この度、令和2年度4月1日より名古屋造形大学地域社会圏領域の特任講師に着任することになりました。下記は志望時に執筆したテキストです。

地域社会圏に対する抱負

私は、大学院在籍時に山本理顕学長(2009–10年当時横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA校長)が提唱する地域社会圏をテーマにした設計スタジオを履修し、その理念を学んだ。経済と資本を優先させた近代以降の社会の枠組みが、法、倫理、空間、教育、労働を規定し、それらが社会の近代性をさらに補強する、そしてその仕組が人口減少社会に突入した日本においては瓦解し始めているという前提のもと、どのような地域社会を描くかを建築空間の側から提案するという、大変野心的な課題であった。この時私が山本から学んだことは、建築の作り方ではなく、建築家としての、あるいは現代人として生きるための理念である。建築は、その敷地の中のためだけに、施主の利益のためだけに作られてはならず、より広範な社会に利するものでなくてはならない。私達は、一人では生きることができない。誰かを頼って、頼られ、様々な因果のネットワークに身を委ねて初めて生きていける。その根本的な事実が、現代社会を生きていると簡単に忘れられてしまう。一人で生きていけるという錯覚に陥る。その錯覚が「個」の概念を補強し、その「個」に紐付けられた様々な商品が売れる。それが現代の資本主義社会の根本であるということ、その社会の底が抜け始め、新しい社会観を建築空間と一緒に提示すること、その時我々が拠って立つ基盤は地域社会でありコミュニティであるということ。それが地域社会圏のモチベーションであり、私が山本から学んだことだ。私は、その学びを独立した2011年以降、浜松で実践している。地域社会圏というまとまった敷地と建築空間を設計しているわけではなく、今ある地域社会に入り込み、その仲間に入れてもらって、いくつかの建築的なお手伝いをさせてもらっているのが現状である。その建築的実践は非常に小さくささやかなものであるが、その実践を通して書き換えられたネットワークによって、私はコミュニティの概念を実感した。持ちつ持たれつという関係が何故自分たちに利するのか、その時他者への眼差しはどう変化するか、そしてその関係の空間化はどのようなプロセスによって可能になるのか、そのような地域社会圏の核心となるであろう想像力の感触を、私よりも一回り若い学生たちとともに研究していきたいと考えている。

領域に対する抱負

名古屋造形大学の5つのラーニングセクターの分類法は、学部ではなく領域である。従来の学部学科体系で分かつのでなく、横文字にも頼ることなく、日本語で新しい名の冠された5つの「領域」が設定されている。この意図は明快である。近代化の過程で構築された分厚い部門・科目という壁を一旦取り外し、より日本的な領域という空間概念によって大学を再構成しようということであると認識できる。領域は、部門・科目よりも境が曖昧で、例えば日本家屋の道・庭・庇・縁側・居間・寝室というグラデーションがあるように、緩やかな境界を持っているから、前述した大学を再構成するというミッションは、このような相互に浸透可能な領域性でもって達成されようとしていることがわかる。つまり、各領域は相互に連携し、知の創発を生みだせる。その持続的な知の創発の仕組みが他大学に対する優位性となる。私は、名古屋造形大学の新たな編成をそのように理解した上で、その各領域の横断を積極的に試みたいと考えている。自分にとってもその横断から学べることは多分にあると推測できるし、浜松という地域をフィールドに活動していると、そもそも学部学科の体系的な棲み分けよりも、領域的な曖昧な棲み分けでもって社会が構成されていることが実感でき、そこに育てられた自分は、異なる分野・部門・領域を横断する能力を有していると認識しているからである。

名古屋造形大学の社会的価値に対する抱負

名古屋は地政学的に関東と関西の中間に位置し、東海道ベルトを支える工業都市の親玉のような都市である。私が拠点を構える浜松は隣の静岡県に位置するが、歴史的にも産業的にも、文化圏としては名古屋に近く、肌感覚は理解できる。近年はあいちトリエンナーレに代表されるように、工業都市群から文化都市群への転換を図っているように見え、文化・芸術に対する野心を都市そのものから感じる。大学機関についても、名古屋造形大学以外に複数の芸術大学があり、建築を学ぶことができる大学も多いのは、名古屋が持つ一つの特徴といえる。その中でも名古屋造形大学は、建築家・山本理顕氏を学長に迎え、キャンパスを都市部に移転することを決定し、学部編成を組み換え、その体制を大きく変えようとしており、名古屋の芸術文化を新たな変革とともに先導する立場にあると言え、ひいては経済成長が支えてきた日本の都市が、21–22世紀の戦略を立てようとする時に、文化芸術を中心とした新しいモデルとして参考にできるような可能性を秘めている。ここで言う文化芸術の社会的価値とは、見た目のデザインや美しさを整備するということではなく、分断が叫ばれるこの時代に、人がどう自己を表現し他者の表現を受け入れ、誰とどこでどのように生きていくかという哲学的な問いの先にある、人間の生き方に直結するものである。その先に、私達のコミュニティは、街は、都市は、国は、世界はどうあるべきか、という理念がある。その理念は名古屋造形大学の「同朋和敬」そのものである。表現の素晴らしさは、他者の概念の創出にあり、教育の素晴らしさは、その作法の同時代的な共有にあり、大学の素晴らしさは、その研究の蓄積によって可能となる過去と未来との対話にある。私は、文化芸術と都市を結びつける野心的な取り組みとして名古屋造形大学の変革を捉えており、その只中に身を置くことで、私が学べるだろうこと、私が伝えられるであろうことに大変期待している。


[202002特集:建築批評《チャウドックの家》―東南アジア浸水域の建築 -近代化の境界線上からの視座- ]REVIEW : Rough abstract

インターネットとの差

人生初のアジアはヴェトナムだった。目的は、西澤俊理さんが主宰するNISHIZAWAARCHITECTS設計の《チャウドックの家》を訪れること。建築討論(建築作品小委員会担当)の取材である。

日本でインターネットのブラウザ越しに《チャウドックの家》を見て勝手に想像していたのは、眺めの良い川沿いに建ち、施主は比較的裕福な贅沢な家なのだろうということだった。写真の印象は〈焦げ茶+細い木造+あふれる植栽=さながらアジアンリゾート〉のように見え、まさかホーチミンから車で7時間かけたカンボジアとの国境付近に位置し、すぐ裏に墓地に埋め込まれたスラムがあり、地下空間がスラムの住人の通り道としても機能しているとは全く想像していなかった。

何よりもこの地下空間は、画面越しには絶対に伝わらない種類の光の暗さと気積の大きさを持っていて、スロープを降りた瞬間に感じた、(ヴェトナムの木造というよりも)洞窟のような荘厳さは今も記憶に焼き付いている。

エントランスから地下空間と吹き抜け、スキップフロアを臨む(photo©大木宏之)

