
画像は、新宿で死んでたカニです。彼はなぜ上京を決意したのか。
たまにブログやSNSで「苦手な方は注意!」などと親切にも添えてから、虫やなんかのグロい画像を載っけている人々を見かけます。とても親切です。でも、そうしたものをみると、なにか複雑な気分になります。すべての「苦手な方」のことを考えていたらキリがないんじゃないか、と思ってしまいます。
わたしは虫の画像はぜんぜん平気です。むしろ愛しています。しかし、イケイケな若者たちがパーティーでウハウハしていたり、河原でハナマサの肉を楽しそうに焼いていたり、“みんな仲間~いぇ~い!”みたいなことばが添えられていて笑顔しかないような画像はたいへん苦手です。こっちのほうがよほど、「苦手な方は注意!」の添え書きがほしいものです。精神が毒されます。
ほかにも、具体的な固有名は書きませんが、特定の政治家や、特定の有名人の画像、あるいはそれにまつわる言説まで、たいへん苦手であったりします。もしくは有名人じゃなくとも、知り合いで苦手なひとの画像とか、知らんひとのすげぇあたまわるいヘイト言説とか、そうしたものを偶然、目に入れてしまうと、これまた精神が毒されます。そのまえに「caution!!」がほしいところです。
とか、いろいろ考えていくと、ほとんどのものが、だれかしらの“苦手領域”にひっかかってしまう可能性があるのではないか。もうすべてのものに「caution!!」が必要なのではないか、という気がしてしまいます。
「caution!!」が飛び交う親切な世界。想像すると、相当うざく、辟易しそうなので「caution!!」という表示自体にも「caution!!」が必要になってきそうです。そうなってくると、その二重の「caution!!」にも辟易どころじゃなく怒りすらわくだろうと思われます。対策として、さらなる「caution!!」が必要になるでしょう。するとまたそれにも……という「caution!!」の連鎖が止まらなくなります。
注意書きばかりが氾濫し、いっこうに本題にたどりつかない世界のできあがりです。なんにも言えねえじゃねえか。あんまり親切に先回りして考えてしまうと、そうなるんじゃないかなあ。そうならないために、わたしは、あなたのことなど考えません。なるべく自由でいたい。
みんな自由にやればいいと思う。自由に虫の画像をアップし、自由にハナマサの肉を河原で焼いて笑顔で写真を撮って、それをインスタやフェイスブックにあげればいいと思う。それがたのしいひともいる。わたしのことなんて、気にしないで!フィルターはじぶんでかけるから。
でも、逆に、“自分の思考から飛び出す自由”というのもある。わからないあなたのことを考える自由。さいきんこんな記事を読みました。
A black man went undercover online as a white supremacist. This is what he learned.
元役者のTheo Wilsonという黒人男性が、ちかごろ話題のalt-right(オルタナ右翼)を理解しようと、オンライン上で白人至上主義者になって潜伏捜査をしてみたそうです。じぶんをおびやかす対象に、蓋をするのでも石を投げるのでもなく、そのものに扮して対話を試みるという姿勢には、とても感服します。
しかし感服してばかりもいられません。ほんとうは、矛盾するようだけど「なるべく自由でいたい」のなら、これが必要なのだと思います。「あなたのことを考える」というのは「caution!!」を重ねて遠ざけることではない。それは単に攻撃されないよう、「親切」の衣をかぶってじぶんを守る防衛線を張っているだけだ。
“じぶん”を他者へ向けて手放さないと、自由の枠は広がらない。べつに対象はひとじゃなくてもいい。書物でも、音楽でも、舞台でも、映画でも、絵画でも、なんでもいいんだ。じぶんひとりの思考の枠をこえたなにか、であれば。“自由”にこびりついた、あらゆる汚れをふりはらって。政治的、道徳的、慣習的、個人的な泥を落として。わたしはじぶんの思考から飛び出したい。
そうして、わたしはあなたになる。パーティーではしゃぐのも、河原でハナマサの肉を焼くのも、存外、楽しいかもしれない。あの政治家にだって、有名人にだって、わけがあんだよ、きっと。じぶんを守るばかりではなく、他者の尊厳に最大の敬意を。“じぶん”をなくす。自由はそうした抵抗のなかで自覚されるものだと思う。
凝り固まった自己を手放し、わからない他者を思うこと。じぶん勝手な同化ではなく、了解不可能であることに敬意を払いつつ。あるいは死者までをも射程に入れ、世界を思考すること。
「わたし」などというちっぽけなものにばかりこだわっていては、どうにもならない。人類よ、宇宙と和合せよ!神と和解せよ!虫を愛でよ!河原でハナマサの肉を焼いて笑顔で写真を撮影せよ!
自由意志はシヴァの踊り。「わたし」は宇宙の盛衰の一部にすぎない。この壮大な仕組みの、一部。
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン
