FoundX のミッションを決めた背景: 「ゆとり」と「ひらかれた社会」

会社全体だけではなく、チームにもビジョンやミッションは不可欠であり役に立つと言われています。そこでスタートアップ支援プログラム(インセプションプログラム)である FoundX のミッションは、以下のようなものにしようと考えています。

By enabling and spreading innovation, create scholē for all people, and make our society more open and enlightened (イノベーションを可能にし広げることで、ゆとりを生み出し、よりひらかれた社会を作る)

それぞれの言葉の位置づけを表でまとめると以下のような形となります。

FoundX では、こうしたミッションとある程度方向性を共有できるスタートアップを支援していきたいと思っていますし、このミッションに賛同いただける方々と一緒に運営していきたいと思っています。そこで今回はこのミッションを定めた背景と考え方について解説します。なお、ビジョンについては別稿で改めます。

これを読んで興味を持った人、一緒に働いてみたいと思った方はぜひ FoundX にコンタクトしてみてください。


以下では、なぜミッションを独自で持とうと考えたのか、その背景を解説します。

(※ 記事はアップデート予定です。まだ考えている途中で、フィードバックなどを経て改稿したいと思っています)

なぜミッションを決めようと思ったのか

FoundX はアクセラレータなどに類する、一種の起業支援プログラムです。私の知る限り、起業支援のプログラムや施設でミッションを決めているところはあまりないように思います。しかしチームにもビジョンやミッションは不可欠であると言われているように、ミッションを定めたほうが FoundX は効果的に機能すると考え、上位組織との整合性を取りつつ、今回ミッションを設定しようと考えました。

また上述のような効果面に加えて、今回ミッションやバリューを定めた理由は 3 つあります。その3つは以下の通りです。

  1. 支援者としての社会的責任
  2. マッチング率の向上
  3. 自分たちがスタートアップの模範になれるように

1. 支援者としての社会的責任

単にスタートアップを支援することを目的とするだけでは、自らの活動の社会的意義や責任から逃げているのでは、と考えました。

それにそもそも、目的がないまま無作為にイノベーションやスタートアップを推進することは、私たちの本意ではありません。たとえば私たちは、創業者たちや投資家たちだけが儲かることを目的としたようなスタートアップだけが得をする企業を支援したいわけではありません。不平等や差別を助長するようなスタートアップを受け入れるつもりもありません。

しかし組織としてのミッションがない状況では、今挙げたようなすべての取り組みを支援することになります。そうすることはあまりに無責任なように感じました。

2. 応募いただくスタートアップと私たちとのマッチング率の向上

また私たちとして望んでいる方向性を言語化されていたほうが、今後応募してくるスタートアップの皆さんとのミスマッチが少なくなるというメリットもあると考えました。

また一つの組織としてミッションを持っておいたほうが、仮にトップが事故などでいなくなったときに立ち戻るベースとなるというメリットもあると考えています。

3. 自分たちがスタートアップの模範になれるように

そしてもうひとつの理由として、多くのスタートアップがミッションなどを掲げているにも関わらず、ある意味見本となるべき私たち支援側にミッションがない状況はあまり良いとは思えませんでした。支援先に対して「ミッションを定めたほうが良い」と言っている支援側自身にミッションがなければ、そのアドバイスは有効ではなくなってしまいます。

そこでミッションをきちんと考えて言語化しようという結論になりました。

独自のミッションが必要だった理由

私たちのミッションを作るうえで、他支援組織のミッションを参考にすることも考えました。ただ、スタートアップ支援側がしばしば語る文言である「日本の新しい産業を作る」「より良い社会を作る」「挑戦者を増やす」「未来を作る」「日本を元気にする」などでは不十分だという結論に至りました。以下ではなぜ独自のものを作ったのか、その検討の流れの一部を解説します。

産業を作る?

たとえば「日本の新しい産業を作る」という言葉を投資家側からはしばしば聞くように思います。

しかしこのままでは、その産業を作った先の社会像が提示されていません。産業の活性化はあくまで手段であり目的ではないはずです。もちろん産業を作り、そこに雇用を生み出すというのは素晴らしいことです。しかし新産業や経済成長をゴールにしてしまうと、様々な経営指標と同様に、自然とそのゴールを遂げることだけに沿った行動になってしまい、望ましい結果にならないのではと考えました。

例えばこのミッションを掲げてしまうと、社会的にも意義が乏しく給料も低い雇用を生み出す産業を作ることや、経営者や投資家、エリートだけが儲かり、労働者が疲弊し生活者が騙されるような産業を作ることも否定をすることはできません。そうなってくると、私たちは是としてしまいがちです。その他にもたとえば、利用者のプライバシーを侵害するような事業や、そこで働く人たちの時間を奪うような事業、コピペの記事を量産してWebを汚すような事業も、それが産業につながるのであれば、「新しい産業を作る」というミッションだと受け入れれざるをえません。

このように産業をメインに考えてしまうと、多くの個人の生活に不利益を与える可能性が高いと考えました。それがひいては不公正や不平等、分断を助長する可能性があると考えたとき、「産業を作る」こと自体を私たちのミッションに入れるのは危険だと考えました。

一方で、高い価値を作る新たな産業を生み出し、経済成長を遂げることはもちろん重要です。だから今回のミッションには、新たな産業や価値を生み出す視点を盛り込みつつも、人々の生活の視点や生活における影響という視点、そして産業や雇用を生み出した先に、私たちがどのような社会を作りたいのかという視点をバランスよく配置する必要があると考えました。

より良い社会?

