一年は小さな一生

知り合いの女性が数年前の大晦日に、こんなことを言ったことがありました。

「一年は小さな一生。今年はどうでしたか?」

なるほど。四季がどうとか12に分割されていることがどうとか、そのあたりのディティールは置いておいて、いい表現だと思いました。ので、ちょうど1年の半分が過ぎた今年をちょっと振り返ります。小さな半生記です。過度に比喩的、かつ長い文章になるので、お読み捨てください。


出だしはまぁまぁ好調。
良い意味でルーティンを守って健やか。ルーティンは嫌いじゃないんです。その中で僅かずつ変化をつけていくのがいい。僕はパラレルワールド的な世界観を常に意識しているところがあって、その世界線を僅かに移動する可能性のある行動をとるのが好み。たとえば、靴紐の結び方を少し変えるとか、毎朝起きる時間を15分だけ早めてみるとか。
そういう意味で、大きな変化は起こさずに小さな変化を積み重ねた今年の出だしは満足のいくものだったと言える気がします。
また、その変化を許容してくれるパートナーもいて、その人を置き去りにしつつ僕は自由に世界線を移動していました。

少し経って、別のある人物によって大きな変化があります。
「世界線を僅かに移動する」という時の距離がピアノの鍵盤ひとつぶんだとしたら、トロンボーンを腕の長さいっぱいに使って演奏するような、そんな変化。これは幸福をもたらしたしました。ルーティンを捨て去るほどの大きな影響があったのです。

大きな変化を嫌う自分があまり好きじゃなく、また、博打のように(または人を驚かせるためだけに)突発的に変化に走るのも好きじゃなかった自分を変えるチャンスに魅了されたのも事実です。

パラレルワールドを意識して生活していると、別の世界線に憧れをもつようなことがありますが、まさにそれです。
その人物の登場によって、憧れに一歩近づいたような喜びがたしかにありました。

が、パラレルワールドに無数に存在する自分自身のうち、理想と思えるものに近づいて行く時、誰かを道連れにする、または誰かに連れて行ってもらうことには常に疑問があります。

なぜなら、その「誰か」にも無数のその人自身があり、選択はつねにその人自身にしかできず、原理的に他人は関与できないからです。
お互いの選択によって選び取られた世界が奇跡的に交わった場合にのみ、人は他人と世界を共有できます。

共有などできずとも、別の世界からお互いを許容しあうという選択もあるのかも、と新しい可能性に気付いたのがわりと最近のこと。
話が長くなるので割愛しますが、僕は自分の生い立ちから「自分の選択に誰かを巻き込む」ということに執着していたのではないか、ということに気付いたのです。

「お互いを」許容しあう必要があるので、もちろんコントロールなどできませんが、コントロールするなどという傲慢さを捨てることが「尊重する」ということなのでは? と、あたりまえのことにようやく思い至ったという気がしています。

他人と関わりをもたずに生きていくことのできない社会的な動物である僕たちにとって最も大切な、他人に対する尊重、尊敬、そして個として存在しあうことを認めること、そんなものをようやく獲得したのが、この半生だったかもしれません。

少し話を脱線すると、この気付きには僕が向精神薬を常用するようになったことも関係します。
社会的であるために、健やかな日常を過ごすために、薬剤が必要になって初めて気付いたことなのですが、基本的には人が人を助けることはできません。
自立した個である他人同士が、誰かを救おうなどというのはそれこそ傲慢で、ましてや救われようというのは甘えなのかもしれません。
個ということばが抽象的にすぎるのであれば、脳に置き換えます。
「攻殻機動隊」の世界のように相手の脳に干渉できるならまだしも、あれがあくまでSFであるように、個を支え、心の在処である脳を救い出せるのは自分だけ、ということです。

それでも、他人に救いを求め、また救いたくなることがあります。
むずがゆい言葉ですが、それが愛情だとか友情だとか、そういうものなのかなと最近は考えています。
本質的な救いにならないことは知っていても、それらが必要なときというのは間違いなくあるのです。
必ずしも人間への愛情や友情に限りません。趣味やペットにも同じことが言えるでしょう。しかし、やはり人間に求めてしまうこともよくあるのだろうと思います。

こう振り返ってみると、この小さな半生は意外と充実していました。
僕にはいま、救い、そして救われたいと思っている人物(そう、僕を別の世界線へと誘ってくれたその人です)がいますが、原理的にそれは無理であるということを承知した上で、何が出来るのかというのが、明日から始まる後半生の課題です。

何もできないかもしれませんし、そのことに絶望するかもしれませんし、奇跡的にうまくいって歓喜するかもしれません。
今はとりあえず、そのどちらも可能性として感じています。

のちのち、これを読み返す自分がどうなっているか、どの世界線にいるのか、靴紐の結び方がまた変わっているのか、もしかするとまだ出会っていない誰かと許容しあえているかもしれません。楽しみです。

最後に、ここまでの話があまりに精神的な内容に傾いたので少しだけ肉体のことを書いて終わりにします。

この小さな半生では、肉体はあまり好調ではありませんでした。
食欲は減退してずいぶん痩せてしまったし、疲れやすいし、酒量は増える一方だし、タバコも増えています。

ただ、肉体と精神は絡み合って互いにつよく影響しあうことを学びました。それぞれ個別に良くすることはできません。
健康な精神は健康な肉体に宿ると言いますが、逆もまた真なり、健康な精神が健康な肉体を作ります。

さあ、小さな一生も後半戦。
僕は今年を楽しく健やかに過ごせるでしょうか。
意外と、僕は基本的には楽観視していますが、あまり油断せずに生きていこうと思います。

一年は小さな一生。
ここまで読んでくださったみなさまに、どうか健やかな後半生を。

では。

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