「公平」と「平等」の違い

Takahiro Sasaki
8 min readJul 14, 2018

現代の子どもたちが向き合うべき2つの価値観

今日は「フェアネス」の話についてつづろうと思います。

子どもたちは普段学校で「平等の重要性」を学ぶのですが、僕はこれがどうも腑に落ちない。

誤解を避けるためにあらかじめ言いますが、僕は差別主義者ではないですし、平等の重要性を否定するわけではありません。平等と公平についての解釈を整理したいと思っています。

この「平等」という言葉。

社会で独り歩きしすぎている感があります。

「平等」を叫びすぎるあまり、本来認められるべき個が消えてしまっているのではないかと思うのです。

「平等であるべき」というのはみんな同じにみられるべき、と同義です。

しかし、僕は「同じにみられるべき」というのは理想論であり、甘えだと思います。

具体例:

我が家には8歳と5歳の兄弟がいます。お兄ちゃんも弟も宿題があるのですが、その量はお兄ちゃんのほうが圧倒的に多い。

やっていることも難しいですし、量があるだけに時間もかかります。

当然弟が早く終わり先に遊べるのですが、お兄ちゃんはこれをずるいとは一言も言ったことはありません。

なぜか?

だって、「お兄ちゃんですから。」につきます。

年上の人が年少者に対し、「お前は量が少なくてずるい。」ということがいかにナンセンスなことかちゃんとわかっているんですね。

お手伝いもそう。お兄ちゃんのほうが頼まれます。

能力的にも、物理的なパフォーマンスもお兄ちゃんのほうが良いからです。

ここに、「ずるい。不平等だ。」とか言い出した途端、急に人間としての器が小さくなり、信用を失います。

もう一つあります。

以前、仕事中に大量の段ボールを運ぶ仕事がありました。インターンで大学生の男女がたくさん来ていたので、みんなで運ぼうという話になりました。

みんなで協力して何度も往復して運び出しを行っているとき、ある一人の男子生徒が早々に自分の席に戻りスマホをいじりだしました。

僕は監督者として、「どうしたの?」と作業の継続を諭すような形で歩み寄りました。すると彼は「もう俺は〇個運びました。人数で割ったら一人〇個ですよね?っていうか、女子運んでなさすぎじゃないですか?逆差別ですか?」と前のめりで言いました。

僕は彼を評価する立場にいたので「不適格」としました。

とにかく、人間が小さい。平等を盾にした怠惰であると感じたからです。

仮に、彼がなにかしらの精神的ないしは知的な問題を抱えていたとしたら、残念ですがその時のインターン作業においてはいずれにせよ不適格ですし、「社会性」といった意味で問題があったと思います。

彼が何か物理的な配慮(例えば身体障碍を持っているなど)を必要としているならまだしも、心身ともに健康な大学生です。体格もよく、ほかの人の作業を手伝う気持ちがあれば全体的な作業効率も上がりました。

Etc…

このように平等論は社会のニーズにマッチしていないことが多いと思います。みんなが同じことを主張するならば社会はギスギスした、器の小さい人たちの温床となり「協力」や「効率」といった言葉からかけ離れた非常に生産性の低い集団になってしまうでしょう。

「平等」と「公平」は違う。

そもそも、違う人間。「平等」であることなど絶対に不可能です。

なのに、社会は「平等」に熱中する。

考えてみると、ここには言葉の誤用があるのではと感じます。

おそらく、社会が子どもたちに伝えたいのは「平等」ではなく、「公平」なのではないかと。この2つをごっちゃにすると、矛盾だらけのわけのわからない議論になってしまうから気を付けたいです。

公平性

まず僕の理解の中で話をすると、平等とはEquality。みんなが同じ、みんなが一緒であることの主張です。

先にも書きましたが、そんなことは無理な話です。

それぞれの持つ能力や特性がちがうのだから、そういった人たちをすべておなじ枠の中に収めようという発想はナンセンスです。

このあたりの考え方が自身のかかわるホームスクール支援などにつながっているのだと思います。学校は平等の観点からできない子に合わせがちですし、「みんながやっているから」という理由で無意味な活動も多く目につきます。

一方で、公平性とは何か?

