もし長い人生の中のたった1週間だけ、無理にでも時間を作ってもらえてたなら、目に映る太陽は無限だってことをあの人にも分かってもらえてたのかな。
カーニャクマリの朝。
Tomomi.
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わたしにとって、とても印象的な一文です。
同じ太陽なのに、無限の表情がある。同じだけど、ちがう。いつもと変わらない仕事をして、変わらない帰路につく折でも、ふと空を見上げると、そこには、きょうの、あるいはいままで生きてきた日々の上澄みだけきれいに濾過されたような、すぐにでも掻き集めて手放したくない茜空がある。
いちどきりしか姿を見せない、愛の告白みたいな太陽や、なんどでもいつもそこにある、挨拶のような親しい太陽もある。
もう二度と消費できないたった一回と、いくら反復してもけっして消費され得ない親しげな表情が、太陽には同居している。
社会にいても家のなかですら、ひりついて腫れぼったくて、気軽に帰ることのできる場所なんてない生活のなかで、これだけが救いになる、そんなときがある。
うつくしい夕空のなかにつつまれると、しょーもない日々に、あかるく蹴りを入れて復讐してやったような気持ちになる。消えながら反復されるわたしだけの綺麗な太陽が、わたしも見たくて生きているのかもしれない。
“目に映る太陽は無限だ”、この力強い断言は、すばらしい。この“無限”を日々、目に映しとることこそが、旅であり、生きるということなのかも。なんて、ちょっと大袈裟にも思わされる。
太陽を思うと、芥子粒のような存在として、自分を感じることができる。
そんな芥子粒がなぜこうも感じ、考え、生きねばならないのか、よくわからず、精神的にも体力的にも日差しがつらいときだってあるけど、太陽は無限だから明日には変わるかもしれない。
そう。変わりますように。変わりませんように。一日の終わりや、始まりに、繋がれたすべてをゆるゆるとほどいて。ほつれた自分を、きのうと同じように、きのうとは変わるように、駅まで、照らして。