チャウドックの家の構成

《チャウドックの家》は三世帯が暮らすコレクティブハウスで、道路側からアプローチすると、地下に降るスロープと上階に登るゆるい階段がエントランスとして機能している。グリッドシステムの平面構成は梁間7,000mm(2,350–2,300–2,350の3スパン)桁行24,500mm(1,750mmの14スパン)で、3×14=42マスのグリッドから成り立っている。FLは概ね、地下からGL+0mm(洪水対策のため道路を堤防化したチャウドックは道路側と裏手で2mの段差がある)、2,000mm、3,500mm、6,000mmの4種類、そこに立体的にヴォイドとフロアが当てられていく(間仕切り建具はあるが壁はほぼない)。

形式としてはスキップフロアで、地下から屋根までの約9mの吹き抜けを象徴にして各所に吹き抜けが配され開放的な空間となっており、その地下の吹き抜け上部の屋根にはトップライトが設けられている。

一つの特徴でもある縦軸回転と横軸回転の二種類で構成される建具は外装材と同じトタンの波板で、ガラスは嵌めておらず、開けたら風と光と音が入り込み、閉めれば外界とは遮断されるがほぼ開けっ放しだという。

立体グリッドシステムが具体化する仕口は相欠き(詳細は特集・金田泰裕さんの論考を参考にされたい。)で現地の精度は高くなくばらつきがあるものの、素材そのもののラフさがあるので特に気にならない。

隣地との界壁に当たる両側の壁は真壁で化粧で竹網テクスチャーの現場内プレキャストコンクリートが嵌め込まれ、基礎に当たるコンクリートは2層目に当たる3,500mmの高さまで柱としても立ち上がり、それを基壇として木造のグリッドが載っている。

低層の周辺の建物群と馴染ませるために屋根は三つの高さのバタフライルーフ(真ん中が最も背が高く、角度はそれぞれ同じ)が組み合わさって、その間から採光と換気を取る工夫がある。

冒頭に記したがこの建築のハイライトは、道路側から入って地下へのスロープを下り、9m上から降り注ぐ光と軽ろやかな木造の架構を浴びる瞬間だ。現地の技術と素材を駆使して作られたとは思えない空間のクオリティだった。幅7–8mの道路はひっきりなしに車とバイクと屋台と人が通り、すぐ裏手は墓地群と違法スラムが混在するエリアで、あの吹き抜けの荘厳さに比較すると全く違う世界が隣り合っていた。しかし建築がその周囲に対して閉じているかというとそうではなく、建具はほぼオープンになっているので音や光や景色は入ってくるし、スラムの住人の通り道にすらなっているのだという。訪れた時は住人が地下のリビングでサッカー観戦をしていると思ったら近所の人だったそうだ。


海側から尾道駅を臨む(撮影:筆者)

尾道を歩く
早秋のお昼前、JR山陽本線で福山から20分ほど西へ向かう。進行方向左側の窓には南中に差し掛かる太陽に照らされる海が、右手には斜面地が迫り、瀬戸内の海と空と山はなんて暖かく美しいのだと感慨に浸っていると、この作品レビューの目的地である「尾道駅」に到着した。電車を降り改札を抜けると、右手に待合スペース、左手に「おのまる商店」という地元のお土産屋さんが目に飛び込んでくる。その間のコンコースを進み庇をくぐって外に出ると、先程まで車窓から眺めていた瀬戸内の海が造船所のドックや向島を背景にして目の前にバンっと広がった。駅から海岸までの間には車道と広場(法的には道路)があって、その先の海沿いにベンチが見えたのでともかくそこまで歩く。少し汗をかきながらたどり着き、柵を背にしてベンチに腰掛け、振り返る格好になった。そうして初めて尾道駅の全貌を眺められたのだが、ほぼ屋根しか見えない。まるで寺社建築のようだなと思うと同時に、なんと自然に、幾分の抵抗もなく波音が聞こえるくらい海の近くまで来たのだろうと驚いた。電車を降りてから時間的には10分ほど経ったのだと思うが、あまりに経験が連続的過ぎて尾道駅を通り過ぎたことを振り返るまで忘れていた。

集合時間まで少し余裕があったので尾道の旧市街を散策しつつ、最近竣工したLOGへ足を伸ばした。途中、常光寺というお寺を訪れ、その斜面に張り付く大屋根を見た時にさきほど観たばかりの駅舎の屋根が想起された。旧市街の南北の道はきつい階段坂、東西に伸びる道はゆるい坂、途中で寺や神社があると一気に開ける平場、その豊かな組み合わせを何回か繰り返してLOGに着いた。ビジョイ・ジェイン率いるスタジオ・ムンバイが設計したLOGは、築50年を超える集合住宅を大幅に減築・外部化しホテル・レストラン・カフェに改修した複合リゾート施設で、地元の土を混ぜた塗料でいくつかの淡い色が空間の調子をコントロールしていた。換気扇や空調機器まで、同系色で塗装されていてその塗装の徹底ぶりに舌を巻き、平面計画としても内部空間を最小化(例えばレストランやカフェは既存の柱間がつくる1グリッド内に納められることで16席程度しか確保できていなかった)することで、地方都市でこそ成立するゆったりとした時間というコンセプトを体現しているようにみえた。例えばランチの価格にしても都内と同等で、それは確かに建築家によってもたらされた効果であるように思えた。LOGを後にして、再び旧市街を歩く。往路とは違う道で途中空き家を改修した雑貨屋に立ち寄りつつ西に進み(LOGは尾道駅の東方向の旧市街に位置している)、尾道駅を超えて斜面の等高線が東西から南北に切り替わるあたりで雰囲気が少し暗くなってきた。空き家が飛躍的に増え、朽ちた木造がすぐ隣に迫りながら、舗装も頼りなくなってきたからである。建築基準法上の接道義務や崖条例の条件を満たせず再建築不可となっている敷地が多い斜面地であるという現実をまざまざと見せつけられた(尾道駅よりも東の傾斜地は寺も多く非常に良い雰囲気だったことは強調しておきたい。)。※1

ほとんど獣道みたいな狭い階段を降り、ようやく平場に降りたときの安心感は未だに忘れられない。その足で北側から尾道駅に近づくと、序盤に体感していた観光的な尾道の表情とは違う、よりドメスティックな住宅地(少しお店もあった)を抜けることになった。踏切を再び渡って、海側に出て、m3 HOSTELという駅舎2階のホテルでチェックインを済ませて外に出ると、同行していたメンバーがロビー正面の海沿いのテラスで軽く飲みながらディスカッションを始めていた。夕日と海風を浴びながら安いコンビニの酒とつまみを嗜みつつ、その建築の上でその建築を議論する時間は控えめにいって最高だった。そこから街へまた繰り出して、遅くまで飲み、駅のホテルに帰ってきて、海側の窓際の部屋で眠りについた。翌朝は朝日に起こされ、窓いっぱいに広がる海を眺めながら身支度を整えて、下のコンビニで朝ごはんを買って、海まで少し歩いた。振り返ると朝日に照らされた駅舎の屋根が眩しかった。そしてそのまま駅舎に向かって歩き、庇をくぐってお土産を買い、改札を抜け、プラットフォームに出て、再び電車に乗り、今度は右手に海、左手に斜面を眺めながら帰路に着いた。

