La la Landで思い出した夢を追い求める時代の気持ち

LA LA LANDやばかった。

あまりよく調べずに、ロマンスコメディ好きな奥さんに付き合って行った筈のつもりが、自分がハマってしまった。はっきり言って、設定が被りすぎです(笑)。22歳の時に自分がLAに住んでいて映画をキャリアにしようと夢見て諦めたあの頃そのものが走馬灯のように展開して、これは感情移入せずにはいられず、(恐らく映画館でただ一人)年甲斐もなく、男泣きしてしまった。

この映画はただのロマンチックミュージカルじゃない。ミュージカルとしての出来栄えも素晴らしいけど、それだけじゃない。この映画はアメリカンドリームを夢見る全ての若者へのオマージュだ。今ではもう忘れそうになっていた、夢に向かって生きるだけで飯が食えた時代の自分の感情を呼び起こさせられて、本当に心揺さぶられた。

個人的な話。1998年ハリウッドにて

ちょっとだけ僕の個人的な話をさせてください。ちょとだけです(笑)。

思い起こせば18年前、コーネル大学を機械工学専攻で卒業した僕は、当時、ユニバーサルスタジオに機械エンジニアとして入社し、ハリウッドに一人暮らしを始めたばかりだった。

当時ユニバーサルスタジオは日本にUSJを建設計画中で、新卒採用して無い会社だったのが、日本語ができる機械エンジニアがいると重宝するからと、当時の上司が即決で採用してくれた。

が、入ってみると仕事はつまらなかった。というより、そもそも設計エンジニアとしての経験も無い僕に任せられる仕事が無かったのだと思う。研修もなく、できることもわからず、上司も何も言わないので、どうして良いか分からずパソコンの前でぽけーっと座っている毎日だった。

映画に溺れた日々

僕がそもそもユニバーサルに来たのは、エンジニアの仕事をやりたいからではなかった。当時僕は1週間に10本見るくらいのいわゆる映画オタクで、映画業界に対して多大なる憧れを持っていた僕にとって、どういった形であれ、映画スタジオの中に勤務できるという機会は魅力的だった。

入社早々窓際族になっても、焦る代わりに、パソコンでネットサーフィンをしながら、堂々と映画の脚本をオンラインで読み漁り、そのうち自分が映画監督になって映画を撮るんだという夢を見始め脚本をオフィスで書き始める始末。

ちなみにハリウッドで働いている人にはこれは至極自然な流れなだったと思う。カフェテリアでご飯を食べていて隣のテーブルにスピルバーグが打ち合わせしているのに遭遇したこともあるし、敷地内を歩いていてジム・キャリーとすれ違ったこともある。働いていた部署のセクレタリーはブルース・ウィリスと共演した俳優さんだった。普通にこういう世界なのだ。圧倒的に距離が近い。だから若者は誤解する。

そしてこのLAという街には「誰にでもチャンスはあるよ」とそそのかす雰囲気が常にあった。それが暖かい気候のせいなのかビーチなのかパームツリーなのかはよくわからないけど。

22歳の日本人のエンジニアの僕でさえも、その熱にうなされてしまった。仕事に打ち込む代わりに夜間の映画学校に入学し、週末は知り合いの映画にエキストラとして出演したり、自分で作る映画の脚本を練っていた。当時ロバート・ロドリゲズという若手監督が5000ドルで作ったEl Mariachiという映画が配給会社の目に止まり、のちにDesparadoとしてリメイクされるというのが話題で、僕もご多分に漏れず、自主制作映画をローコストで撮ってスタジオに売り込めたらかっこいいな、なんて妄想をして毎日を過ごしていた。

周りもみんなそんな感じ。当時のアパートのルームメイトは、大学卒業後に映画を志してロスに引っ越してきたアメリカ人で、業界歴半年位で、そこそこ著名なインディーズフィルムの小道具担当として制作に携わり始めていた。僕も映画学校の課題制作で作る映画に周りの友人に出演してもらったり、手伝てもらったり、そんな奴らとつるんで、遊びとは言え創作活動は僕にとって毎日の刺激の源だった。

