「好き」を伝えること
好きなものやヒトには積極的に好き好きビームを出していこうと思い、とあるyoutubeの動画に熱烈なラブコメントを書いたところ、いろんなかたから「このひとこわい」みたいな返信コメントをいただいて、よくわかんないけどショックを受けた。わたしの愛情表現はこわいらしい。
いや、こわい自覚はあったかもしれない。だから、ところどころに、笑えるようなことばを挟んで、「パラノイアめいた文面だけど、わかってやってるから安心してネ」感を出していたつもりなのだけど、やわらかくしたはずなのだけど、それでも「こわい」と言われたことに、やはりショックを受けた。
「好き」よりも「笑い」よりも「こわい」が多くのひとへ全面的に伝わってしまったところがショックだ。すごく好きで、好きだっていう、ただ、それだけを思ったから、そのことを、一生懸命、ことばにしたはずなのに。「好き」の想いが深過ぎて、余裕が感じられなかったのかもしれない。冷静に俯瞰して、じぶんの文面自体をじぶんで茶化すことができる余裕をもうちょっと見せるべきだったか。
しかし「好き」にそんな余裕は必要なのだろうか。とも思う。好きなものは好きなのだ。余裕なんかみせていられないほど、大好きだから、それを言いたかっただけだ。じぶんも、まわりも、見渡す余裕なんかないよ。恋は盲目なのだ。などと、もうアラサーなのに、純粋にまっすぐ思っている成長しないわたしがいる。
成長しないって約束じゃん。
だけどまっすぐな想いをすなおにぶつけたところで、ドン引きされて、ちゃんと伝わらないのなら元も子もない。そんなふうに一方的に「好き」をゴリ押しするのは、ただの自己満足に過ぎない。じぶんだけでなく、相手のことも、周囲のことも考えて伝える、これがおとなのやり方なのかもしれない。そういう思いもある。
「こわい」とか「あたまおかしい」とか、そういう感じは伝えず、ただ熱烈に「好き」。それだけを、この気持ちだけを、きれいに濾過して、いっさいの雑味なく、わかりやすく伝えるって、わたしにとっては不可能に近い。
シンプルに「好きです」というだけでいいのかもしれない。でも、足りない、と思ってしまう。どうしても。事実そんなんじゃ、たしかに足りないから、だから、ことばが増える。パラノイアになる。
どこまで、どれほど、どんなに好きかっていう気持ちが、先走ってあふれてしまう。結果、「好き」というメッセージが宙空に雲散霧消し、謎の「こわい」がどこかから降って湧いてきて伝わってしまう。いまにわかったことではないが、「好き」を言い過ぎると、こわくなる。経験上、なんどもこの過ちは繰り返してきたはずじゃないか。
ことばはいつだって、半分だけ届くのだと思う。ぜんぶを届かせたいなんてどだい無理だ。わたしは間違ってる。届けたいことは、届けたいように届かない。誤読している。じぶんのことも、あなたのことも。わたしはつねに届かない残りの半分を探して、誤読へ向かうのかもしれない。
山本美希さんの、『ハウアーユー?』という漫画がある。
この作品は、「好き」ということについて、極めて複雑怪奇な、その半分について、とても真摯に語られていると思った。あるいは、「希望」という、その半分について。絶望で補完される希望ということ。その感情はどこまでもほんきで、うそで。真に迫っていて、間違っていて。
「好き」という感情の責任者はどこにもいない。そのほんとうの発端は、だれにもわからない。なんで好きになったんだろう?原因は、あなたではないし、わたしですらない。この感情の責任はだれがとるというのか?どうしてこんなことになってしまうのか?だれも悪くはない。
極悪人は誰も出てこないそれでも
生きていけなくなるときがあるんだよ
こう述懐するひとがいる。あるいは。
あの頃の私にとって「好き」っていうことはフクザツな問題でした
好きなものほど壊したり汚したりいつの間にかボロボロで……
「好き」の半分。わからない。この作品は、届かなかった半分と、届いてしまった半分が複雑に入り乱れているように思える。見えない半分をすべての登場人物が追っている。その“半分”とはなんだろう。わからない。そのわからなさに、打ちひしがれる。決して語れないものを語っているように思う。語れない瑕疵のなかに美しさを捜している。
わたしには、わからないことが多すぎる。
