この度、令和2年度4月1日より名古屋造形大学地域社会圏領域の特任講師に着任することになりました。下記は志望時に執筆したテキストです。

地域社会圏に対する抱負

私は、大学院在籍時に山本理顕学長(2009–10年当時横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA校長)が提唱する地域社会圏をテーマにした設計スタジオを履修し、その理念を学んだ。経済と資本を優先させた近代以降の社会の枠組みが、法、倫理、空間、教育、労働を規定し、それらが社会の近代性をさらに補強する、そしてその仕組が人口減少社会に突入した日本においては瓦解し始めているという前提のもと、どのような地域社会を描くかを建築空間の側から提案するという、大変野心的な課題であった。この時私が山本から学んだことは、建築の作り方ではなく、建築家としての、あるいは現代人として生きるための理念である。建築は、その敷地の中のためだけに、施主の利益のためだけに作られてはならず、より広範な社会に利するものでなくてはならない。私達は、一人では生きることができない。誰かを頼って、頼られ、様々な因果のネットワークに身を委ねて初めて生きていける。その根本的な事実が、現代社会を生きていると簡単に忘れられてしまう。一人で生きていけるという錯覚に陥る。その錯覚が「個」の概念を補強し、その「個」に紐付けられた様々な商品が売れる。それが現代の資本主義社会の根本であるということ、その社会の底が抜け始め、新しい社会観を建築空間と一緒に提示すること、その時我々が拠って立つ基盤は地域社会でありコミュニティであるということ。それが地域社会圏のモチベーションであり、私が山本から学んだことだ。私は、その学びを独立した2011年以降、浜松で実践している。地域社会圏というまとまった敷地と建築空間を設計しているわけではなく、今ある地域社会に入り込み、その仲間に入れてもらって、いくつかの建築的なお手伝いをさせてもらっているのが現状である。その建築的実践は非常に小さくささやかなものであるが、その実践を通して書き換えられたネットワークによって、私はコミュニティの概念を実感した。持ちつ持たれつという関係が何故自分たちに利するのか、その時他者への眼差しはどう変化するか、そしてその関係の空間化はどのようなプロセスによって可能になるのか、そのような地域社会圏の核心となるであろう想像力の感触を、私よりも一回り若い学生たちとともに研究していきたいと考えている。

領域に対する抱負

名古屋造形大学の5つのラーニングセクターの分類法は、学部ではなく領域である。従来の学部学科体系で分かつのでなく、横文字にも頼ることなく、日本語で新しい名の冠された5つの「領域」が設定されている。この意図は明快である。近代化の過程で構築された分厚い部門・科目という壁を一旦取り外し、より日本的な領域という空間概念によって大学を再構成しようということであると認識できる。領域は、部門・科目よりも境が曖昧で、例えば日本家屋の道・庭・庇・縁側・居間・寝室というグラデーションがあるように、緩やかな境界を持っているから、前述した大学を再構成するというミッションは、このような相互に浸透可能な領域性でもって達成されようとしていることがわかる。つまり、各領域は相互に連携し、知の創発を生みだせる。その持続的な知の創発の仕組みが他大学に対する優位性となる。私は、名古屋造形大学の新たな編成をそのように理解した上で、その各領域の横断を積極的に試みたいと考えている。自分にとってもその横断から学べることは多分にあると推測できるし、浜松という地域をフィールドに活動していると、そもそも学部学科の体系的な棲み分けよりも、領域的な曖昧な棲み分けでもって社会が構成されていることが実感でき、そこに育てられた自分は、異なる分野・部門・領域を横断する能力を有していると認識しているからである。

名古屋造形大学の社会的価値に対する抱負

名古屋は地政学的に関東と関西の中間に位置し、東海道ベルトを支える工業都市の親玉のような都市である。私が拠点を構える浜松は隣の静岡県に位置するが、歴史的にも産業的にも、文化圏としては名古屋に近く、肌感覚は理解できる。近年はあいちトリエンナーレに代表されるように、工業都市群から文化都市群への転換を図っているように見え、文化・芸術に対する野心を都市そのものから感じる。大学機関についても、名古屋造形大学以外に複数の芸術大学があり、建築を学ぶことができる大学も多いのは、名古屋が持つ一つの特徴といえる。その中でも名古屋造形大学は、建築家・山本理顕氏を学長に迎え、キャンパスを都市部に移転することを決定し、学部編成を組み換え、その体制を大きく変えようとしており、名古屋の芸術文化を新たな変革とともに先導する立場にあると言え、ひいては経済成長が支えてきた日本の都市が、21–22世紀の戦略を立てようとする時に、文化芸術を中心とした新しいモデルとして参考にできるような可能性を秘めている。ここで言う文化芸術の社会的価値とは、見た目のデザインや美しさを整備するということではなく、分断が叫ばれるこの時代に、人がどう自己を表現し他者の表現を受け入れ、誰とどこでどのように生きていくかという哲学的な問いの先にある、人間の生き方に直結するものである。その先に、私達のコミュニティは、街は、都市は、国は、世界はどうあるべきか、という理念がある。その理念は名古屋造形大学の「同朋和敬」そのものである。表現の素晴らしさは、他者の概念の創出にあり、教育の素晴らしさは、その作法の同時代的な共有にあり、大学の素晴らしさは、その研究の蓄積によって可能となる過去と未来との対話にある。私は、文化芸術と都市を結びつける野心的な取り組みとして名古屋造形大学の変革を捉えており、その只中に身を置くことで、私が学べるだろうこと、私が伝えられるであろうことに大変期待している。


[202002特集:建築批評《チャウドックの家》―東南アジア浸水域の建築 -近代化の境界線上からの視座- ]REVIEW : Rough abstract

インターネットとの差

人生初のアジアはヴェトナムだった。目的は、西澤俊理さんが主宰するNISHIZAWAARCHITECTS設計の《チャウドックの家》を訪れること。建築討論(建築作品小委員会担当)の取材である。

日本でインターネットのブラウザ越しに《チャウドックの家》を見て勝手に想像していたのは、眺めの良い川沿いに建ち、施主は比較的裕福な贅沢な家なのだろうということだった。写真の印象は〈焦げ茶+細い木造+あふれる植栽=さながらアジアンリゾート〉のように見え、まさかホーチミンから車で7時間かけたカンボジアとの国境付近に位置し、すぐ裏に墓地に埋め込まれたスラムがあり、地下空間がスラムの住人の通り道としても機能しているとは全く想像していなかった。

何よりもこの地下空間は、画面越しには絶対に伝わらない種類の光の暗さと気積の大きさを持っていて、スロープを降りた瞬間に感じた、(ヴェトナムの木造というよりも)洞窟のような荘厳さは今も記憶に焼き付いている。

エントランスから地下空間と吹き抜け、スキップフロアを臨む(photo©大木宏之)

チャウドックの家の構成

《チャウドックの家》は三世帯が暮らすコレクティブハウスで、道路側からアプローチすると、地下に降るスロープと上階に登るゆるい階段がエントランスとして機能している。グリッドシステムの平面構成は梁間7,000mm(2,350–2,300–2,350の3スパン)桁行24,500mm(1,750mmの14スパン)で、3×14=42マスのグリッドから成り立っている。FLは概ね、地下からGL+0mm(洪水対策のため道路を堤防化したチャウドックは道路側と裏手で2mの段差がある)、2,000mm、3,500mm、6,000mmの4種類、そこに立体的にヴォイドとフロアが当てられていく(間仕切り建具はあるが壁はほぼない)。

形式としてはスキップフロアで、地下から屋根までの約9mの吹き抜けを象徴にして各所に吹き抜けが配され開放的な空間となっており、その地下の吹き抜け上部の屋根にはトップライトが設けられている。

一つの特徴でもある縦軸回転と横軸回転の二種類で構成される建具は外装材と同じトタンの波板で、ガラスは嵌めておらず、開けたら風と光と音が入り込み、閉めれば外界とは遮断されるがほぼ開けっ放しだという。

立体グリッドシステムが具体化する仕口は相欠き(詳細は特集・金田泰裕さんの論考を参考にされたい。)で現地の精度は高くなくばらつきがあるものの、素材そのもののラフさがあるので特に気にならない。

隣地との界壁に当たる両側の壁は真壁で化粧で竹網テクスチャーの現場内プレキャストコンクリートが嵌め込まれ、基礎に当たるコンクリートは2層目に当たる3,500mmの高さまで柱としても立ち上がり、それを基壇として木造のグリッドが載っている。

低層の周辺の建物群と馴染ませるために屋根は三つの高さのバタフライルーフ(真ん中が最も背が高く、角度はそれぞれ同じ)が組み合わさって、その間から採光と換気を取る工夫がある。

冒頭に記したがこの建築のハイライトは、道路側から入って地下へのスロープを下り、9m上から降り注ぐ光と軽ろやかな木造の架構を浴びる瞬間だ。現地の技術と素材を駆使して作られたとは思えない空間のクオリティだった。幅7–8mの道路はひっきりなしに車とバイクと屋台と人が通り、すぐ裏手は墓地群と違法スラムが混在するエリアで、あの吹き抜けの荘厳さに比較すると全く違う世界が隣り合っていた。しかし建築がその周囲に対して閉じているかというとそうではなく、建具はほぼオープンになっているので音や光や景色は入ってくるし、スラムの住人の通り道にすらなっているのだという。訪れた時は住人が地下のリビングでサッカー観戦をしていると思ったら近所の人だったそうだ。

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裏手の違法住居群を臨む(photo©大木宏之)

《チャウドックの家》は概ね上記のような建築である。

コントロールできないという前提

設計した西澤さんに話を聞くと、事務所のあるホーチミンから陸路で7時間の辺境、現地の大工は日雇いという設計環境と施工体制だったため、コントロールしきれない部分をどう乗り越えるかが一つの主題だったとのこと。

チャウドックを訪れる前にサイゴンで見た西澤さんの建築はどれもほとんど外で、風や虫や音がどんどん入り込み、建築する行為が日本人より生活に近いヴェトナム人にガンガン改変され、植物はぐんぐん育つ、大変開放的な印象だった。同時に建築に入ってくるそのどれもが自分の設計意図とは別にコントロールしきれない他者であった。そういう想定外を受け入れても尚、どの建築も紛れもなく建築であった。

特に日本だと、建築家がつくった建築のピンピンな納まりのガラス面にラミネートのチラシが貼られたりすると概ね空間が台なしになることが多いが、西澤さんの建築はそういう乱暴な他者も許容するだろうと思わされる。精度やコントロールによらない抽象が明らかに存在していた。

この効果は、具体的に紐解くと、地域の技術と素材とヴォリュームと気候を設計者が設計行為によって組み直すことで発露している。

また、このラフな抽象が、地下空間の荘厳さに結びついて利用者を満足させ、道路と裏側のスラムとの世界感の断絶を助長し、また一方でアジアンリゾートとしてのメディアイメージに昇華されインターネット上で拡散され、日本のアカデミアにも届き、また施主はチャウドック2つ目のプロジェクトとして実家の改修を西澤に依頼し、そのプロジェクトに滋賀県立大学芦澤+川井研究室が協同することになり、その後川井さんの強い推薦によってこの企画が立ち上がり、我々がチャウドックという辺境にドライバー付きのレンタカーで往復14時間をかけて訪問することに結びついた。多様な他者を引き入れその世界観をそれぞれにドライヴさせることで様々な主体や要素や世界を刺激し、最終的には日本人の私がチャウドックというヴェトナムの辺境に行くという途方もない現実を、一つの現実としてこの世界に存在させた。

活力に満ちたヴェトナムで建築を考える

《チャウドックの家》から私が感じたこのラフさの結実には、明らかにヴェトナムという地勢とメンタリティが強く影響している。特に今回訪れた南ヴェトナムは19世紀のフランスの植民地時代から第二次世界大戦での日仏二重支配、あのヴェトナム戦争でのアメリカ援助を経て、サイゴンからホーチミンへ都市の名が変わり社会主義国となった。わずか半世紀前のことである。

ヨーロッパの下地とアジアの環境がそもそも混在する中でドイモイによって外部資本が流入し、ホーチミンでは一気に高層ビルが立ち並び、その足元ではエネルギーに満ち溢れたマーケットやHONDAのバイクの群れ、iPhoneアプリで呼び寄せるタクシーが街の道路を埋め尽くす。チャウドックのスラムではiPadで子供たちはゲームを楽しみながら、観光客に金をせがむ。エアコンが普及する過程にあるものの、ほとんどの家は常に外みたいなもので風や雨が抜け、人々は外でご飯を食べることをやめない。

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サイゴンの路上マーケット(撮影筆者)