ここまで書いて、ほとんど尾道駅の空間や建築について直接は語ってきていないことに気づく。言及してきたのは自分の行動と、尾道駅以外の尾道の風景や空間についてである。しかし、あの時の連続的で淀みない尾道の経験は、今冷静に振り返ると自分にとっては非常に特殊な経験で、その理由が尾道駅の建築に少なからずあったのではないかと思う。一つ一つのシーンを可能にした設計について、もう少し踏み込んで筆を進めたい。

人々の行動を喚起する設計
例えば、あの夕方の時間に、ホテルのチェックインを済ませた直後に駅前の公共空間でディスカッションしながら一杯やるという状況が何故成立したのか。その成立要因を箇条書きで示す。

□プログラム
・多少騒いでも気にならない駅というプログラムと立地
・一階の土産も売っているセブンイレブン(ビールとつまみをすぐ買えた)
・駅舎の二階に位置するホテルのロビー
・フリーアクセスの動線を兼ねたテラス

□空間構成
・二階から遮るものがなく広がる海
・雨の日でも居場所をつくる庇
・動線以上の幅を持ったテラス空間

□ディテール
・半円断面で手に優しい手すりの笠木
・肘をかけやすい手すりの高さ
・30°ほど傾いた手すり子(それによって手すりに肘をかけて海をみても膝や足先が手すり子にぶつからない)

□家具
・少し大きめのベンチ
・簡易なスタンディングデスク

このような繊細な「設計」が組み合わさって初めてあの時間が成立したのである。空間的、計画学的な寸法体系と構成、素材の選択が人間の振る舞いにとって心地よいのだ。※2 どれか一つでも欠けていたらあの場所で飲みながら議論するという選択肢は取っていなかったかもしれない。少なくとも、同様の時間を外部空間につくることは、旧市街の東側でも西側でも再現することは無理だろうと直感した。旧市街の東側ではまだ健在の住宅群のプライバシーと寺の領域性によって、西側では空き家群がつくる不安感によって、その再現が難しい。※3

環境の背景となる建築の存在感
自分が尾道駅を通り抜けた際、その存在よりも海に焦点があったり、冒頭のテキストで駅舎建築自体よりも自分の行動や周囲について言及したということは、尾道駅の存在がまるで空気のように透明だったということもできるだろう。その透明感は、尾道駅における建築意匠のコンセプトが強く表現されていないことであったり、抽象的=表現的ではない素材選定(ドブ漬け、アルミパネル、御影石など一般的な駅舎や公共施設でも使われる素材)であったり、計画的、構造力学的に無理をしていないこと、によって達成されていると思われた。例えばあの場所に高さ30mの、コンセプチュアルな白い箱が抽象的に現れたら強烈な違和感が残るだろう(その違和感を作品の強度に昇華させる建築意匠のアプローチはあり得るが。)

尾道駅のデザイン監修者であるアトリエ・ワンの塚本由晴氏は、今回のインタビュー※4において「プロトコル」という言葉を多く使っている。プロトコルは、議定書・外交儀礼という意味が転じて主にIT関連の話題においてコンピューター間で、データをやりとりするために定められた手順・規約という意味で使われる。噛み砕くと、「プロト」は「最初の」、「コル」は「糊」という意味で、表紙に糊付けした紙を表し、複数の者が対象となる事項を確実に実行するための手順について定めたものというのが語源である。

塚本氏は同じインタビューにおいて「木造のプロトコル」という言葉で駅舎について説明してくれた。「木造のプロトコル」を私なりに意訳すると、木造建築に内在されている、反復可能な知の体系ということになろうか。尾道駅においてはそれを駅舎に埋め込むことで、強くわかりやすい単一のメッセージを建築が発するのを避け、より身体的に、非言語的に私達がなんとなく「良い」と思える建築を目指したのでないだろうか。プロトコルはコンセプトのように”表現されるもの”というよりも、”埋め込まれる”ものだ。したがって訪問者がそれを鮮やかに捕まえ理解することは難しいかも知れないが、だからこそ、設計者の意図が空間に主張されずに済む。代わりにその周囲が見えてくる。私が体感したある種の透明感は、プロトコルを埋め込む設計によってもたらされたともいえよう。

どこまでも広がり、連続する建築
要するに、一つ一つの判断基準に、自分の脳で考えること以外への信頼がひしひしと感じられるのだ。屋根の勾配は背後の山とつながり、屋根の大きさは斜面の寺とつながり、柱と梁の取り合いは貫木門のディテールにつながり、東西に伸びるブリッジは旧市街の斜面に平行な小道を想起させ、階段は斜面に対して垂直に伸びる坂道に対応し、テラスからの眺めは、坂道を抜けて突然現れる神社の境内から見る景色と重なり、新築の安心感は斜面地から平場に降りた時の安心感と呼応し、手すりの角度は海と人間の身体とつながっている。尾道駅を体感することは、そこに埋め込まれたプロトコルを体感することでもあり、それは設計者やデザイン監修者の外側にある要素、つまり木造の歴史や尾道の都市構造、人々の振る舞いへの仕掛け、といった様々なスケールでの尾道駅以外の事象を体験することでもある。それらのプロトコルを丹念に擦り合せ、編集し、ようやく立ち上がった建築は、もはや目で見える物質性ではなく、目に見えない「雰囲気」や「透明感」といった「アンビエンス」でしかその価値を伝えられないのかもしれない。ただ、この時建築は、そのプロトコルを手がかりにすることで、目で見える範囲よりも広く、深く、どこまでも連続していけるはずだ。

※1 旧市街の成立過程と現状についてはこちらの記事を参考にされたい。
「再建築困難な斜面地と向き合う ── 尾道」https://medium.com/kenchikutouron/%E5%BB%BA%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E7%94%BA%E3%81%AB%E5%BB%BA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B-%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E4%BE%A1%E5%80%A4-%E3%81%AF%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%96%87%E8%84%88%E3%82%92%E9%86%B8%E6%88%90%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%8B-38a32379c6d2

※2 このような行動の喚起は、いわずもがなアトリエ・ワンが標榜するふるまい学によってもたらされるもので、その分かりやすい具体例としてこのテラスの出来事があったこともあり詳細に言及した。

※3 というか日本国内においても、こういう自由な振る舞いが可能な建築家による公共空間は数えるほどしかないような気さえする。すぐに思いつくのは藤村龍至氏設計のOMテラスだ。

※4 「地域の建築の当事者性」
https://medium.com/kenchikutouron/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC-%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E7%94%B1%E6%99%B4-%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%AE%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E5%BD%93%E4%BA%8B%E8%80%85%E6%80%A7-6e255db247cf


怒涛の夏のアカデミーの5日間の集中講義を終えた。夏のアカデミーの正式名称は、”あいちトリエンナーレ芸術大学連携プロジェクト『U27プロフェッショナル育成プログラム 夏のアカデミー2019「2052年宇宙の旅」』”で、27歳以下のプロの作家やキュレーターを育成するプログラムであり、「2052年宇宙の旅」をテーマとして、8/24から約1ヶ月の製作期間を経て、その後9/22–10/14まで、なんらかの”パヴィリオン”を表現し、公開するという一連のプロジェクトを指す。メインの講師は、服部浩之(キュレーター、アートラボあいちディレクター)、山城大督(美術家・映像作家)、辻琢磨(建築家、403architecture [dajiba]共同主宰)の3人。

