芦屋は100万光年の彼方

相変わらずクメール・ルージュの本を読んでいる。クメール・ルージュの政策は異形の共産主義だとは思うのだけれど、それじゃあ共産主義とは何なのかをちゃんと把握しているかというとそうでもない。

国民が全て労働者となって資本家を排除するということになると私企業は廃絶されることになるので、あらゆる生産設備、会社は国有化されるというのは分かる。その利益は国に収用されて国民に還元されることになるけれど、ここが問題なんだろうな。
企業というのは営利目的であり、その利益は株主に還元されるけれど、社員にも還元される。それによって社員達の労働意欲も高まるわけで、国営企業になるとその還元が大きく迂回されるから目に見えなくなるんだろう。配分が平等であることが重視されて勤労意欲により差が出ないことも関係あると思うが、やはり目先と言えば言葉は悪いが目に見えるところで結果が評価されないと人間というのは意欲が損なわれるんじゃないかな。

クメール・ルージュは、国民を総動員して農業に従事させたけれど、農業の集団化によって収穫量は減産し、その後、共産主義政権が陥落して田畑の個人所有が認められると収穫量は上がったらしい。中国でも農業の集団化を推し進めた時代には収穫が減産して耕作地を個人の責任で管理させると元に戻ったらしい。
集団の中の一人だと意欲はそがれ、個人の裁量で仕事をさせると責任感が生まれて仕事の効率があがるというのが人間の本質だ。機械であれば集約化して大規模にやれば効率は上がるけれど、人間はそうじゃない。農産物が個人の努力によって生産性が高まるという結果に直接結び付けば意欲は高まるけれど、農作業→収穫→国→労働者に配分となると迂回経路の分、結果が見えにくくなるから意欲が低下するのだろう。
クメール・ルージュで云えば、労働者への配分が最低限の衣食住というものと、集団化によって個人の自由を根こそぎ奪い取ったというものも関係すると思う。

しかし共産主義になるとなぜ自由が奪われるのかは今ひとつ分からない。勉強が必要だ。

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