これはSocial Fairnessとでも言いましょうか。

つまり、特性によって分かれる集団や個人が、社会的な立場として対等に扱われるということです。違いを無視した「平等主義」ではなく、違いという事実を認めて相互補完しあうことが大きなポイントになります。

今、私たちが進めるべきは「公平」です。平等ではありません。

みんなが違う、をまず認める。

当然のことですが、子どもたち一人を見ても、みんな違います。

「そんなことはあたりまえだろう。」

と言われてしまいそうですね。はい、これってだれでも理解できるはずです。しかし、実際ふたを開けてみるとどうでしょう?

「インクルーシブにみんなが一緒に生活すべき」とか

「カテゴライズは悪」といった意見が飛び交います。

日本のトレンドの道徳教育では「違い」という個性をなき者として、「平等」を語る。ここに、新たな価値創造はないと僕は思っています。

非常につまらないものになる。

日本の教育業界では昨今「合理的配慮」というキーワードがあつい。

これは平等性を重要視したものではなく、公平性を具現化したものだと思います。

この場合は、主に書字障害をもつ子どもたちに対し、普通級でのパソコン利用を許可したり、聴覚過敏の子に対してイヤーマフの着用を認めるというものが主になっています。

「書字障害」「聴覚過敏」という特徴(個性)がきちんと社会的にカテゴライズされ、認識されたからこそこの配慮は可能になっています。

「みんなが同じであるべき」主張なら決してかなわない対応です。

オリンピックとパラリンピックだってそうですね。

どちらかに出場する人がもう一方のフィールドで戦うことに何の意味があるのか?ルールなども含め、あえて分けて行ったほうが見ているほうも、選手も楽しいはずです。それぞれのニーズがあり、それでいいのです。

2つの大会を分け、しかいお互いが尊重しあってみんなが楽しみにする。このありかたそのものが、今後の社会で求められる合理的配慮、つまり公平性だと思うのです。

ホームスクーリング家庭は経験がある方もいると思いますが、少し前までは普通級に通わないことを学校と打ち合わせると特別級への案内が必ずなされました。「みんなと同じ」でない場合は特別級だったんですね。

これは平等性を意識した挙句、「合理的配慮」≒「妥当な公平性」がなされず、単純に2分割してしまう悪しき文化だったと思います。

物事にはゼロイチではなく、濃淡があります。

その濃淡を認め、なるべくみんなが高確率で幸せになれるように、というのが公平性の考え方です。

「平等」であるべきから脱却しよう。

以上より、今、平等性を訴えるのはナンセンスです。

なぜならそれは今社会で尊重される個性の濃淡を無視することに他ならないから。

イエスかノーか、平等か否かという旧式の考えはやめたほうがいい。

これから見るべきは「公平性」であり、どこまで社会全体が濃淡に対して配慮できるかが重要です。

違いを活かし、ブランディングをしよう。

ほかの人、グループが持っていないことを主張し、違いを主張できる人は今後強いと思います。

社会からの公平性を求めるなら、平等論よりも、違いを全面的にブランディングしたほうが圧倒的に早い。

何もしていないのに「社会が認めてくれないのは、ずるい。」という考えはただの被害妄想、独りよがり、甘えです。

違いを作り、発信し、「私たち」というジャンルを作ることが重要で、そういうことのできる人は認められ、周りからも自然と配慮されることでしょう。

自分をブランディングする力は今まで以上に必要になってきています。

フェアに戦いたいのであれば、認められないといけませんし、それは一人ではなしえません。

自分と同じ考え、特性を持った集団を形成し、協力し、発信し、社会での発言権を獲得していく。

こういった、セルフブランディング(カテゴリーメイキング)ができて初めて公平性を勝ちとれるものと思います。

これからは、平等ではなく、公平を。これが僕からのメッセージです。

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Takahiro Sasaki

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