キックオフとなる8/24–28の5日間は、集中講義期間として、参加者、メイン講師、チューターが全員参加して、ワークショップやゲスト講師(やなぎみわ氏、津田大介氏、真鍋大渡氏)によるレクチャーなどが開催された。参加者には、17歳から27歳の世代で、アート、デザイン、建築などの表現活動や、キュレーション、展覧会企画、マネジメントを職業とすることを目指す、16名の学生、社会人が集まった。

前置きが長くなってしまったが、この集中講義はとんでもなく濃密で強度の高いインプットの連続だった。

5日間、午前午後の10コマのうち、ディレクター3名、ゲスト講師3名が1コマずつ持ち、6コマがそれらのインプットの時間、残り4コマを自己紹介とディスカッションに当てた。

自分は物を動かして場所を少しだけよくするワークショップと題して、持ち寄ったモノを転用し、会場の悩みを解決する(例えばヴェネチア土産のお面がサイン計画の矢印に転用された)というもの。

山城氏は感覚を開くワークショップ。例えばすこし水の入ったペットボトルを倒した1秒先の未来を皆で本気で予測し、答え合わせをしたり、イヤークリーニングという、聴覚を目覚めさせる体験型のワークショップがおこなわれた。

服部氏からは自身がキュレーションを務めた第58回ヴェネチアビエンナーレ国際美術展日本館展示「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」についてのプレゼンテーション。定点観測としての展示とこれまで70年の歴史への位置付けを起点として、協働による他者との共存を考えるというテーマ設定や協働のプロセスについて詳細に共有。下道基行氏による映像作品”津波石”を起点に、安野太郎氏のゾンビ音楽と石倉敏明氏による創作神話”宇宙の卵”が応答、それらに建築家の能作文徳氏が空間によって関係性を与えるという鮮やかなプロセスだった。

上記に加えて、さらにゲスト講師のやなぎみわ氏、津田大介氏、真鍋大渡氏からそれぞれ自身のキャリアと仕事をテーマにしたレクチャーがあり、レクチャー後には簡単なディスカッションの時間を設けた。

やなぎ氏には、自身の初期代表作”Elevator Girl”から近作の演劇作品について美術と演劇を股にかけた重厚な知識とともにご紹介いただいた。あいちトリエンナーレ2019の芸術監督でもある津田氏からは、自身の大学時代からジャーナリスト、メディアアクティビストという肩書きに至る個人史を披露していただいた。ライゾマティクスの真鍋氏からは近作を中心に学生時代からの連続の中での関心を披露していただき、「たぶん誰も話さなくなる」という衝撃の未来像を提示してくれた。

表現の可能性を中心にして、テクノロジー、社会、美術、演劇、感覚、建築、展覧会といったトピックについて横断的に集中講義は進んだ。振れ幅の非常に大きな、怒涛のインプットである。受講生各位には、大いに期待したい。9/22に、どのようなアプトプットが生まれるか、楽しみである。

夏のアカデミーのメンバー (撮影:山城大督)

一方で、この5日間で、あいちトリエンナーレ2019の本体にも密に触れる機会があった。

まず、前回のキュレーターを務めた服部さんにお誘いいただき、あいちトリエンナーレ2019のオーディエンスミーティングなるものに参加。参加作家やこれまでのスタッフの面々が参加し、今回の騒動とこれからについて議論。僕はそこまで内部の状況や作家のスタンスを知らないから想像力を全開にして言えることを言ったけど、なかなかシリアスな空間で難しかった。アーティストランスペース”サナトリウム”を立ち上げた作家の方々の声やキュレーターの方の声を直接聞くことができ、収穫もあった。震災後の何かやらなきゃいけないけど何をしたらいいのだろうという切実さに似た空気感が流れていた。センシティブにならざるを得ない話題ばかりだから、正しさを素朴にぶつける場ではなかった。作家はそれぞれ反応を示したり示さなかったりしていきながら、会期の終わりが迫っていることで、焦りのような空気もあった。“サナトリウム”も然りで、あの切り返しは作家の反応として見事というほかない。本体とは自立したスペースのようなので、会期終了にピントを合わせなくてもいいのかなと感じた。トリエンナーレの会期は終わるけど、そこで生まれた関係性は続けられる。そのきっかけとして今回のミーティングは機能する、ということでとりあえずはいいのかなという印象で、まとまった声明文を書くのとは違う、場所作りがメッセージとなる取り組みとして、サナトリウムに期待したい。

しかしあれだけ緊迫したシリアスな隣接領域のミーティングで、何か意見を述べること自体、ともすれば見当違いな発言になりかねないリスクもあったので(正しさの乱立による、どの角度からも誰かを傷つけてしまう可能性があるという不安)、発言はかなり慎重になったし、度胸が必要だった。。何も発言できなくなってしまう空気になりかけていることや、タブーみたいなトピックがあるような錯覚に陥ることはとても怖い。今回の件に限らず、何らかの理由で萎縮してしまうことに対しては自覚的でいたい。イデオロギーの正しさや、知識の有無、文脈の差に関係なく、萎縮に対して自覚的でいることは僕にもできることだと思う。

その翌日は”サナトリウム”を訪れ、そのまま発起人の一人の加藤翼さんを囲んで少し飲んだ。サナトリウム=療養所は、療養される人と、療養する人がいる。療養される人を療養するコストは半端ない。そうすると療養する人を療養する必要があって、構造的にはサナトリウムのサナトリウムが必要になる。

悩みを聞く、解きほぐす、愚痴を聞く、そのコストに対する想像力も自分は持ち合わせていないし、電凸の受話器の受け取る側かける側に対する想像力もなかなか働かない。そうすると、そうした内情を知ってる方が偉い、苦労を知ってから発言すべきだとなり、萎縮が発生する。

あいちトリエンナーレ2019に関わっている/いないでも決定的な温度差があるし、オーディエンスにも、作家の中にもそのスタンスにはグラデーションがある。したがって、そのグラデーションへのチャンネルを用意しなければならない。でもそのすべてをケアするのは無理ゲーである。

あっちを立てればこっちが立たず、という構図が幾重にも並列していて、状況は複雑だし、繊細だ。その状況下で行動するには、考えられる限りの可能性を想像して尚、こうすべきだという再帰的な倫理が必要になる。理念が問われる。あるいは、「情の時代」というテーマに真っ向から向き合うことになる。

これほどまでに全体のテーマに真摯に向き合える展覧会の状況は非常に稀有だと言える。その意味で、「情の時代」は先鋭化しているし、並列する正義の中で自分の矛盾と向き合う契機となり、情に振り回される前提がアクチュアルに感じられるようになる。

その実感を持って、情報に振り回されることやいろんな正義があって相容れないこともあるという切実な事実を疲弊しながらも受け入れた上で、どうしたらその無理ゲーに耐えられるかという戦術が「情の時代」には必要なのではないか、というようなことを感じた。