スタートアップのミッションで、かつ社会を見据えた文脈では「より良い社会」という言葉がしばしば使われます。いわゆる「Making the world a better place」です。

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しかしこの言葉はドラマ Silicon Valley などで揶揄的に使われることもあります。なぜかを考えてみると、ここでの better の意味が曖昧で、better な方向性は各人によって異なるため、単独の better はあまり意味のない言葉だから、という面があるように思います。また、あまり考えていない人が適当に使う言葉になりがちだから、揶揄されてしまいがちである、とも考えました。ある意味、欺瞞であるように見えるのかもしれません。

実際に、右派と左派で「より良い」方向性は異なります。リバタリアンとコミュニタリアンでもより良い社会は異なります。「Making the world better place」はそうした「より良い」という言葉の内容や方向性が乏しい部分があることは否定できません。だから私たちも、あまり良く考えずに better という言葉を採用するのはあまり有効ではないと考えました。

その他:挑戦者を増やす? 未来を作る?

「挑戦者を増やす」も同様に、多くの人が挑戦できる社会がなぜ良い社会なのか、そのバックグラウンドについて十分に語られていないように思います。

「未来を作る」は字面は格好良いですが、どんな未来かを言わなければあまり内容がありません(未来は何もしなくてもやってきます)。

「日本を元気にする」も、どのような状況が元気と言えるのかが少し明白ではないように思いました。

どれも違っていたから独自で考えた

そこで「どのようなスタートアップを支援すれば社会が良くなるか」「どのようなスタートアップが生まれれば社会に対する責任を果たせるか」を考え、さらに「私たちはどのようなスタートアップを応援したいか」を考えたたとき、FoundX という支援プログラムにおいては、上位組織のミッションに沿いながら、独自にミッションやバリューを定めるべきだと考えました。

独自のミッションを決めるうえでの制約

支援側のミッションを定めるうえでの難題があるとすれば、そのミッションはある程度、創業者の皆さんのビジョンとなっている「世界をこうしたい」という思いを包含するようなものである必要がある点です。一企業と同程度に特定のミッションにしてしまうと排他的すぎることになってしまいますし、かといって、ある程度方向性を示さないとミスマッチの発生を抑えることができません。

同時に、その方向性がある程度正しいものである責任がありました。ミッションを定めてしまうと、FoundX から輩出されるスタートアップの皆さんに、どうしても方向性のバイアスを与えてしまいます。もし FoundX が成功し、そこから生まれたスタートアップのインパクトが集合的になったとき、本当に社会に良い影響を与えるのかどうかについて、深く考える必要がありました。

多くのスタートアップは何かしらの価値を生むものです。ではそれぞれのスタートアップが価値を生んだ先に、どのような成果が生まれて、それが人にどのように影響し、そして社会がどのように変わっていくべきだと考えるのか、それを考えるために多くの文献を読む必要も出てきました。

こうした様々な制約を考えてミッションを設定しました。

自己紹介

今回のミッションを考えていたのは FoundX の構想と立ち上げを担当している馬田という人間です。私は東京大学でスタートアップ支援や、本郷テックガレージという場所を立ち上げて学生向けのプロジェクト支援を行ってきました。もともとは Microsoft で Visual Studio のプロダクトマネージャや、スタートアップ支援担当のテクニカルエバンジェリストをしていました。また、これまでスタートアップ向けのスライドや『逆説のスタートアップ思考』という書籍を書いているほか、スタートアップやアクセラレータに関する記事などを書いています。

またスタートアップエコシステムについては、それなりに調べて考えてきているほうだと思いますが、考えが至らない点など多々あるかもしれません。その際にはご指摘、ご批判等をいただければ幸いに存じます。

以上が背景です。


ミッション

今回の FoundX のミッションは「イノベーションを可能にし広げることで、ゆとりを生み出し、よりひらかれた社会を作る」という風に決めました。以下はその内容について解説していきます。

それぞれの言葉の位置づけを表にしています。また太字にしている言葉の解説は以後に行います。

もともとの考える順番は、目的が最初にあるべきだと思いますが、分かりやすさのために前から順番に、「手段」「成果」「目的」の順で解説していきます。


手段の定義: イノベーションを可能にし、広げる

アクセラレータとしてやるべきことはスタートアップの支援です。スタートアップは技術的・ビジネス的・社会的なイノベーションを生むための、社会における一つの手段です。スタートアップを支援することは、イノベーションを支援することだと考えています。ですので、まずイノベーションという言葉を持ってくることにしました。なお、この部分は Y Combinator のミッションを参考にしています。

ここでのイノベーションは、技術的なイノベーションに限らず、ビジネスモデルや社会制度的なものも含みます。技術革新という言葉がイノベーションの訳語として定着してしまっていますが、シュンペーターが指摘した通り、イノベーションの射程はもう少し広いものではないかと思っています。その意味で、FoundX ではビジネス的なイノベーションの担い手も支援対象として支援したいと考えています。

しかし逆に言えば、イノベーションを生まないようなスタートアップは、今回は支援の対象外となります(ただ、そうした起業を否定しているわけではありません)。

イノベーションを可能にする (enabling innovation)

FoundX はアクセラレータや教育機関に近いプログラムであり、施設です。我々自身がイノベーションを興すことではなく、そこに来る人たちがイノベーションを生むことを支援する活動を行います。その意味で「enabling innovation」を文の最初に置いています。

また、ここでのイノベーションは技術的なイノベーションもあれば、その他の創造的な(ビジネスモデル等の)イノベーションも含んでいます。

イノベーションを広げる (spreading innovation)

ただしイノベーションを生み出すだけでは研究レベルにとどまってしまう可能性があります。Taleb などがいうように、実用化されないのであれば、その発明はあくまで半発明 (half-invented) の段階です。また単に実用化されるだけでは人たちを変えるには不十分で、必要とする人たちに最大限に広げて良い影響を与えることができなければイノベーションとは呼べないと考えています。

そこで明示的に「イノベーションを広げる」ということを文言として入れることにしました。広げていくためには、その仕組みを持続可能にする必要があるでしょうし、広げられるようにプロダクトにしていく必要があります。さらに営利企業としてビジネスを維持可能にする必要がある、という意味を込めているつもりです。また「広げる」という言葉を入れることで、世界を対象にしたビジネスをしてほしい、という願いも入れています。

逆に言えば、技術的な新規性 (novelty) だけを追いかけ、spreading を狙いたくない、というスタートアップについては、FoundX の支援の対象からは外れることになります。具体的に言えば、将来的にも受託をメインとするような企業については残念ながらお互いの意向が合わないことになるでしょう(ただし将来 spreading をするために今は受託をしているような企業は支援の対象となります)。

手段としての「by enabling and spreading innovation」

まとめると、イノベーションを単に生み出すだけではなく、生み出したイノベーションを広げていく仕組みをスタートアップと一緒に作っていくというのが、我々の用いる、よりよい社会を実現するための手段です。

そこで FoundX ではこのプロセスをより改善していくため、スタートアップを支援するだけではなく、その支援を通して知見を溜めながら、「イノベーションを可能にし、広げやすくする」ための研究も同時に行っていきたいと考えています。


【疑問】 イノベーションは何のため?

しかしイノベーションは「何かを達成するための方法」でしかありません。

スタートアップが何かを実現するための一つの手段であるように、イノベーションも何かのための手段です。私たちは何かを達成したくてイノベーションを生み出そうと努力を続けているはずです。ではその何かとは何なのでしょうか?

もちろんそれを決めるのは個々のスタートアップです。しかし私たちも支援者として、どのようなイノベーションから、「どのような成果」が生まれるべきかを明示する必要があるのではないかと考えました。

それが「ゆとり」です。


成果:ゆとり

ここでの「ゆとり」の対象は主に、

  • 時間的なゆとり
  • 金銭的なゆとり
  • 心のゆとり
  • 認知的なゆとり
  • 社会資本的なゆとり

などを考えています。

イノベーションによって「時間」が生まれる

もともとは「時間を作る」ことを FoundX での一つの成果として考えていました。医療の発展は人生の健康な時間を長くしてくれますし、技術の発展は人間を各種の作業から解放し、時間を生み出してくれます。多くのイノベーションは人間にとって、時間を作り出すことに貢献しています。

Matt Ridley は『繁栄』のなかで

「人類の繁栄とは端的に言うと節約された時間である」
「何かの価値を正しく評価するには、それを手に入れるのにかかる時間を測るといい」

と述べています。たとえば 2006 年のマウライ共和国の女性の時間の使い方は以下の通りで、ほとんどが生活のために時間を使っていました。私たち日本人も昔はこうした生活をしていたと思われます。

金銭的な貧困は、時間の貧困を生みます。そして生きるためだけにしか時間が使えなければ、教育や成長の機会があったとしてもうまく活用できず、金銭的な貧困状態に置かれたままになってしまいます。

私たちをこうした状況から解放してくれたのが各種のイノベーションでした。

水道インフラは水汲みの時間をほぼなくし、ガスの敷設は薪集めや火起こしの時間を減らしてくれます。農業生産技術の発展や輸送路の敷設は食糧の供給を安定化し、動物を狩りに行く必要も、農作物に不作で飢えることもなくしてくれます。各種家電は家事労働の肉体的負荷を下げてくれました。そして自由な時間を生めば、それを労働に充ててさらなる金銭を得ることもできます。その時間で心のゆとりを生むような活動をすることもできます。

たとえば 『ファクトフルネス』の著者であるハンス・ロスリングは、自身の体験を交えながら洗濯機が母親と本を読む時間を与えてくれたことを語り、そうした環境を世界中でも作るべきだと主張しています。

ケインズは1930年に「2030年には人々の労働時間は週15時間になる」と予測したと言われています。もしケインズの言っていた通り、本当に週に2日程度しか働かなくても良くなれば(あるいはせめて週休三日で経済的にも環境的にも持続可能な社会が実現できるのであれば)、人々はその時間を使ってより深く考え、学び、そして社会についての討議や熟議の時間をもっと設けることができ、そしてより良い共同体を作ることができるのではないでしょうか。

そうした時間のゆとりを作るために私たちは多くのイノベーションを必要としていることについては、それなりの割合の人が同意してくれるのではと考えました。それに一人一人にとっての有限の資源として、時間はとても大切なものであるというコンセンサスはほぼ取れているのではないかと思います。人が健康的に生きられる時間を生むために医療が必要であり、時間を生むためにSaaSのような効率化を行うサービスが必要です。かつて仕事と事故は隣り合わせでしたが、そうした危険な作業が機械によって代替されてきたように、私たちは今の仕事をなくしたり短縮したりすることで、今よりももっと豊かになれるはずです。

また時間という観点では、Bill Gates と Melinda Gates は 2016 年のアニュアルレターで、特に女性の「時間の貧困」の問題を指摘していたことがあります。つまりこれらはまだ問題になっており、時間についてはまだもっとよくできる余地があるはずだと考えています。

でも、なぜ「時間」ではダメだったのか?