スラムの調査をしていて、赤の他人である我々が家や店に入ってきても特に気にしないし、道程途中に寄ったサービスエリアはとにかくでかい屋根があればあとは好きに使ってくれというラフさがあった。街全体が工事現場で花火大会を開いているような活気に満ち溢れていた。今後、資本主義の流入による近代化に歯止めはかからないだろうが、このヴェトナム人のラフさというか、様々な世界を適当に受け入れる活力はその高層ビルの足元から決して消えないだろう。

迫られる「建築」の修正

この圧倒的に活発な環境下で「建築」というアカデミアによって脈々と確立されてきた固い概念を実践するには、その概念自体を柔らかく修正せねばならない。“建築家なしの建築”を引っ張り出すまでもなく、ヴェトナムの都市の方が学んできた建築よりも(少なくとも私にとっては)大差をつけて面白いからだ。西澤さんはその修正の真っ只中にいて、私たちに多くのことを教えてくれる。コントロールできることを前提にしてきた近代的思考と計画学ではこの環境には太刀打ちできないのだろうし、コントロールできるという前提があることによって想定外の可能性は消極的なものに捉えられていく。それはそのまま近代の限界でもある。

コントロールしようと職人や施主に怒るのではなく、コントロールできないことを理知に任せて予め想定するのでもなく、コントロールできないこと自体を良しとするのだ。

その倫理を可能にする強度を持ったラフさによって暫定的に立ち上がった建築は、空間としてもメディウムとしても生活の場としても想像を超えたドライヴを起こし、そうして確立され(てしまっ)た異なる世界観を行き来する乱暴な他者を優しく許すのである。


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海側から尾道駅を臨む(撮影:筆者)

尾道を歩く
早秋のお昼前、JR山陽本線で福山から20分ほど西へ向かう。進行方向左側の窓には南中に差し掛かる太陽に照らされる海が、右手には斜面地が迫り、瀬戸内の海と空と山はなんて暖かく美しいのだと感慨に浸っていると、この作品レビューの目的地である「尾道駅」に到着した。電車を降り改札を抜けると、右手に待合スペース、左手に「おのまる商店」という地元のお土産屋さんが目に飛び込んでくる。その間のコンコースを進み庇をくぐって外に出ると、先程まで車窓から眺めていた瀬戸内の海が造船所のドックや向島を背景にして目の前にバンっと広がった。駅から海岸までの間には車道と広場(法的には道路)があって、その先の海沿いにベンチが見えたのでともかくそこまで歩く。少し汗をかきながらたどり着き、柵を背にしてベンチに腰掛け、振り返る格好になった。そうして初めて尾道駅の全貌を眺められたのだが、ほぼ屋根しか見えない。まるで寺社建築のようだなと思うと同時に、なんと自然に、幾分の抵抗もなく波音が聞こえるくらい海の近くまで来たのだろうと驚いた。電車を降りてから時間的には10分ほど経ったのだと思うが、あまりに経験が連続的過ぎて尾道駅を通り過ぎたことを振り返るまで忘れていた。

集合時間まで少し余裕があったので尾道の旧市街を散策しつつ、最近竣工したLOGへ足を伸ばした。途中、常光寺というお寺を訪れ、その斜面に張り付く大屋根を見た時にさきほど観たばかりの駅舎の屋根が想起された。旧市街の南北の道はきつい階段坂、東西に伸びる道はゆるい坂、途中で寺や神社があると一気に開ける平場、その豊かな組み合わせを何回か繰り返してLOGに着いた。ビジョイ・ジェイン率いるスタジオ・ムンバイが設計したLOGは、築50年を超える集合住宅を大幅に減築・外部化しホテル・レストラン・カフェに改修した複合リゾート施設で、地元の土を混ぜた塗料でいくつかの淡い色が空間の調子をコントロールしていた。換気扇や空調機器まで、同系色で塗装されていてその塗装の徹底ぶりに舌を巻き、平面計画としても内部空間を最小化(例えばレストランやカフェは既存の柱間がつくる1グリッド内に納められることで16席程度しか確保できていなかった)することで、地方都市でこそ成立するゆったりとした時間というコンセプトを体現しているようにみえた。例えばランチの価格にしても都内と同等で、それは確かに建築家によってもたらされた効果であるように思えた。LOGを後にして、再び旧市街を歩く。往路とは違う道で途中空き家を改修した雑貨屋に立ち寄りつつ西に進み(LOGは尾道駅の東方向の旧市街に位置している)、尾道駅を超えて斜面の等高線が東西から南北に切り替わるあたりで雰囲気が少し暗くなってきた。空き家が飛躍的に増え、朽ちた木造がすぐ隣に迫りながら、舗装も頼りなくなってきたからである。建築基準法上の接道義務や崖条例の条件を満たせず再建築不可となっている敷地が多い斜面地であるという現実をまざまざと見せつけられた(尾道駅よりも東の傾斜地は寺も多く非常に良い雰囲気だったことは強調しておきたい。)。※1