そして、あいちトリエンナーレ2019の展示も、愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、円頓寺と三つの会場を回ることができた。上記騒動で閉鎖されている展示もあったし、展示に変更(モニカ・メイヤー@名古屋市美が変更という意味では印象的)があったが、ステートメントが貼られ閉じられた扉の前で立ち止まることも含めて、芸術と向き合う機会となった。特に、ユェン・グァンミン(@芸術文化センター)による台湾の”日常演習”をドローンで空撮した映像作品の不気味さ、毒山凡太郎(@円頓寺)による映像作品の中で(ういろうの桜も圧巻だった)台湾の日本統治を経験した老人が歌う君が代の美しさからは、自分が日本人であることと強烈に向き合わされた。展示としては、円頓寺会場が抜群によかった。モノを動かして動かされた場所の跡地をアクリルで表現した越後正志の作品や、写真作品と円頓寺の小さな歴史と解像度高く向き合わされる仕組みをつくったリョン・チーウォー+サラ・ウォンによる”円頓寺ミーティングスペース”、歴史ある商家で最小限の手数で和室を展示空間に変えた津田道子の作品など、やはりトリエンナーレは都市との呼応によってつくられるべきだと確信した。その他にもまだ未見の豊田会場、「はなす」「つくる」「もてなす」「あそぶ」「しらせる」をテーマにしたラーニングスペースが各会場でトリエンナーレを多角的にサポートし、展示以外の方法で来場者からの芸術との接点をつくる仕掛けや、音楽プログラム、映像プログラム、パフォーミングアーツといった、複合的で濃密なコンテンツが組み込まれている。

ディレクターとして参加した夏アカ(充実した学び)、運営側や参加作家との対話(シリアス)、観客として体験した展示(スペクタクル)、どれもがあいちトリエンナーレ2019に纏わる体験であるが、それぞれの温度差や空気感が決定的に違い、5日間目まぐるしく回転した自分の脳みそは、率直に言って混乱している。あいちトリエンナーレ2019のコンセプトについて芸術監督の津田氏は、

“われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の「アート」ではなかったか。”

と宣言している。「”情”報」に「感”情”」を振り回され、「”情”け」がそれを食い止められるか、という問いだ。上記した私の混乱は、全然違う環境から一度に得た「情報」に振り回された結果である。上記の引用から、私たちは情を飼いならされなければならないと読めるが、僕の実感としては少し違う。飼いならすというよりも、この混乱を耐え忍び、共有し、それでも深く事態を考察するというスキルが「情の時代」を生きる人類に必要なのではないか。その意味において、「情の時代」をダイレクトに実感できた5日間であった。


“吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。”※1

福岡からバスに揺られ2時間、熊本県小国町にある小国ドームに着いた。小国町はキレイな川が流れる山間の町で林業が盛んだったとのことで、ドームの屋根を支える5602本のトラス材は地場の間伐材を利用してつくられたそうだ。中心部を抜けて山の麓まで坂道を登り、建物の前に立つと、手前に傾いたガラスが自分を映して迎えた。見上げると自分と目が合うような角度で、また目線をずらすと杉山の緑が目に飛び込んでくる。室内に入ると、鍵を開けてくださった町の職員の方が気を利かせて電気を点けてくれたが、入った瞬間に、先導してくださった岩元さんが正面の開口と両脇の明り取り窓の空間における重要性を察知し、結局電気を消してもらった。自然光で満たされたドーム空間は、気づいたら床に寝たり、観客席に座ったり、バスケットボールを始めたりするような、居心地の良い空間だった。室内が比較的暗く、南側開口の奥の斜面の緑は明るいため、南側に身体を向けると、観客席のガラスのフェンスの垂直面や体育館の床板の水平面が、山々の緑を反射し虚像を結んでいることを視認できる。あるいは観客席に登ると、角度的に北側のロフト部分の床が今度は北側の光を反射し、緑色に鈍く輝いていた。自分を最も刺激したこの空間の特性は、光とその反射によって、鏡のような効果を纏ったツルツルとした素材感から生まれていた。ただ、鏡に映る像は虚像なので、ガラスのフェンスに近づいてそれをマジマジと見てもやはりただのガラスだし(ただのガラスだけに見せるような一連の設計者のディテールは特筆すべきであるが、ここでは多くを触れない)、床はよくある体育館の床に過ぎない。この「鏡」現象は、自分の立っている位置、反射面、映される対象の適切な関係と、自分のいる空間よりも対象が明るいという条件が揃って初めて成立する。それぞれの変数によって、成立条件は相対的に変化するということである。


自分の設計した建築の声は地球に届いているか

「環境建築」
レイナー・バンハムが「環境としての建築(英題:Rayner Banham: The architecture of the well-tempered environment)」を上梓し、空調を始めとした「建築設備」をモダニズム以降の意匠偏重の歴史観に対するカウンターとして世に送り出したたのは今から半世紀も前のことである。しかし正直に言って私は、(50年あとに建築を勉強しているのに)バンハムの批判した意匠偏重の粋をこれまでの設計活動の中で出ておらず、「環境建築」という言葉の響きからは、なんとなく風や空気の流れをシュミレートして空間を最適化する程度の印象しか持ち合わせていなかった。西方設計を特集するこの企画を考案したのは同じ委員の能作文徳さん(と吉本憲生さん)で、「設計者は必ず見たほうがいい」という強い声に押されて秋田行きを決めた。秋田から帰ると、大学院で環境工学を学んだ事務所のスタッフに聴竹居について聞いたり、新案の設計の際に方角と太陽光の入り方を少しは気にするようになったりと、今回の訪問は環境工学として建築を考えることへの入口となった。同時に、「人新世」の地球に、自分の建築の声は届き得るかという、途方もない問いをその出口に据えることも実感を持ってできるようになったと感じている。そしてその問いは、意匠からも、建築史からも、構造力学からも、都市計画からも、まちづくりからも、縦割りになってきた建築に纏わるすべての分野の出口に共通して据えられ得るのではないかと私は考えている。

西方設計について
西方設計は、秋田県能代市の市街地から南へ車で20分ほど走ったのどかな場所にアトリエを構えている。代表の西方里見は住宅から公共建築まで、その仕事のスケールや用途には広がりがありながら、貫通する理念と理論を持ち合わせた建築家で、住宅は社会資本であるという北欧での学びを実践すべく、高気密高断熱を土台として、環境負荷の少ない建築を目指している。今回の訪問では、西方設計のアトリエ(事務所)を中心に、自邸でもある近作「Q1.0住宅モデル能代事務所」と「能代市立第四小学校」(設計:木協同組合)、と、3つを巡った。

