生命を燃やすことと失うことの違いと思考の関係と、二元論への終止符

高橋祥子
9 min readFeb 25, 2018

ある日唐突に、Twitterにこのような質問が飛び込んできましたので、皆さまが命を燃やすときに少しでもお役に立てればと書きました。

「鶏が先か、卵が先か」問題への終止符

鶏が先か卵が先か問題は、鶏がいないと卵が生まれないし卵がないと鶏が生まれないという、因果性のジレンマの例として使われ、私が世の中で最も危険だなと思うものの一つです。

例えばビジネスにおいては、市場が大きくならないと成功事例が出ないけど成功事例がないと市場が拡大しない、とか、多くの人が買ってくれないと原価を安くできないけど安くできないと多くの人が買わない、などのシーンです。このような行き詰った状況の場合に、「これは鶏が先か卵が先かという問題だ(だから打ち手がない)」という風に言う人もいます。

しかしほとんどの場合においては、AとBはそれぞれからしか生まれないという状況は視野を狭く定義しない限り、そんなことは成り立ちません(なぜなら、本当にそうであればAもBも存在不可能だからです)。

実はそこで思考が止まって悩んでしまっても、本当は解がある場合が多いです。

上述の鶏と卵の話に戻ってみると、鶏は鶏という生物種だけですが、卵は鶏以外の鳥類も卵を産むのでどう考えても卵が先です。進化論から考えると鶏に近い種の卵から徐々に鶏という種に近づいていったということです。

このときの考え方に何が起こっているのかというと、このようなことです。

ここから言えるのは、人は無意識のうちに視野の選択を行っており、視野を自由に定義できないと、思考停止に陥りやすいということです。

同じように「AかBか」という2つの要素だけに視野を絞る二元論に落とし込むと理解しやすいので意味があるように見えますが、ほとんどの場合は思考停止しているだけで本質ではありません。

例えば、最近は既に食傷気味の「人間vs人工知能」のような話や、「仮想通貨vs法定通貨」のような話が典型的です。その二元論で考えても真理には一生たどり着けないであろう議論を延々と続けるのは、思考停止だとしても、わかりやすいからです。

でも、本質はいつも二元論の視野の外にあります。

人が取得できる情報や認識、感情は視野の選択にかなり大きく依存するにも関わらず、人は常に視野の選択に対して想像以上に無頓着であると思います。

実際はほとんどの社会的な課題や問題は複雑化していて、AかBかに投票する二元論が得意な民主主義や現在の社会の構造をとっくに超えており、危ないなと思います。複雑化する課題が増える次なる世界に向けて、問題に対する適切な視野を自由に定義できる能力が必要なのではないかと思います。

視野の定義能力が思考停止社会から(一部)救う

どこに世界を定義するのか、はその人の考えや行動や人生とてつもなく大きな影響を与えるものだなとよく思います。

私が最も尊敬する科学者の一人であるリサ・ランドール博士が、彼女の著書「宇宙の扉をノックする(原題:Knocking on Heaven’s door)」で下記のように書いています。

―人は何かを見るとき、聞くとき、味わうとき、嗅ぐとき、触れるとき、そのほぼすべてにおいて、細かい部分にぐっと近寄って丹念に検討するか、あるいは別の優先基準をもとに「全体像」を検討するかを決めている。―

上記の文とともに、このような図を載せています。

本書ではスケールという言葉が使われていますが、視野、系、規模、スコープ、なんと表現してもよいです。ここでは視野という言葉を使いますが、よく言われる「視野を広く持て」というのは実は嘘で、本当は視野を広くも狭くも自由に定義できる能力が重要です。

最近漫画化されてベストセラーになっている原作吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」にも同じような概念が書かれており、主人公が「人間って分子なのかも」と気づいたときに視野の定義能力を獲得しています。

特に研究者や経営者にはイマジネーションがとても大切だと思いますが、視野を広い範囲に設定できると相似形を見出すことで発想力が上がるなと思います。

視野を一定にしか定義できない人は、同じ毎日の中で、同じ愚痴を見出します。一方で、私が京都に住んでいたとき「哲学の道」のすぐ近くに住んでいましたが、例えば視野の定義によっては、京都大学の哲学者西田幾多郎先生のように近所の道を散歩するだけで世界の真理にもたどり着くこともできます