ほとんど獣道みたいな狭い階段を降り、ようやく平場に降りたときの安心感は未だに忘れられない。その足で北側から尾道駅に近づくと、序盤に体感していた観光的な尾道の表情とは違う、よりドメスティックな住宅地(少しお店もあった)を抜けることになった。踏切を再び渡って、海側に出て、m3 HOSTELという駅舎2階のホテルでチェックインを済ませて外に出ると、同行していたメンバーがロビー正面の海沿いのテラスで軽く飲みながらディスカッションを始めていた。夕日と海風を浴びながら安いコンビニの酒とつまみを嗜みつつ、その建築の上でその建築を議論する時間は控えめにいって最高だった。そこから街へまた繰り出して、遅くまで飲み、駅のホテルに帰ってきて、海側の窓際の部屋で眠りについた。翌朝は朝日に起こされ、窓いっぱいに広がる海を眺めながら身支度を整えて、下のコンビニで朝ごはんを買って、海まで少し歩いた。振り返ると朝日に照らされた駅舎の屋根が眩しかった。そしてそのまま駅舎に向かって歩き、庇をくぐってお土産を買い、改札を抜け、プラットフォームに出て、再び電車に乗り、今度は右手に海、左手に斜面を眺めながら帰路に着いた。

ここまで書いて、ほとんど尾道駅の空間や建築について直接は語ってきていないことに気づく。言及してきたのは自分の行動と、尾道駅以外の尾道の風景や空間についてである。しかし、あの時の連続的で淀みない尾道の経験は、今冷静に振り返ると自分にとっては非常に特殊な経験で、その理由が尾道駅の建築に少なからずあったのではないかと思う。一つ一つのシーンを可能にした設計について、もう少し踏み込んで筆を進めたい。

人々の行動を喚起する設計
例えば、あの夕方の時間に、ホテルのチェックインを済ませた直後に駅前の公共空間でディスカッションしながら一杯やるという状況が何故成立したのか。その成立要因を箇条書きで示す。

□プログラム
・多少騒いでも気にならない駅というプログラムと立地
・一階の土産も売っているセブンイレブン(ビールとつまみをすぐ買えた)
・駅舎の二階に位置するホテルのロビー
・フリーアクセスの動線を兼ねたテラス

□空間構成
・二階から遮るものがなく広がる海
・雨の日でも居場所をつくる庇
・動線以上の幅を持ったテラス空間

□ディテール
・半円断面で手に優しい手すりの笠木
・肘をかけやすい手すりの高さ
・30°ほど傾いた手すり子(それによって手すりに肘をかけて海をみても膝や足先が手すり子にぶつからない)

□家具
・少し大きめのベンチ
・簡易なスタンディングデスク

このような繊細な「設計」が組み合わさって初めてあの時間が成立したのである。空間的、計画学的な寸法体系と構成、素材の選択が人間の振る舞いにとって心地よいのだ。※2 どれか一つでも欠けていたらあの場所で飲みながら議論するという選択肢は取っていなかったかもしれない。少なくとも、同様の時間を外部空間につくることは、旧市街の東側でも西側でも再現することは無理だろうと直感した。旧市街の東側ではまだ健在の住宅群のプライバシーと寺の領域性によって、西側では空き家群がつくる不安感によって、その再現が難しい。※3

環境の背景となる建築の存在感
自分が尾道駅を通り抜けた際、その存在よりも海に焦点があったり、冒頭のテキストで駅舎建築自体よりも自分の行動や周囲について言及したということは、尾道駅の存在がまるで空気のように透明だったということもできるだろう。その透明感は、尾道駅における建築意匠のコンセプトが強く表現されていないことであったり、抽象的=表現的ではない素材選定(ドブ漬け、アルミパネル、御影石など一般的な駅舎や公共施設でも使われる素材)であったり、計画的、構造力学的に無理をしていないこと、によって達成されていると思われた。例えばあの場所に高さ30mの、コンセプチュアルな白い箱が抽象的に現れたら強烈な違和感が残るだろう(その違和感を作品の強度に昇華させる建築意匠のアプローチはあり得るが。)