おおらかな空間
アトリエの建築空間には独特のおおらかさがあった。仕上げも構造も特に変わったことはしていないように見えたものの、外は雪がちらついていたのに暖かく、室内に多くの植物が繁茂していることがまず不思議に感じられた。西方の話を聞きながら、芝置屋根が乗っかっていて、南面にはメカニカルなルーバー、床下には空間がありFFストーブが可動している、というようなこの建築の特徴を改めて確認したが、基本的には「変わったことはしていないこと」が印象として浮かび上がってきた。衒いがないといえばそれまでかもしれないが、建築についての経験と信頼が生み出す、実務を始めて10年以内の若手には絶対につくれない空間性のように思えた。
西方建築の特徴は、下記に要約できる。
・外周以外立ち上がりのない布基礎による一体空間の床下に暖房設備を設置(空気の流れの効率化)
・南面に庭を取り、庭に面した高透化三層複層ガラスの開口を大きく穿ち、外ルーバーを設置(蓄熱のコントロール)
・高性能グラスウールの厚い断熱層の壁と屋根(高気密高断熱)
言葉にすると出来そうなメソッドに聞こえるのだが、これを成立させるディテールやコスト感覚は西方の経験あってこそだということもまた事実である。例えば、大きな開口と断熱性能を両立するためのドイツ製サッシはバー材で輸入し、地元で組み立て、金属部分の断熱性能が低いことを補うため外断熱にしてカバーしたり、あるいは床下空間を一体化する基礎は構造計算の上で成立させているという。

生ける物としての建築
西方のおおらかな眼差しは、人間だけでなく、植物や動物にも向けられる。冬眠しそこねた越冬カエルを事務所に招き入れた話や、芝屋根に生えた水仙や芽を出し始めた庭のフキノトウや福寿草ともまさに共生しているような態度で日常から自然と向き合っていた。
芝置屋根にはハシゴで登らせてもらった。3m以上上まで、直線上の脚立で登るのは物怖じしたのだが、西方はヒョイッと登ってきた。屋根の上から見下ろすと大地と屋根の境界が消え、地面に立っているとき以上に地球の背中に乗っているような感覚になった。西方にとっては、植物や動物と同じように、建築も、自然の中に、地球の上に生きとし生ける物なのであろう。そのおおらかな理念が建築の空間性にも明らかに影響を与えているように思えた。優しい建築だった。

秋田に叩き上げられた設計手腕
このような西方の設計手法は、秋田によって叩き上げられたと西方も自負している。「北欧によく似ている」という北海道・室蘭工業大学での環境工学の出会いと東京での実務を経て、秋田に帰った西方は、盛岡から奥羽山脈を超えると屋根が鋼板の塗装になるという秋田特有の建築の簡素さを失わないままに、建築を社会資本へ押し上げようと30年のあいだ試行錯誤を繰り返してきた。外壁の杉板は赤みを使うことで耐候性を上げ、最新作の自邸「Q1.0住宅モデル能代事務所」では横張りからすのこ状の縦張りとすることで木口が側面に顔を除くリスクをなくし、出隅の納まりもよりシンプルにしている。輸入サッシと外ルーバーの日本建築へのインストールは外断熱とスッキリとした枠の見切りによって実現される。こうした設計は、構造、環境、意匠、経済性がどれも密接に結びつきながら秋田の地で結実している。

田沢湖の群青
帰りに、能代から南東に位置する田沢湖に立ち寄った。田沢湖は、国内有数の透明度と深さを誇る美しい湖だが、調べてみると戦時の食糧不足から近くを流れる酸性の玉川を中性化し農業用水に活用するために、一旦この川の水を田沢湖に流し、希釈して川に戻すという土木工事の結果、クニマスを代表する生物が死滅し、中性化を試みている現在でも生物の姿は見えないままとなっているという衝撃の事実がわかった。自分は、ここまで美しい湖の姿を変えてしまう当時の人間の切迫した判断を想像し、虚無感に襲われた。しかし、能代の西方の建築を思い返すと、虚無に終わらず、人間の都合に振り回されてきた自然を蔑むことなく、その眼差しはあくまで優しく、田沢湖の群青と確かに連続しているように感じられた。眼の前の自分の建築的な行い、その声が、どの射程で地球に届いているのか、これを実感、実践できる建築家はそう多くはないはずだ。


来るべき言葉のために

宮城島崇人の建築

知人である札幌の建築家、宮城島崇人くんを訪れ、彼の作品と事務所を案内してもらった。彼は東工大の塚本研究室を修了後、マドリード工科大学を経て、故郷の北海道(出身は釧路、今の拠点は札幌)へ戻り自分の事務所を立ち上げた。海外を経て地元で独立するその境遇は少し自分とも重なる。新千歳空港から日高の現場、札幌まで、彼の車で始終話しっぱなしで、話せば話すほど信頼と共感が強くなった。

日高のプロジェクト”パドックの家”は、競走馬を育てるための牧場の一角にある事務所兼住居の設計だが、それだけではなく、牧場全体の全体計画を同時並行して進めていたり、敷地内にある、住み込みで働く牧夫のための住居のリノベーションもすでに竣工していた。


都市と私達を鼓舞する建築

“この場所に潜在している空間性を獲得したい”小嶋一浩※1

小嶋一浩氏については、YGSAのシンポジウムでご一緒させていただいたときに、私が浜松での取り組みの影響について小さなことを長々と説明していたら、その言葉を遮るように「そんなに具体的なことばっかり言っててもしょうがない、もっと多くの人を巻き込めるような言葉を使いなさい」と勢いよく壇上で叱られたことが印象に残っている。個人の行為ではなく群としてのアクティビティを、建築ではなく都市を、小さなことではなく大きなことを目指すのだと、その時私は、彼に大変に鼓舞された。

CAtの建築を初めて訪れたのは、和歌山・白浜の南方熊楠記念館の増築であった。私は恥ずかしながらこの建築によって南方熊楠を初めて知り、彼の深淵で謎めいた魅力に取りつかれ、同時に突き出た半島の先端から眺める白浜の美しい海を眺めた。記念館は増築で、熊楠の研究対象でもある粘菌のような平面形状をしていて、そのとらえどころのないかたちと引き換えに、熊楠の魅力と、白浜の群青の海がくっきりと記憶されている。

渋谷ストリームの評判については、SNS上で特に建築関係の人のポストから伺い知っていたのだが、雑誌媒体で事前に写真を見ても、都市スケールでのプロジェクトの枠組みが非常に複雑で綿密であることと、黄色いエスカレーターが目立っているのと、ガラス張りでピーナッツ型の平面形をした「アーバンコア」がどうやら画期的らしいことと、それまで都市の裏側にあった渋谷川を表舞台に引っ張り出したこと程度しか理解できておらず、なぜここまで玄人の評価が高いのだろうかと少し不思議に思っていた。

実際に訪れて、設計者の赤松佳珠子氏にご案内していただく前に一人で渋谷ストリームとその周りを歩いた。特に印象に残ったのは、渋谷川沿いのプロムナードの手すりとそれに付随したカウンター(設計は東急設計とのことだった)、代官山方面に向かう途中に散見されたストリートファニチャー(こちらの設計も東急で土木的なマテリアルが転用された気の利いたデザインだった)、残された東横線のレール沿いに施された元々の架構位置を示すナンバリング、渋谷川に面する既存の建物群の裏側のファサード、すぐ南に建てられた新築が渋谷ストリームとものすごい馴染み方をしていた風景、まだ北側のビルと接続されておらずぽかんと空いた246号線上のかまぼこ屋根の広場、プロムナードは代官山方面に向かうまでにいくつかの道を横切るのだが直接渡ることは許されず横断歩道を利用するために少し迂回しなければならなかったこと、アーバンコアの天井に映された明治通りの交通渋滞、その前の大階段を彩る青白い照明、そして所々に展示された設計者のスケッチなどである。