しかし時間という尺度は分かりやすいものの、今回は採用しませんでした。なぜなら、「効率性」という言葉に強く結びついてしまう危険性があったからです。

効率性は一つの見方においては重要ですが、ただ効率性を最終的なゴールにしてしまうと、効率のために様々なものが既存される危険性があります。

たとえば、誰も求めていない製品を効率的に作っても意味がありません。しかし効率という言葉を使ってしまうと、今のやり方をいかに早くやるかが焦点となりがちです。私たちが本来望んでいるものは、効率性ではなく生産性です。たとえば、イノベーションによって今よりもさらに効率がよくなった日本の公共交通機関ができたときに、人々にとって有用な時間を生むのかというと、恐らくそんなことはないでしょう。

さらに労働者側に目を向けてみると、公共交通機関で働く労働者たちにとっては、その効率化によってより窮屈なシーンも増えてくるかもしれません。たとえば、皆さんの仕事が10分短縮してより多く儲けられる代わりに、今よりもかなりの認知的・肉体的な重労働になる場合、経営者はその変化を望むでしょうが、労働者にとってはその限りではないように思えます。しかし効率を望んでしまえば、そのようなものも是としてしまうのではという危険性を感じました。

実際、『お母さんは忙しくなるばかり―家事労働とテクノロジーの社会史』で指摘される通り、テクノロジの発展や工業化が必ずしも一部の人の労働(主に女性の家事労働)を楽にしないこともあります。たとえば、洗濯機の登場により一回当たりの洗濯は楽になりましたが、生活水準の向上と洗濯の楽さに伴って洗濯の量と頻度が増し、家事労働全体としてそこまで楽になっていないことなどが指摘されています。このように、単体の仕事の効率化が、システム全体で見たときには効率化につながっていないことはありえます。

私たちはここ数十年、効率を追いかけて様々な開発を行ってきました。マクロな視点で見てみても、私たちは分業とイノベーションによって、100年前より遥かに多くの時間を得るようになっています。

しかしその一方で、ここ数十年の労働時間はケインズが予想したようには下がらず、1980年代以降はほぼ一定のままです(もちろんその背景には、労働塊の誤謬などで指摘されるように、仕事量が一定であるとは限らないからという点はあると思います)。

この間、情報技術の発展を通してビジネスのスピードは速まったものの、労働時間はかつてのままで、私たちの生活の時間は一向に増えていません。むしろ、現在増えつつある仕事は、いつでもメールを受け取って仕事ができてしまうように、私たちの生活時間と仕事の時間の境目が曖昧になりつつある仕事のように思います。

https://ourworldindata.org/working-hours

このように、時間を目的にして結果的に効率性だけを追い求めてしまうと、生活時間を削ってしまうような仕事を増やし、生活への視点が抜けたまま、仕事や経済を偏重してしまうのではないかと危惧しました。しかし本来であれば、経済成長の一つの目的には人々の生活があるはずです。また経済成長だけを追い求めることは、再配分 (redistribution) の問題を隠してしまったり、人々の生活についての視点が抜け落ちてしまいがちです。

ハーバーマスの議論などでもある通り、過度な合理化やシステム化は生活世界の植民地化を引き起こす可能性があります。時間効率を高めることで、権力のシステムや貨幣のシステムが生活を脅かすようになってしまっては、何のためのイノベーションか分からなくなってしまいます。イノベーションや進展は、あくまで個人の生活世界を豊かにするためであるべきだと考えます。

たとえば、見せかけの経済成長を重視しすぎてしまうことで、社会保障などの費用を削減する方向に動き、それが治安を悪化させて、セキュリティへの投資や銃の所持の許可などが生まれてしまうと、経済成長を緩やかにするとともに、生活を脅かしてしまうことになります。「日本に新産業を生み出す」というミッションを冒頭で例に挙げましたが、そうした視野が抜けたまま産業上の経済成長のみを追い求めると、逆に経済成長ができなくなってしまう可能性を危惧しています。

さらに、時間的な「効率」だけを追い求めてしまうと、特定の価値基準において「非効率に見える人たち」を排除してしまう思想につながる危険性もありました。それは優生思想や全体主義に安直につながってしまう危険な道です。

そうした意味でも効率化を目指すだけのスタートアップを受け入れることは本意ではないと考えました。一方で、「効率的ではないように見えるけれど、本当にそれが広がれば人々にとって良い影響を与えるもの」を生み出そうとしているスタートアップを今回の対象から除外するのも本意ではありませんでした。そこで私たちは改めて、効率性や時間ではない目標を考えるべきなのではないかと考えました。

ゆとりが出てきた文脈

そこで、時間をアウトプットとしたときに、アウトカムは何なのだろうと考えました。ここでのアウトプットとアウトカムの議論は以下のインパクトチェーンのような形で表すことができます。

時間というアウトプットが生まれることで、私たちが本当に手に入れるアウトカムは何だろうと考えると、「ゆとり」ではないか、と考えました。

ムッライナタンらが欠乏の行動経済学などで指摘されるように、ゆとりは人々の生活にとって欠かせないものです。たとえば一度貧困に陥ってしまった人たちは、目先の借金返済などに追われて更なる借金をして、それが積み重なることで永遠に出れないループに入ってしまいます。一時的に貧困状態から抜け出るのは支援をすれば可能ですが、しかし医療費などが突如発生することで、また貧困の連鎖にすぐに戻ってしまいます。

