リアルの差分

動物たち
病人たち
囚人たち
に
セリーヌ、『またの日の夢物語』のエピグラフとして掲げられているこのことばが、わたしは好きです。
フォローする、しない。あるいはリムーブする、しない。の基準など、わたしはまったく決めておらず、考えなしの直感の気まぐれもいいとこなので、Didier Merahさんは、とても考えのしっかりしておられる方だな、すばらしいな、と思います。
あたりまえですが、そのしっかりした“考え”に、うんうんと共感するところもあれば、わたしとはちがうなーと感じるところもあります。あたりまえすぎますね。
共感はうれしいものですが、“ちがい”は刺激になります。わたしは差異を愛したい。
セリーヌのことばを思い出したのは、そしてこんなものを書きだしたのは、Didier Merahさんのおっしゃる、「リアル」「ご職業」「社会活動等」という単語に反応してしまって。
わたしは現在無職で、病気持ちで、「リアル」な「社会活動」もとくにしていません。ただ、生きています。それがわたしのリアルです。
ネットは「社会活動」をされている方の発信する場所でもありますが、いっぽうでわたしは、あぶれものや、落ちこぼれ、声なきものたちが、それでも縋れる、居場所をつくれる媒体でもあると思っています。
これは、単純に、“好みの問題”ですが、わたしにはそうした社会的な場をもたない、あるいは場があっても不安定な、弱々しい人々の声を偏愛してしまうところがあります。じぶんがそうだから、というのもあるのかな。
そもそも、「社会人」とそれ以外、というのは明確に線引きできるのか、という疑問もあります。擦られ尽くした言辞ですが、人生はいつ、なにが起こるかわからない。極端だけど、きょう事故に遭って、じぶんが「社会」なるものからこぼれ落ちてしまうかもしれない。
わたしが思う「社会」なるものは、もうちょっと広いです。動物も、病人も、囚人も、浮浪者も、この社会の立派な構成員だと思っています。生まれたての赤ん坊から、瀕死の老人まで、社会人です。そこには、それぞれのリアルがあります。
もちろん、このような認識は世間一般とはズレています。大いにズレまくっています。すみません。
社会的な肩書は、ひとを判断するためにはたいへん重要な要素だと思います。しかし、それだけでリアルなそのひとが測れるとは、わたしは思っていません。ひとは、そのひとが表現しているものです。
ほんのひとかけらの、くだらないつぶやきのなかにも、そのひとのすべてが表れているのだと思います。わたしはそうやって、ひとを見ています。すくなくとも、わたしのことばは、矛盾もまちがいも嘘も含めわたしのすべてです。
わたしは「視えない」ひとが好きです。得体の知れない。よくわからない。けれど、どこか惹かれる。なんなんだこのひとは!そういったものに圧倒されます。たとえそれが、仮面でも、嘘でもかまいやしません。
わからないもの、了解できないものに、惹かれる。これはおそらく、わたしの生来の性分です。詩人のヴィスワヴァ・シンボルスカが、ノーベル賞講演で語っていた「わたしは知らない」という小さな声。小さいながら、強力な翼を孕んだ、この声をたいせつに想って生きたい。そう感じています。
ちょっとしたことばに触発されてしまい、“わたしの思うこと”を単に記してみました。反論がしたいのでも議論がしたいのでもありません。感想文です。誤読しているところもあるかと思います。
Didier Merahさんの実直な文章、音楽の雰囲気も、とても好きです。応援していますね。得体の知れない奴から長々とレスポンスがきて、不快に思うところもあったかもしれません。失礼いたしました。ではでは。