そのどれもが、建築物それ自体の印象というよりも、家具や都市、行為、記憶といった、「様相」(小嶋の師匠筋にあたる原広司氏の言葉をお借りしよう)を構成する要素についての印象であり、あるいは、建築単体では抜き出せない複数の要素がセットになっての印象である。

“私自身も、設計した建物をメディアを通して記名入りで発表しているのだから、作家であろうとしていることは否定しない。しかし、それは直接空間で何かを語ろうとしているのではない。空間とそこに登場する主体とのレスポンスのありようが、何か新しい場面を展開していることが重要でありテーマとなるのだ。”※2

と小嶋も言及しているように、どうやらCAtの建築は、その建築空間が主題なのではなく、その背後にあるいは使い手との相互関係が生み出す場面がテーマになっているようなのである。建築はあくまでも、必要以上に「地」である(ように私には感じられた)。そうした、都市や外的条件を積極的に建築に引き入れようとする態度は、隈研吾の負ける建築というマジックワードや、アトリエ・ワンのハウスアンドアトリエ・ワンの二階のリビングスペースから見る隣家の外壁といった具体例からも見てとれるように、特に2000年代以降の日本の建築界に、空気のように充満していると言っていい。その空気感を都市スケールの高層建築で、しかも東京・渋谷のど真ん中で実現させたという、マジョリティに対しても誇れる影響力に、きっと建築関係者は鼓舞され、肯定的に反応したのではないかと私はみている。

しかし、根本的には、建築空間が主題でなければ写真でその価値を捕まえるのも難しいわけで、実際に訪れてみて初めて分かる類の情報がプロジェクトの肝になっている場合、作品として評価するのは、既存の評価軸では難しい。小嶋自身も、

“建築はモダンアートの抽象性だけでは成立しないし、するわけもない。そうしたものを古く感じさせるような、新しいいきいきとした空間を生み出したいものである。”※3

と自らはっきりとその評価について言及しているように、CAtの作品は、何が作品なのかを私達に問う。もちろん、地下鉄の位置から高層ビルの床までを含んだ断面図の寸法感覚や、少しだけ角度を振られたエスカレーターに見られるような平面図上の丁寧な操作、歩道橋のEV前から飛び出した川を望むための舞台を設定する空間的な気配り、そして全体を統合する力強いビジョンといった、建築家を建築家たらしめる専門的な知性がふんだんに詰め込まれた上での投げかけだからこそ、作品とは何かというこの問が私達の眼前に生き生きと立ちはだかることは言うまでもない。しかしそれ以上に、その建築を取り巻く様々な要素がCAtの建築によって「図」として立ち現れるのだ。渋谷ストリームについて言えば、渋谷川が、渋谷川に面するビルの裏側のファサードが、新たに計画された渋谷全体の交通計画が、元々あった東急東横線の記憶が、そこに流れる人々の軌跡が、上に積まれるgoogleのオフィスが、そして何より渋谷そのものが、確かに実感される。渋谷ストリームは、そうした背景にある要素を魅力として肯定し、はっきりと鼓舞する。周囲のコンテクストを引き受け、建築の形に表すという文脈主義に留まらず、建築によってその周囲を鼓舞する、あるいはその建築があることによってその周囲をより積極的に肯定することができるような、大きさと広がりを持っている。建築空間の評価は難しいし、設計者としても、いつもどこにゴールを設定したらいいかわからないが、そういう大きさは目指したいと私も思う。その建築が存在することによって、そこに関わった人々や、周囲にある都市や、置かれる家具たちが、より生き生きと読めるような建築は、多くの建築家によって目指されるべきだというのは私にとってかなり確かなことだ。なぜならそうした建築の存在は、人々の都市へのプライドにつながるし、そのプライドが私達の生きる歓びを育てるからである。そしてその時に建築家が誇るべきは、それを達成した建築ではなく、その建築が作り出した背景である方が、かっこいい。

最後に、このテキストは小嶋一浩と渋谷ストリームに焦点をあてたのだが、その「対象」ではなく、亡き小嶋一浩の隣に居続ける赤松さんのこれからを鼓舞するものであってほしいと、大変僭越ながら強く願っている。

※1”GA JAPAN113” P31より抜粋
※2※3”アクティビティを設計せよ”「アクティビティと空間」より抜粋


壁と卵とねもはと僕

2010年 12月 27日

「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
※1 作家・村上春樹は、資本主義社会に代表されるどうしようもなく不可避で強大なシステムへのアンチテーゼを示すポーズとして、彼は常に弱者、マイノリティ、個人、反権力の側に立つんだ、とエルサレム賞授賞式という公の場で、宣言した。

村上の言葉を借りるのは少々大げさかもしれないが、相対性を示すために使わせていただくと、「卵」の中の「卵」とも言える、ささやかな書籍がこの冬刊行されたことを伝えるべく今私はキーボードを叩いてみる。村上の言う「卵」、という意味と質をこの本を引き合いにして明らかにしてみよう。ということでも僕のキーボードを叩くモチベーションは保たれている。

この書籍の名は、「建築同人誌ねもは」

編集したのは、横国時代の同級生でもある東北大学五十嵐研究室所属・市川紘司を中心にした東北大学の有志学生である。 建築同人誌というだけあって、その内容には建築の専門的な言説が収められている。 特集「絶版☆ブックガイド40」では、電子書籍化元年を迎えた2010年の時点で絶版になった建築の専門書籍を取り扱い、1980年代生まれの若い世代の書き手がそれらの書評を記し、膨大な文字情報とともに絶版本を現在に召喚した。電子書籍化が進めば、絶版というその存在自体が消えるであろう。ちなみに私も「日本列島の将来像」(丹下健三)の書評を僭越ながら記し、今回の特集に参加しているし、市川くんの軌跡にも共感している。

彼とは友人として過ごした期間は長いし、今回僕はこの本の特集に参加しているのだからそもそも客観的な書評が成立するかどうかはなはだ疑わしいが、どう頑張ったって彼を知っている僕が書ける文章しか僕には書けない。書きたくなっているから書いているだけ。

話はそれたが、書評に戻ろう。この特集に加えて、エッセイ3集、大室佑介氏による「同世代の橋 ─ U-30展覧会について ─」、斧澤未知子氏による「私の考えによると(現象とその表面、都市)」、加茂井新蔵氏による「疑似建築試論2 キャラ化する建築/家」がそれぞれ同人誌という枠組みを有に超える質を担保した文章が展開されている。 若い世代の書き手を初めて可視化させたことの価値や、その新世代による絶版本レビューという企画自体の強度、エッセイの固有性などが一般的な評価だろう。概ねいい感じだと思う。