そのときにちょっとした金銭的なゆとりや社会資本的なゆとり、そして個人個人が多少受け止められるゆとりがあることで、貧困に落ちることから救ってくれます。彼らが指摘するように、ゆとりは緩衝材であり、様々なリスクを軽減してくれるものです。たとえば、病院で救急室を常に一つ開けておくことで、本当の急患が来たときに対応しやすくなり、全体の効率化が図れる事例がムッライナタンの同書に挙げられています。

日本でも湯浅誠さんは、著書の『反貧困』等の中で、「貧困」は単なる金銭的な欠乏だけを示す言葉ではないと指摘しています。貧困とは、金銭的や人間関係的、様々な面の「溜め」がなくなった状態です。その溜めがない状態は、ある種のゆとりがない状態だと言えます。

プロジェクトマネジメントのトム・デマルコの本に『ゆとりの法則』という本があります。そこでは単に効率性を求めるだけではなく、ゆとりを持つことが全体の最適化につながることが書かれています(なお、この本の原題は「Slack」と言います。きつくないこと (not tight / loose)、などを意味するこの Slack という言葉は、多くの人が使っているチャットツールもこの名前を冠しています)。

ちょっとしたゆとりを持つことは想定外の出来事から私たちの日常を守ってくれるようになります。実際、IT系の方だと、プロジェクトマネジメントにはバッファがどうしても必要で、バッファというゆとりがあることで様々な不確実な事柄に対応できることを実体験から感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ゆとりは余白のようなものです。余白はデザインをするうえでとても重要ですし、余白の設計で全体の見え方はずいぶんと違っています。子供たちも余白のある紙には落書きなどで遊べますが、余白がなければ遊ぶ余地がありません。私たちの人生にも、そうした自由な余白があるほうが、豊かな人生を送れるのではないでしょうか。

近年、AIの議論とともにベーシックインカム (BI) の議論が一時的に増えましたが、BI の議論はまさに富を再分配することにより、人々に金銭的なゆとりと、そしてセーフティネットを与えることです。『隷属なき道』でもありますが、BIはある種の個人向けのベンチャーキャピタルであり、人々の最低限の生活を保障するセーフティネットやゆとりとして機能します。そして『ベーシックインカムへの道』でも紹介される通り、ベーシックインカムは起業を後押しすることが分かっています (Bianchi and Baba, 2013)。

さらにゆとりは、

  • 考える
  • 学ぶ
  • 行動する
  • 対話をする
  • 寄付をする

といった活動をするためにも必要です。

心のゆとりが生まれれば、他人に対して少しだけ優しくなることもできます。

幸せな人は人助けに寄付する傾向も高いという研究があります (Isen, 1970, Levin, 1972)。また、他人のためにお金を使った人たちのほうが、自分のためにお金を使った人たちよりも幸せでした (Dunn, 2008)。さらに寄付をしていた人としていなかった人の幸福度の差は、収入が二倍になったときの差と同等だったと言われています (Aknin, 2010)。

ハーバードの Benjamin Freedman の『経済成長とモラル』によれば、経済成長が生活水準の向上をもたらすと同時に、多様性や寛容、階層間の流動性の上昇や公平性への志向が高まり、一方低成長期には不寛容や不平等、差別をもたらしたそうです。そうした意味でゆとりは道徳性の向上へとつながります。

効果的な利他主義 (Effective Altruism) といった運動では、我々先進国は earnings to give、つまり与える(寄付する)ために稼ぐ、という道を示しています。そこでは私たちが直接的な慈善活動をするのではなく、自分が最もインパクトの出せる他の活動をして稼ぎながら、その稼ぎを寄付することにより有効な慈善活動につながる道を示しています。そうした寄付はゆとりがあってこそできることです。実際、この運動は最も豊な地域の一つであるシリコンバレーでも支持されています。

ゆとりという言葉を使うことのメリット

さらにいえば、「ゆとり」という言葉を使うことで、心や金銭的なものまでカバーすることができます。心のゆとりや金銭的なゆとりといった言葉があるように、時間だけではないゆとりに目を向けることができます。その結果、ホネットをはじめとした論者が指摘するような、承認をめぐる問題もカバーすることができますし、金銭的な貧困を解決しようとしているスタートアップも支援できます。安全や環境に関するスタートアップも心のゆとりという文脈でカバーできます。スタートアップが経済成長をもたらすことで、お金のゆとりが生まれます。社会的・経済的な格差を減らすことで、心のゆとりにもつながります。シェアリングエコノミーの適切な実装によって互助の仕組みを作る、というのもある種のゆとりを生み出すことです。

そしてゆとりは時間と比べて、perceived な意味合いを持ちます。健康に関する行動変容でのサポートについても、 received support と perceived support は独立として考えられており、より行動変容を起こしやすいのは perceived support のようです。実際にサポートを受けているかどうか (received) よりも、受けられている感覚があるかどうか (perceived) が大事だということです。その文脈で、時間を生み出すと言ったときに増えるのは実際に receive するものという語感になりますが、ゆとりを生み出すといったときには、その言葉から時間を perceive する語感が生まれるように思います。そして perceive するほうが人々の行動を変えてくれます。

加えて、ゆとりという言葉は、センらによるケイパビリティアプローチとも相性が良いのではと考えています。ケイパビリティアプローチでは、財ではなく、人々の暮らしを重視しており、その意味においてゆとりと暮らしは相性良く接続可能です。またケイパビリティを選択・行使し、機能として実現するための自由を持つ上でも、ゆとりが必要ではないでしょうか。

