いい散歩の5つの条件

どんな因果かこの記事を読む羽目になってしまった、あなた。
あなたは、趣味を尋ねられて、「散歩」と答えたことはあるだろうか?

おそらく多くの良心的な方々は、例え「散歩」を趣味にしていたとしても、年金生活突入済みだと思われたくないためか、そもそも「散歩」を趣味と呼んでいいものなのか決めかねているためか、口にせずにいることだろう。私もその一人。

「散歩」を(ときどき忘れる)日課にしていても、他のどんな些細な趣味よりも多くの時間を人生の内に占めさせていても、「散歩」を履歴書に記したことはないし、よほど和んだ場でなければ「散歩」に話題を譲るようなことはしない。第一に、あまりプロフェッショナルな響きがなく、第二に、「散歩」という単語が、ただでさえ口数少ない私を近寄りづらい存在にすることはあっても、劇的に場を盛り上げることなんて一度もないから。

しかし、どれほど口にせずにいようとも、「散歩」をしているという事実そのものをもみ消すことなど出来ず、そんなことをすれば酷使した脚に寝込みを襲われてもおかしくない。

「散歩」は、なんの変哲もないもの。むしろ、何ものでもないような、ぼんやりとした、曖昧で、つかみどころがなく、けれど誰かの人生にとってはとても大切で、空気と性格が似ているといったら大げさだろうか。

「散歩」の素晴らしさは「散歩」を実践する人にしか分からない。悲しいことに、実に多くの人が「散歩」を実践する前に「散歩」の価値を非常に低く見積もるどころか、年金生活突入済みの人の朦朧とした徘徊を「散歩」と呼ぶのだと勘違いしていることもある。

どうすれば「散歩」の素晴らしさを、多くの人に知ってもらえるのだろうか?

今回は、誠に畏れ多いことながら、「いい散歩」というものがあると仮定して、その条件を5つほど考えてみた。

1. 無目的であること――「散歩」は運動、スポーツではない。また、「散歩」は自宅とコンビニを結ぶ線分上を歩くことではない。つまり、目的がない。「あれ、何してんだっけ?」とふとした疑問が降ってくるくらいがちょうどいい。無目的に、ただ「散歩」するために「散歩」している瞬間にこそ、髪をくしゃくしゃにして悩んでいた”難題”の答えがポンと降って来るもの。その答えきたら、「なに? 結構前からずっとここにいたけどね」と言いたげな顔をしているのが常。散歩を愛したアリストテレスやベートーヴェンの例を出すまでもない。

2. 計画しないこと――「散歩」を始める時、もしくは続けている時、「散歩」の実行が「丘の上公園の池の周りを朝8時に1周すること」と同義語になってしまいがち。こうしてしまうと、せっかく無垢な「散歩」に、「達成」という厄介な不純物が紛れ込んでしまい、さらに「達成」出来ないときに沸き起こる「罪悪感」は、シャツに付いたザクロの汁より厄介だ。「あ、そういえば今日散歩してなかったな」と思えるくらいがちょうどいい。

3. 意味もなく立ち止まってみること――ただ、意味もなく。そして「うわあ、意味ねえなあ」と考えよう。あらゆる言動に”意味”を求められる人間社会における貴重な瞬間。「意味からの解放」、「無意味との抱擁」とでも呼ぶことにしよう。

4. 電子機器を見ないこと――ミミズの死骸を見ること、なんだかざわついているスズメの大群を見ること、やたら吠える犬の眼がたまらなく愛らしいのを知ること、など。これらよりも優先すべきことがスクリーン上にあるのでなければ、電子機器はいっそ家に忘れてしまうか、用水路に投げ捨てるかしよう。

5. 4つしか思いつかなくてもくよくよしないこと――10の戒めを持たない「十戒」は権威を失うだろうが、5つに満たない「いい散歩の5つの条件」はなんともない。人生そういうこともある。その方がいいこともある。この言葉の意味が分からないあなたは、ちょっと「散歩」してみるといい。

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