さて、この本を読んでみて素直に僕が気づいたことを言えば、なんだか、みんな言葉や言い回しが難しいってことだ。同世代とは思えない語彙と文章力が詰まっていて、変に学生っぽくない感じが読み進めていく途中で気にかかっていた。 僕個人としては、専門性を纏った難しい言葉で難解に見せるよりも、平易ですぐに届き得る文章に実感を持つので、この難しい感じは僕とある程度文章力も知識量も同じくらいであろう同世代が書いた、という事実に上塗りされる形で違和感に変わっていったのであろう。少なくとも、論客ばかりがひとまずメタ言説を披露すると分かっている10+1だったらこんな違和感はなく、難しさをひたすら受け入れていたのだろうなと思っていた矢先、市川くんが建築系ラジオで、「10+1や建築文化の難しいメディア休刊によって失われた若い世代の文章を書くチャンスを与えたい」という説明していて、勝手に、少しの共感とその共感よりも量が多いであろう申し訳なさを感じた。 いずれにせよ、難しいことに代表される消費への対抗に、僕は違和感がある。 しかし、このような違和感は、一通り熟読してみて、紙面に散りばめられた(散りばめさせられた)編者の意図が自分の中で一本にまとめられた時に消えた。 僕が時間をかけて実感した市川くんのまずもって伝えたかった意図というのはつまるところ、 「今考えられ得る『卵』の側を、ひたすら突き詰めて提示する」 ということに尽きる。

ところで意図を伝える時には、

  • 専門性を纏った難しい言葉で難解に見せる→読者に時間をかけた解釈を要求
  • 平易ですぐに届き得る文章→読者に解釈の時間をかけさせず、直接的な解釈を提供

という大枠して二種類の方法があるように思うのだが、この二者の比較で言うと「卵」は難しい方で、「壁」は平易な方だろうと思う。何故ならば、現在において圧倒的な「壁」である資本主義システムが要求するのは、流行しやすい薄っぺらい中身のない商品で、その商品たりうるのは難しい言葉よりも平易な方だから。だって時間かかって面倒でしょ?難しい本読むのはさ。(多分、文章と建築というのは似ていて、建築も消費されては困るということを暗に(あるいは明らかに)言いたいのだろうな、市川くんは。と思う。ことは自明かもしれなけれど言葉にしておく。)

だから、(「卵」側を擁護するだろう)市川くんが選択肢したのは後者の伝え方で、専門性を担保しよう、意図を時間をかけて伝えようとしたのではないだろうか。難しい文章、編集チームである菊池氏と加藤氏の書評にひっそり忍ばされた「ねもは」への自己言及、市川くん自身の書評担当書籍のスタンスが徹底的に卵側であること、絶版というそれ自体卵的性質(売れなかった)を持ったものを取り上げること、同人誌という卵的弱小媒体、わかりやすい絵やビジュアルイメージと比較すると消費されにくい文字データを中心にした紙面構成、など随所に散りばめられた「卵」的なるものへの擁護を実感すればするほど、「難しいこと」への違和感は消えていく。

おっと、僕はそもそも難しい文章の価値を実感出来なかったから、今もこうしてある程度平易な文章を書いているのである。 難しい文章の価値、時間をかけて実感出来たじゃん→僕はこの本によって、難しい言葉と優しい言葉を相対化可能になった。という事実としての結果をこの本は私に提供してくれたと言えよう。

でもそれは僕が優しい文章を今ままで書き続けてきたから実感できた相対化であって、そういう相対化が既に済んでいる人や、難しい文章の価値を実感してきた人にとっては、この相対化は起こっていないはずだ。差異がなければ、あるいは差異を認識出来なければ、情報や情感の交通は起きない。

今この分脈で僕が何を示したいのかということを説明してみる。

村上春樹はエルサレム賞、という権威(ある意味では「壁」)に擁護された状態で「卵」を擁護するという転倒したスタンスを示したからこそ、この卵は救われたのである。「壁」と「卵」は表裏一体でこそ、現在に存在することができる。「壁」と「卵」はその差異を認識させなければ「壁」にも「卵」にも成り得ない。

翻って、極端に卵的なものを突き詰めた結果である「ねもは」はどうだろう?あるいは、「ねもは」が抱える壁的なものとはなんだろう。

言わずもがな、市川くんの師にあたる五十嵐太郎氏だろうと僕は認識している。

もし、現代に置ける建築言説の潮流を引き起こしている「五十嵐太郎」の名前がなかったら(いや、ないアピールはしているだろうけどさ)この卵的なものは現在に落ちては来なくて、誰にも知られずに割れて壁にちょっとしたシミを残すに留まっていただろう(僕達にはインターネットという卵側には心強い武器があるのにも関わらずこの予想に対する個人的な確からしさは結構ある)。例えば先日twitterで簡単な議論がなされ「ねもは」が注目されたきっかけは五十嵐氏が企画に携わる建築系ラジオで取り上げられたことがきっかけだったし、編集後記にも「五十嵐太郎」の名前はひとまず召喚されている。

そこまで踏んで、この「ねもは」は大変に周到に刊行されたのだと思う。この凄まじい計画性を僕は認めるし賞賛したい。

だからこそ、求められるのは、継続していくということの先に、(「卵」的なものの方向性を突き詰めると同時に)「壁」的なものの方向性も突き詰めるということだと、私は思う。

いかに権力を担うか、いかに消費を逃れるか、その両極を連続した形で同時的にデザインする必要があるだろう。マニフェストを掲げずに唐突に文面が始まったとして、彼の擁護する先が「卵」であればあるほど、市川くんは「壁」に倚りかからなければならない。既得権益とうまく付き合っていかなければならない。これは、この厚く高く囲われた壁を認識することや、その壁の一部に自分が吸収されることを実感することは、「卵」的な価値観を示したい人間にとってはものすごくストレスのいる行為である。

哲学者の西田幾多郎は「世界は客観的には、全体的一と個物的多との矛盾の自己同一」と言っている。というかそもそも空間や時間を現在に引き寄せるのであれば、一つの環境が支える「卵」と「壁」の差異は大きければ大きいほど良くて、極限まで差異が広がると西田の言う「絶対矛盾的自己同一性」が達成される。 だから、市川くんが何かを恐れる必要は、全くない。

※1村上春樹エルサレム賞スピーチ全文 http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

by tsujitakuma | 2010–12–27 11:31 | book

Originally published at deline.exblog.jp.


ローカルダイアローグ|建築学✕法学

2011年 06月 10日

ローカルダイアローグ二回目は同じく浜松北高校で同級生だった伊藤君と行いました。 法律と都市空間を軸に、「オルタナティブ」について考える機会となりました。 伊藤くんどうも有難う。

[辻→伊藤①](2011年6月2日)
前回の堀内くんと同様、伊藤くんも高校の同級生です。先ごろ司法試験を終えたばかりだそうですが、まず身近なところから、私たちの故郷・浜松についてどのような印象を持っていますか。僕は昨年から浜松で活動していますが、伊藤くんは年に数回程度ですね。東京や他の都市との差異を客観的に把握できているかと思います。

[伊藤→辻①](2011年6月2日)
「私たちの故郷・浜松」について、「どのような印象」をもっているか。 僕は、学部時代は政治学科におり、政治学や政治理論を学 …

Takuma Tsuji

403architecture [dajiba] / 辻琢磨建築企画事務所

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