当時は空前のインディーズフィルムブームで、ロスには趣味レベルの自主映画を撮る奴なんて腐るほどいて、僕は常に自分は後発で所詮頭の良いアジア人なんだ、芸能のセンスでは劣っているんだ、と思って一歩を踏み出すのに躊躇をしていた。学校で自作の映像を発表する度に、誰も自分の映像に興味を持ってくれないことが明らかになって行き、やっぱりダメかなどうしようかな、そんなことばかり悩み、いろんな人に相談する毎日で日々が過ぎていった。我ながらかなりうざい奴だったと思う(笑)。制作スタッフの丁稚奉公から始めるなんて耐えられなかったし、キャリア的視点でチャンスがあるなんて到底思えなかった。ただエンジニアの仕事も面白くなかったので、この「ごっこ」のレベルでも、週末の映画制作が、振り返ると格好の現実逃避だったと思う(当時の自分は生きがいだと思っていた)。

夢の終わり

1年も経たないうちにその夢追いライフにはあっけない終わりが来た。職場でプロジェクトの難航により大掛かりなリストラが始まり、3度目のリストに僕の名前も含まれていた。新卒で見事にリストラされてしまったのだ。「仕事がつまんなかった」のではなく「僕が無能だった」のだ。

アメリカのリストラは冷酷だった。会社都合でも給与は宣告から1ヶ月分しか貰えない。お金はすぐに尽きてハローワークに行って給付金を貰わないと食ってけなくなり、映画を撮るとかそんな夢の話をしている場合じゃなくなった。ハリウッドでの映画監督デビューの夢はあえなく碎け、早くも人生の転換を余儀なくされた。

その後は多く語ることもない。何ヶ月か悩んで僕はようやく「あ、そうだ俺ってエンジニアだったんだ」と目を覚まし、学部の大学の教授に電話をし、オペレーションリサーチというコムズカシイ専攻で大学(院)に戻らせてもらい、無事修士号を貰って1年後にめでたくエンジニアとしてFedExとい会社に就職した。その後MBAとか行って金融とかやってみたけど、結局クリエティブなことをやってみたくて、ビジネス x クリエティブということで、起業というところに落ち着いている。

“Connecting the dots”

話は飛ぶが、僕は今「自由に生きる人を増やす」というミッションの下、会社を作って学びの選択肢を広げるネットサービスを提供している。「学び」というのは、ほぼ9割が3000円~5000円で単発で参加できるスキル系の講座。

ビジネスセンスが多少でもある人は、僕の事業ドメインのフォーカスを不思議に思う人が多い。これまで心配してくれた人も沢山いる。「教育事業に携わるのであれば、高い入学金を支払わせるスクールを運営するか、生涯教育や趣味みたいな継続な教育サービスをやった方がよっぽど収益が安定するよ」と。確かに(笑)。収益の観点からはその意見は否定できない。

でも僕はなぜかこの「スキル」x 「ワンタイム」x「低価格」というところに固執してきた。ビジネス上の理由もそれつけてきたけど、結局のところ、それはやはり「より多くの人に、気軽に新しいことを始める一歩を踏み出して欲しい。そのために学びのハードルは低く、選択肢は多く」という想いを優先してきたから。

なんでそういう風に思うかというと「やりたいことを見つけて欲しい。パッションを持って生きて欲しい」と思うから。その原点は22歳の夢を追っていたあの頃の気持ち(だと思う)。

La la landは、そんな当時のことを20年ぶりに思い出させてくれた。コネも人脈も実行力も才能もなく、夢だけで頑張っていた時の気持ち。そして自分に自信が持てずに、常に「夢を追い続けるか」vs.「諦めるか」の間を揺れ動き、自分が本当にやりたかったことって何だったっけ・・・と自分に問い続ける日々。

夢は必要か

映画とか音楽などエンタメで食っていくことを夢にしてしまうことの大変な理由の一つが、個人的な趣味嗜好がベースとなっているので、挫折を感じるとどうしても「どうして僕の好きな音楽をみんなは好きになってくれないのか」「どうして私の渾身の演技が認めてもらえないのか」などと自己否定になってしまうことが避けられない。