イノベーションという言葉を使うと、どうしても経済成長だけに目が行ってしまいがちですが、しかし本来、経済成長と再配分はセットで語られるべきものだと考えます。確かにイノベーションを生んだ個人の努力はありますが、その努力や才能は公共的な環境によって大きく支援されてきているはずです。生まれた富を少数の人たちだけが獲得するのではなく、富を適切に再配分することで、全員の幸福度が上がったり、苦役が下がったりすることが重要です。

そうした文脈で、ゆとりという言葉を使えば、不平等の問題やロールズ的な富の再配分の問題も多少はカバーすることができるのではないかと考えました。多くの人に心のゆとりを生むためには、貧困と同時に格差や不平等の解消が必要です。なぜなら、人々の幸福度は自分の生活の相対的な地位に大きく影響を与えると言われているからです。これは再配分の問題につながってきます。もちろんそうした再配分の問題を解決するためには社会の制度設計のほうが有効な場面も多いでしょうが、スタートアップにもできることはあるはずだと思っています。

時間ではなく、ゆとりという言葉を使うことによって、「ゆとり全体のパイを大きくする」といった議論も可能になるのかなと思います。時間でも可能だと思いますが、時間の全体のパイを大きくする、というのは少しイメージがしづらい部分があるものの、ゆとりであれば全体のパイを大きくするイメージを持ちやすいように思います。

ゆとりという言葉を使うことで、高所得者だけの便益を図る何かを作るのではなく、多くの人にとってのゆとりという風に目線が向くように思います。何より、時間の効率化や経済的成長だけを求めて、格差が広がるような行為を減らせるのではないかと考えました。

社会資本関係が従来と変わりつつある現代の日本では、都市化の影響や、家族のあり方の変化が起こり、民間のセーフティネットが薄くなってきています。同時に経済的な衰退や社会保障のあり方の変化で、公的なセーフティネットも薄くなってきています。社会に多くの人を受け止めるゆとりがなくなりつつあるため、それを再構築する動きは、経済的にも重要になってくるように思います。

そして、ゆとりという言葉を使うことで、自社のイノベーションが一体何を生み出しているのかを考えるきっかけを作ることができるように思います。スタートアップではスピードが求められますが、そのスピードを求めた結果何をしようとしているのかを考える必要があり、そのときにゆとりという言葉を補助線に使ってもらえるのではないかと考えました。たとえば、そのスピードが私たちの首を絞めることになっていないかを考えたり、仕事上必要なスピードをスタートアップで働く労働者の生活の速度にも求めないようにすることで、過剰な労働を求めない良いアソシエーション(=会社、スタートアップ)が生まれるのではと考えています。そうしたアソシエーションが成果として生み出すゆとりが多くなると同時に、またそのアソシエーションで働く人たちにも多くのゆとりを生み出せなければ、私たちのミッションは達成できません。

現状のゆとりに関しての認識

逆に現在はそうしたゆとりが十分にあるかというとそうではないように思います。

たとえば私たちの多くは、政治や制度といった公共的なものや、共同体に対して、十分にアプローチする時間的な余裕も金銭的な余裕も持てていません。そうした状況だからか、政治家は自分の政策を語るよりも自分の名前を連呼したほうが選挙に有効であるために、車でただひたすら自分の名前を連呼し、政党は政策をまじめに考える人よりもメディアでの有名人を起用します。そのほうが有効だからです。

ギリシャ時代から指摘されているように、公共的なものへアクセスしようとすると、自由な時間や暇(schole スコレー)が必要です。言い換えれば、自由な時間は、単に生きること(ゾーエー)ではなく、社会的・政治的な生 (ビオス) を得るために必要なものです。自由な時間やゆとりがあれば、私たちは熟慮や討議をする時間も生まれます。そして自由と公正、権利と義務、共通善や幸福といった理想についても議論できますし、分断や再配分、多様性と包括、公共財や環境といった社会課題についても考えて行動できるようになります。

日本での「ゆとり教育」が失敗だという認識が広がったせいで(失敗だったかどうかは精査が必要だと思っていますが、それについては『「ゆとり」批判はどうつくられたのか: 世代論を解きほぐす』などをご覧ください)、日本では「ゆとり」そのものが悪いものと認識されているように思います。

しかしその認識が、ゆとりをなくそうと効率化ばかりを追い求め、緩衝材となっていた余裕までをも奪い取り、システム全体として非効率化することに繋がっているのではないか、という懸念をしています。そしてその認識が、現在の社会保障削減や過度な緊縮につながっているのであれば、今こそゆとりという言葉を改めて掲げ、良いイメージへとつなげていく必要性もあると思っています。

しかしそうした複雑な議論をするためにも、ゆとりがなければ議論ができません。

イノベーションでゆとりを生む

今こそイノベーションを興すことによって、ゆとりを取り戻すことが求められているように思います。

「スタートアップはイノベーションを起こすことでゆとりを生む」。そうした言葉をミッションとして掲げることで、FoundXに関わってくれるスタートアップの皆さんが、自分たちが作っているプロダクトというアウトプットが、将来的にどのような成果(アウトカム)を生んでくれるのかを考えて、それが人々の生活を豊かにするものにしていってくれるよう願っています。

私たちがこのミッションを掲げることで、そこに参画してくれる皆さんが、単にビジネスというある種のゲームを楽しんだり、個人の富について考えるだけではなく、その先の社会の影響までを考えるきっかけになってくれると嬉しいと思っています。たとえば、洗濯機を効率化して単に時間の効率化をするだけではなく、洗濯機の先にどんなゆとりが生まれるのかを夢想するようなきっかけです。

「イノベーションは人々のゆとりを生むためにある」と聞くと、当たり前のように聞こえるかもしれませんが、大まかにはこうした考えを通して、ゆとりという言葉を選びました。そして実際、多くのスタートアップは人々にゆとりを生んでいるように思います。


【疑問】ゆとりを生み出すだけが目的?