尾道駅のデザイン監修者であるアトリエ・ワンの塚本由晴氏は、今回のインタビュー※4において「プロトコル」という言葉を多く使っている。プロトコルは、議定書・外交儀礼という意味が転じて主にIT関連の話題においてコンピューター間で、データをやりとりするために定められた手順・規約という意味で使われる。噛み砕くと、「プロト」は「最初の」、「コル」は「糊」という意味で、表紙に糊付けした紙を表し、複数の者が対象となる事項を確実に実行するための手順について定めたものというのが語源である。

塚本氏は同じインタビューにおいて「木造のプロトコル」という言葉で駅舎について説明してくれた。「木造のプロトコル」を私なりに意訳すると、木造建築に内在されている、反復可能な知の体系ということになろうか。尾道駅においてはそれを駅舎に埋め込むことで、強くわかりやすい単一のメッセージを建築が発するのを避け、より身体的に、非言語的に私達がなんとなく「良い」と思える建築を目指したのでないだろうか。プロトコルはコンセプトのように”表現されるもの”というよりも、”埋め込まれる”ものだ。したがって訪問者がそれを鮮やかに捕まえ理解することは難しいかも知れないが、だからこそ、設計者の意図が空間に主張されずに済む。代わりにその周囲が見えてくる。私が体感したある種の透明感は、プロトコルを埋め込む設計によってもたらされたともいえよう。

どこまでも広がり、連続する建築
要するに、一つ一つの判断基準に、自分の脳で考えること以外への信頼がひしひしと感じられるのだ。屋根の勾配は背後の山とつながり、屋根の大きさは斜面の寺とつながり、柱と梁の取り合いは貫木門のディテールにつながり、東西に伸びるブリッジは旧市街の斜面に平行な小道を想起させ、階段は斜面に対して垂直に伸びる坂道に対応し、テラスからの眺めは、坂道を抜けて突然現れる神社の境内から見る景色と重なり、新築の安心感は斜面地から平場に降りた時の安心感と呼応し、手すりの角度は海と人間の身体とつながっている。尾道駅を体感することは、そこに埋め込まれたプロトコルを体感することでもあり、それは設計者やデザイン監修者の外側にある要素、つまり木造の歴史や尾道の都市構造、人々の振る舞いへの仕掛け、といった様々なスケールでの尾道駅以外の事象を体験することでもある。それらのプロトコルを丹念に擦り合せ、編集し、ようやく立ち上がった建築は、もはや目で見える物質性ではなく、目に見えない「雰囲気」や「透明感」といった「アンビエンス」でしかその価値を伝えられないのかもしれない。ただ、この時建築は、そのプロトコルを手がかりにすることで、目で見える範囲よりも広く、深く、どこまでも連続していけるはずだ。

※1 旧市街の成立過程と現状についてはこちらの記事を参考にされたい。
「再建築困難な斜面地と向き合う ── 尾道」https://medium.com/kenchikutouron/%E5%BB%BA%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E7%94%BA%E3%81%AB%E5%BB%BA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B-%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E4%BE%A1%E5%80%A4-%E3%81%AF%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%96%87%E8%84%88%E3%82%92%E9%86%B8%E6%88%90%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%8B-38a32379c6d2

※2 このような行動の喚起は、いわずもがなアトリエ・ワンが標榜するふるまい学によってもたらされるもので、その分かりやすい具体例としてこのテラスの出来事があったこともあり詳細に言及した。

※3 というか日本国内においても、こういう自由な振る舞いが可能な建築家による公共空間は数えるほどしかないような気さえする。すぐに思いつくのは藤村龍至氏設計のOMテラスだ。

※4 「地域の建築の当事者性」
https://medium.com/kenchikutouron/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC-%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E7%94%B1%E6%99%B4-%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%AE%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E5%BD%93%E4%BA%8B%E8%80%85%E6%80%A7-6e255db247cf

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Takuma Tsuji

403architecture [dajiba] / 辻琢磨建築企画事務所

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