それは辛すぎるから「あえて趣味は仕事にするな」っていう現実派の意見の人もいるけど、僕はやっぱり夢は人に活力を与えるし、人を元気にするので、世の中にもっと夢を追う人が世の中に増えて欲しいと思う。

今では人は映画や音楽だけじゃなくてもっと色んな分野やキャリアでも夢を追えるし追うべきだとわかってきたから、今ストアカではあらゆるジャンルのスキルを気軽に学べるようなサービスを展開している。その原点はやっぱり22歳のあの時の気持ちだ。もちろんこれは完全に事後で自分の中で点と点を強引につなげているわけで、起業した当時からそんなことを考えてサービスを作ったわけじゃない。でも生業なんてそんなものだと思う。

LA LA LANDが素晴らしい映画と思った理由

この映画が素晴らしいと思うのは、上記のようなパーソナルな話が重なったからだけじゃない。この映画は「夢を叶えたストーリー」ではなくて、等身大の若者が「夢と向き合ってもがくプロセスの切なさ」を取り上げた、夢追い人へのオマージュなんだ。

ハリウッドだってウォールストリートだってシリコンバレーだって、誰もが知っている成功者の100倍、いや1000倍以上の母数で、夢打ち破れて打ちひしがれて去っていった若者がいる。その彼らにスポットライトを当てたストーリーは少ない。でも多くの人をインスパイアするストーリーの要素として重要なことは、「夢を叶えること」じゃなくて「夢を追うこと」そのものの大切さなんじゃないか、この映画を見てそんなことを感じた。

それからもう一つ、この映画は、そもそも今アメリカのエンターテイメント業界では大衆のメインストリームから外れて、今後の衰退が心配されている「ミュージカル」というフォーマットを選択し、また同じように衰退が心配されている「ジャズ」を題材として扱っている映画だということ。監督のデミアン・チャゼルはwikipediaによれば2010年からこの映画を作りたかったんだけど、リスクの高いオリジナルスコアのミュージカルというフォーマットが敬遠され、6年間資金が集まらなかったという。監督のみならず主演の二人を含め制作に携わったメンバーが各々の駆け出しの苦労人時代を振り返って演出に生かしたという。それが功を奏したのか、音楽も演出もクオリティが半端無い。

最後に余談ですが、この映画で主役の二人が踊ったGriffith Observatoryというプラネタリウムのある公園は僕の住んでいたアパートから徒歩5分で、夕暮れの桟橋が映るシーンのビーチは子供の頃から通っていたHermosa Beachなので、設定上も感情移入せざるを得ないです(これ以上はネタバレになるので言えませんが笑)。

American Dreamとは

アメリカ人は「アメリカンドリーム」という言葉が本当に好きだ。そして僕もこの言葉が大好きだ。夢追える国、自由の尊重という二つの概念が、いつまでもアメリカという国が自分を魅了し続ける一番の理由。でも夢があっても決して生きることが楽な国じゃない。そんな生きる苦しみから生まれたブルーズやジャズがソウルやロックンロールを生み、ハリウッド映画を生み、世界を代表するエンターテイメント産業に発展してきた。そんなアメリカンドリームも全てスタートはみんな一緒。だからやっぱり実現することに価値があるんじゃなくて挑戦することに価値がある。そんなことを再度リマインドしてくれたこの映画。また人生でくじけそうになったら見ようと思う。

告知(笑)

直球ですが、一応仕事でも、一緒に熱くなれるチームメイトも絶賛募集してますので、ご興味のある方は是非(笑)。事業は教育プラットフォームですが、僕と同様に夢追い人が揃っており、元DJ、ベーシスト、ギタリスト、映画プロデューサーもなんかもいます。

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藤本 崇/ストリートアカデミー代表

まなびのマーケット「ストアカ」を運営するストリートアカデミー株式会社の代表取締役社長CEO。まなびの選択肢を増やし、自由に生きる人を増やす。遊園地のエンジニアから物流企業、投資ファンド勤務を経て、2012年に起業。「まなび」「教育」「副業」「人生100年時代」「自分らしく生きる」などについて発信してます。二児の父。