また例えば、証明は困難だと思われていたABC予想に対して誰もが理解不能な発想の宇宙際タイヒミュラー理論 で証明した望月教授は、研究室のHPによるとNHKみんなのうた「そっくりハウス」から相似形を見出して発想したそうです。

いろんな人を観察していると、視野の定義能力をインストールしている人は思考停止に陥っていない人が多く、発想力が高かったり、問題解決能力がぐっと高い人が多いなとよく思います。

命を燃やすことと、命を失うことの違い

さて、思考停止に関連する話で、命を燃やすことと命を失うことの違いは何だろうかと考えました。

すべての生命は生きている限り、みんな命を少しずつ失っていっているのは同じです。例えば、30歳の人だとすると30年分の命は既になくなって取り戻せません。

ここで個人の人生にとっての大きな問題は、果たして命を燃やしたのか、命を失ったのか?ということです。

命ほど大切で尊いものはないと思いますが、その大切な命の一部分を燃やして、炎のように光や熱などのエネルギーを何か生み出したのか、それとも単純に何も生み出さずに命を失っただけなのか、という違いです。なぜそれが大きな問題であるかは、生存の意味に直結するからです。

時間は、前から見るのと後から振り返って見るのでは随分印象が違うものだなとよく思いますが、命を燃やしたのか失ったのかは、前からはいつもわからず、ほとんどの場合は後になってからわかります。

ではどうしようもないのかというとそうではなく、自分も含めいろんな人のケースを観察していて気付いたのは、その一つのヒントが思考にあるということです。

思考停止に陥っているときは、気づいた頃にはいつのまにか命をただ失っていることが多く、逆に①最大限に思考をしてからその時間を使った場合、または②意識はしていなくても真剣にがむしゃらに思考せざるを得ない状況に結果的に身を置いていた場合には、命を燃やして輝いていることが多いということです。

①のケースは例えば、考え抜いた結果、どう転んでも後悔しないという覚悟でこの仕事にチャレンジすると決めたような場合です。②は例えば、自分にとって挑戦的な環境に身を置き(私の場合は起業でした)、知らぬうちに強制的に考え抜かなければいけないような場合です。上記のどちらかの場合は、それがうまくいくかいかないかの表面的な結果に関わらず、後から振り返っても命を燃やした変わりに、光や熱量を生み出している場合が多いです。

ただ気をつけなければいけないのは、①と②は並列ではなく、若いときほど②のケースが多く、年齢を重ねて大人になればなるほど難しくなります。なぜなら、②は自分の想像を超えないといけないのと、外部環境に依存するにもかかわらず大人になるほど自由選択が増えるからです。例えば高校生や新卒社員だと、知らないことについて強制的に勉強しないといけない等の環境がよくありますが、大人になると想定外の経験を強制される場面はなかなかありません。

つまり大人になればなるほど、意識的に何かに向かって思考をしないと、ただ命を失っているだけの時間が増えていくことになります。また、思考には体力が必要なので有限ですが、それをストレッチさせるには行動量も必要になってきます。

隅々まで思考され尽くしたものは、例えば事業、サービス、論文、本、音楽、アート作品など、命が凝縮されたエネルギーの産物に出会うと、本当に心底感動し、命は美しく素晴らしいものだなと思います。

もしも日々の生活での疲れが取れなくなってしまって、そのせいで思考停止に陥ってしまっている人がいたら、そういう命の凝縮のエネルギー産物に触れるとよいです。炎と同じように、命を燃やして生まれた光や熱のエネルギーはどんどん伝染していくからです。

私は、私の命を燃やして何を生み出すのだろうか、と考えます。いろいろと考えてしまいますが、例えば世にサービスを提供したり、生命科学の研究をして新しい発見についての論文を世界に発信することかなと思います。思考停止している方が楽なのは楽ですが、意識的に思考時間を自分のカレンダーに予約するようにして、これからも命を燃やしていく人生でありたいと思っています。

そして、多くの生命が単に失われるだけでなく、美しい炎をともしますように、と思います。

まとめ

・二元論などの思考停止に陥る原因の一つは視野の定義にある。

・視野の定義能力で世界はかなり変わる。

・命を失わないためには思考が鍵で、私も命を燃やして生きたい。

もっと考え方を知りたい方は

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高橋祥子

ジーンクエストというゲノム解析ベンチャーの代表取締役を務める高橋祥子のブログです。京都大学農学部、東京大学大学院農学生命科学専攻応用生命化学科博士号。