長して環境が変化するからだけではないと考えています。

一瞬安定しても、必ずすぐに変化してしまいます。変化することだけが変わらないのはなぜか

それは宇宙の大原則に帰結するのだと考えます。系において、エントロピー増大の法則(熱力学第二の法則)が宇宙の大原則だからです

エントロピーとは、系における乱雑の程度のことで、何もしないとエントロピーは必ず増大します。

高橋祥子

ジーンクエストというゲノム解析ベンチャーの代表取締役を務める高橋祥子のブログです。京都大学農学部、東京大学大学院農学生命科学専攻応用生命化学科博士号。

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