ゆとりは考える時間であり、ゆとりは緩衝材です。

ではミッションは「イノベーションを支援することでゆとりを生み出す」だけで良いのでしょうか。

恐らくそれだけではダメなのではないかと考えました。ゆとりがあるからといって、社会が良い方向に行くとは限りません。実際、時間的なゆとりが生まれたからといって、人はそれを学習の時間に充てないという調査結果もあります。であれば、ゆとりを使って、社会をどうしていってほしいのかを示すことも要請されてくるのではないかと思います。

また多くのスタートアップが社会をどうしたいかを考えているように、支援機関も社会のあるべき姿について考えを巡らせておかないと、対等に支援できる立場にはならないと考えます。つまり私たちも、ゆとりを使ってどのような社会を実現していきたいのかを考える必要があります。

そうした危機感を持つ背景の一つには、テック系のスタートアップにありがちな、テクノロジ至上主義へと進んでしまう傾向が挙げられます。一部のスタートアップはテクノロジがあれば社会制度も QOL も何もかもが良くできるというテクノユートピアを描いてしまいがちです。場合によってはそこから徐々に優生思想や暗黒啓蒙、加速主義のような立場を採用する人たちも出てくるでしょう。しかし、本当の意味で社会実装していくのであれば、社会側のことをきちんと考えていく必要があります。

一方で、Joseph Heath が「スローポリティクス宣言」をしたり、「フラット化する社会」などで有名なトーマスフリードマンが『遅刻してくれて、ありがとう』というタイトルの本を出したように、我々は加速する世界の中で無暗に加速して破滅へと向かうのではなく、ゆっくりと理性で考える時間が必要だという立場に与します。そして実際、ゆとりがあること、そしてそのゆとりを適切に使うことで、考える時間や学ぶ機会が増え、より良い社会を実現していけるのではないかと考えています。

冒頭でも批判した通り、「より良い社会」というのは抽象的であり、ほとんど何も方向性を示していません。そのため、どのような社会がより良い社会なのかを検討していく必要があります。


社会:「よりひらかれた社会」:優れたスタートアップを生み出すことで、どんな社会を創りたいのか?

そこで「より良い (better)」という方向性を、「理性的に討議熟議できる、多様で寛容な社会」にしたいと考えました。これを『ひらかれた社会』と呼び、今回は「よりひらかれた社会を作る」というミッションを置くことにしました。

「よりひらかれた」という文字には、以下のような意味合いを込めています。

  1. 啓かれた (enlightened)
  2. 開かれた (open)

それぞれの意味合いを含めるため、日本語では「ひらかれた」としています。それぞれの意味を以下で解説します。

1. 啓かれた

ひらかれた社会は、理性に基づく社会を夢見た「啓蒙思想」の考え方を継承しています。

人間性 = 理性

昨今、Steven Pinker の Enlightenment Now!『ファクトフルネス』、『進歩: 人類の未来が明るい10の理由』、『反共感論』、『啓蒙思想2.0』などで再度注目を浴びる啓蒙思想ですが、その裏には、世間における人間の理性の受容に対する危機意識があるのではないかと感じています。

たとえば「理性で考えるよりも最初の直観が正しい」といった言説や、「共感が最も重要である」「最後は理性よりも直観で判断する」といった言説が広く受け入れられはじめています。言い換えれば、個人として納得するかどうか、腹落ちするかどうか、直観的に分かるかどうか、身体的な反応があるかどうか、といった面が過度に重要視されつつあります。リベラルと保守の対立の裏にあるのは、理性と直観のどちらを優先するのか、という問題という風にもリフレーミングできるかもしれません。これは頭と身体のどちらを優先するのか、という問題とも捉えられます。

もちろん、Daniel Kahneman がまとめた「ファスト&スロー」のような書籍でも示されている通り、人間の速い思考が得意とする分野もあります。しかしその一方で、速い思考はバイアスにかかりやすく、誤った判断をしてしまいがちです。そんなときには人間の遅いスローな思考が必要とされる場面です。そしてそうした場面はかつてよりも多くなってきています。

私たちの社会はより複雑になり、社会の仕組みはさらに非直観的になってきています。理性の動きは遅く、頼るには不向きな状況もありますが、私たちの社会は理性に基づいて、マクロでみれば徐々に良くなってきました。動物と人間を大きく分けるものは理性であり、それに基づいて私たちは動物的な戦いを大きく減らすことができるようになってきています。

そうして徐々に社会は大きくなり、小さな集団ではうまく行っていた共感に基づく制度や道徳などは、その一部がすでにうまく動かなくなってきています。そうした背景もあり、『反共感論』など、共感を基にしない道徳への取り組みなどが増えてきているのだと思います。そうした背景もあり、理性は以前よりも重要になってきています。

実際、かつて啓蒙思想が主流だったころは、人間性 humanity といえば「理性」だと認識されていたと聞きます。しかしロマン主義の台頭や機械やコンピュータの出現により、人間性がいつのまにか「感情」や「情動」といった、人間の動物的な部分を示すようになってきました。

