画像は、新宿で死んでたカニです。彼はなぜ上京を決意したのか。
hoshino tetsurou
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Re:

「自由」と言う”標語”は、人間にとっての快楽であり、明確でその実態が分かりやすいため様々なところでたくさん利用されていますが、この自由というのは「近代的な自由」を指すのではないかと思うのです。つまり、いわゆる市民革命(イギリス革命(清教徒革命、名誉革命)、フランス革命、アメリカ独立革命)における「自由」なのではないか、ということです。市民革命における自由というのは人権、政治参加、経済的自由の3つを主に指します。

しかし、今の、現代的自由はそれとは違うのではないでしょうか。

社会自由主義などはよく政治的に現代的な自由思想として取り上げられますが、それとも違う現代的自由。

つまり、このある程度多くの市民に、人権、政治参加、経済的自由が認められた今日、私たちに求められる自由はもっと個人や集団ごとというレイヤーまで引き下げた、例えば人種、国家、カラーなどによって起こる差別等をなくすというようなものではないかと思うのです。

それらの自由に対して議論する際に古典的な自由に対する価値観を元に話を進めるべきではないのですが、今の世論は古典的な自由によって現代的な自由について議論したり、古典的な自由による人間の明確な快楽を例に挙げ自由の良さを論じようとしている気がします。

現代の自由はそのように明確で快楽が付き添うものではないことも多いのではないと思われます。もっとこじれあい、複雑で多くの場合に傷を負います。

そんな自由を考える時には、レス先の一部を引用していうと、

“じぶん”をなくす。
自由はそうした抵抗のなかで自覚されるものだと思う。

これが重要なのではないかと思うわけです。

テレビや新聞なんかでは安易に「自由」という言葉が使われますが、彼らの思う以上に今我々が求める自由というのは重く、辛いものです。

それをわきまえて世論には自由を求めて欲しいばかりです。