珈琲を一杯おごってもらったときの心の動きについて

人から何かを施してもらうということは、もれなく嬉しい。

これは割りと、多くの方に「うんうん、そうだよね」と頷いてもらえる事実かと思う。

そのなかで「一杯の珈琲をおごってもらったとき」というのが、僕は飛び上がるほど嬉しい。

そんな話を残しておきたい。

「恋」と「愛」の違いとは。

急に壮大なテーマになる。

もはやこれは答えが出ないような永遠のテーマ、そんな気がするけど僕なりに知っている答えは、小学校での道徳の授業中、次のような流れで得たものである。

先生「人を好きになったとき、どんなことを思いますか」

このひとつの問いに対して、生徒ひとりひとりが順に指名され答えていく。

「その子を見ていたい」 
「手をつなぎたい」 
「一緒に帰りたい」

ときに覚えたての恋愛用語をふざけながら使って 「その人とキスしたい」とか答える。そうやって生徒から引き出された答えが、ちょうど真ん中で線引きされた黒板の左側にどんどん書かれていく。

黒板の右側は、空いたまま。

そんななか、一人の生徒がこう答える。

「その人が困っていたら手伝ってあげたい」

この答えが初めて黒板の右側に書かれて、みんなで「おお〜」「なんでや?!」となる。

その後も生徒の回答は続いたがそれ以降、黒板の右側に何かが書かれることはなかった。

結論としてはこうである。

黒板の左側にたくさん挙がった感情は「恋」であり、 右側にひとつだけ挙がった感情が「愛」であると。

つまり「〜したい」はという想いは「恋」であり、その想いが「〜してあげたい」という感情に昇華したとき、「愛」であるといえる。

これを知って以来、それなりに大人になった今でもなおこの事実は僕のなかで不変のものとなっている。

一杯の珈琲をおごってあげるということ

さて、すこし鼻をかきながら言うが、「一杯の珈琲をおごってあげること」は愛の始まりである。

たとえ一杯100円であろうと、こいつに珈琲をおごってやりたいと思った瞬間、それは愛だと思う。思うというか、そう信じたい。

個人的に珈琲が好きだということも要因かもしれないが、誰かと珈琲を一緒に飲むとき、大抵その先には楽しい会話がある。いろいろ考えたりする。いろいろな未来をそこに見る。

そういう高尚な飲み物を、ふいにおごってもらったとき、僕は心のなかで飛び跳ねる。

金額が高くないものであり、ふとした瞬間に起きる出来事ゆえに「始まり」だということを強く感じるのだ。

今日。

長いこと二人三脚で仕事をしてきた方から、ふいに珈琲をおごってもらった。僕はやっとその方に「認められた」気がした。

なんでもない一杯の珈琲の中に、小学生の頃に知ったこと、この方と仕事をするようになって感じたことが、すっと溶け込んでいった。

愛の始まりが溶け込んだその珈琲は今まで飲んだなかで、いちばん嬉しくていちばん美味しい一杯だった。

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