さよなら、インターフェース
『さよなら、インターフェース/ゴールデン・クリシュナ』を読んだ。
インターフェースというのは、アプリやウェブサイトの画面に並ぶ、ボタンや入力フォームのことだ。僕らの欲求を実現するためには、何回かインターフェースを操作しないといけない。例えばInstagramのアプリで写真を投稿するのはこんな感じ。
- ランチのカレーを写真に撮って友達に共有したいと思う
- ポケットからiPhoneを取り出す
- ロックを解除してInstagramのアイコンをタップする
- Instagramの画面下のカメラボタンをタップして写真を撮影する
- 写真を加工するフィルターを決める
- コメントを入力する
- 共有ボタンをタップする
- 友達に共有できた
共有したいと思ってから、共有するまでの間に、少なくてもこの8ステップが必要で、それぞれのステップでインターフェースが登場する。
多くのアプリ開発者は、人の欲求を叶えるためには、いくつかのステップがあり、そこにはインターフェースが必要だと思っている。だから「使いやすいインターフェース」を作れるよう試行錯誤している。アプリをバージョンアップすると、ボタンのデザインが変わったりするのもそのためだ。
この本は、そんなインターフェースありきのアプリ開発者の常識にこう問いかける。
目的を達成するための手段であるはずなのに、いつのまにか、手段を設計することが目的になってはいないか?
何にでもとりあえず画面をくっつけて、その長方形の中をどう設計するかということにばかり考えを巡らせて、本当に人のためになるシステムを創るということが疎かになってはいないか?
Instagramの例だと、ランチを友達に共有することが目的で、Instagramを操作することはそのための手段でしかないということ。例えば、共有したいと思った瞬間に共有できる方法(テレパシーやそれに代わる何か)があるなら、みんなそっちを使う。
でも、著者曰く、多くの開発者はとにかく画面ありきで、インターフェースありきで考えてしまっているらしい。
ここまではこの本の紹介。ここからは僕の話。
僕は、著者の言う「多くの開発者」の1人で、画面ありきで、インターフェースありきで考えていた。
もう少し言い方を変えると、何でもかんでもアプリにするのがよいと思っていた。自分に必要なものは全てアプリになっていて、スマートフォンに集約されているのが便利だと考えていた。
冷静に考えると全てがアプリになっているなんて誰も望んでないことは理解できる、僕も望んでいない。でも作り手側に立った時、うっかり見落としていた。
どこにボタンを置いて、他の要素との強弱関係を考えているのは、楽しいし、アプリやソフトウェアを作る上で重要なプロセスだと思うけれども、それは手段の1つだと認識して、設計する幅を広げていこう。