しかし本来、人間と動物を隔てるものは、人類だけが持つ理性だったはずです。だから人間性は理性を示すもののはずです。そして実際、着実な理性の歩みによって人類だけが社会をここまで進めてきて、機械やコンピュータといったものを発明してきました。

実際、Factfulness や Enlightenment Now で示されるように、人類の社会における暴力の数は減り、様々な疫病や貧困は減少傾向にあります。

ファクトフルネスより

一方、感情や直観で動く動物たちの世界は弱肉強食の世界であり、生命の多くが毎日、命の危機に瀕しながら日々の生活を送っています。

だから、こうした啓蒙思想や人間の理性について高く評価する声を改めて上げていく必要性を感じています。

かつての啓蒙思想の限界と新たな啓蒙思想

ただしここでの啓蒙思想は、かつての啓蒙思想とは少し異なる戦略を取る必要があるとも思っています。これは『ルールに従う』などで有名な University of Toronto の Joseph Heath が『啓蒙思想 2.0』などで言うような、新たな啓蒙思想を想定しています。

私たちが生きている社会は、自然と比べれば不自然で非直観的なように見えます。たとえば近代以前は、市場、代表制民主主義、人権、自由、平等などはクレイジーな考え方であり、人間性に反していると思われている、不自然で非直観的な概念だったそうです。

しかし、根気強い論理的思考や議論、実験を経て、今やそれらは私たちの標準的なマインドセットとなりました。女性に投票権があるのも当然となり、たとえば犯罪を犯したと思われる人に対して、周囲の人たちが直観的に罰や報復を与えることなく、推定無罪の前提に立って弁護を行うことは、私たちの理性が導いた一つの進歩です。私たちは、直観だけの議論を乗り越え、理性的な議論によって現代の人間らしさを獲得したと言えます。

かつての啓蒙思想は社会を大きく前進させましたが、その一方で人間の本能を理性で完全に乗り越えられると勘違いして失敗した部分があります。言い換えれば、当時の啓蒙思想は、理性的になればすべてがうまく行くというような考えの元、理性の限界を見定め誤ったほか、人間のファストな思考の有用性を過小評価していたとも言えます。

また、過去の啓蒙思想は過度にパターナリズム的で、啓蒙思想を受け入れない人たちに対して不寛容すぎたことも、反感を買う一因だったように思います。そうした理性の強制による反感から、エドマンド・バーグを代表とする保守主義の反動を招きました。さらに理性の限界を見誤ったことが原因で理性の一部の弱さを指摘されて、「理性や啓蒙思想すべてが間違いだった」という風潮を招いてしまいました。この構図は、2010年代の欧米におけるリベラル層の失敗に似ているところがあります。これがかつての啓蒙思想の失敗と捉えられます。

確かに理性はすべての問題を解決できるわけではありません。しかし理性は問題の解決の仕方を決めるうえでの整理を手伝ってくれます。たとえば、どういう場合であればファストな思考がより有用で、どういう場合であればスローな思考が必要なのかを示してくれるのは、スローな思考です。たとえば、エモい、という感情で動機づけられて良い場面もあれば、エモさで判断すべきではない場面(政治や制度設計など)がありますが、目の前の事態に対してどちらで行くべきかを教えてくれるのはスローな思考である理性です。その意味において、スローな思考である理性は、直観や本能、感情や無意識といったものに対して優位に置くべきものであり、その意味で啓蒙思想はいまだ有効であると考えます。

完全ではなかったにせよ、かつての「啓蒙思想 1.0」による進歩によって、私たちはヨーロッパや日本の中世時代にあった魔術的な思考や集団主義的な思考から抜け出て、大きな発展を遂げ、多くの幸福を生みました。そして少し前の時代よりももっと複雑になったこの社会では、より理性を重視すべきだと考えます。むしろ理性的に考えることができなければ、社会がうまく機能しなくなってきているように思います。

Paul Graham が「スタートアップは極めて反直観的だ」と言うときに、彼が従うよう勧めるのはある種の検証されたパターンのことです。それは直観ではなく、理性によって形作られたものであり、理性に従ったほうが良い、ということだとも捉えられます。

さらにここ数年で理性の復権が叫ばれ、かつ効果を出しつつあるように思います。たとえば:

  • 理性によってもたらされた、エビデンスに基づく医療や政策、教育の進歩について
  • Steven Pinker の Enlightenment Now! や Factfulness、Progress での、理性に基づく人間のこの数十年の進歩について
  • 効果的な利他主義 (Effective Altruism) や『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと』での、理性に基づく慈善活動について
  • 『反共感論』での、理性に基づく道徳論について

(※ これらの理性を重要視する考え方は「マクロで見ると社会は理性によって良くなっている/良くなれる」というものです。これらにはミクロな生活者の視点が抜けがちだという弱点はあるように思います。ただ、この視点を持ちながらも、ミクロで起こっている様々な問題も改善をもしていけるのではないかと考えています。また、これらの書籍で「啓蒙」と言ったときに、前提として西欧中心的な思考がある部分は批判的検討をされるべきだと思います。)

テクノロジを使って世界を良くしていこうとしているスタートアップの方々の多くにとっても、そのテクノロジが生み出された裏には理性があるはずです。そして新たなイノベーションを興してそれを広めていくうえでは、直観とともに様々な理性を総動員しているはずです。そうした意味でも、理性を重視する考え方はスタートアップやイノベーションに親和的ではないかと思っています。

そこで、私たちはかつての啓蒙思想で期待された「個人の理性」ではなく、以下のような啓蒙思想をより広めていくことが必要ではないかと考えています。

(1) 個人の理性だけではなく、集団としての理性や知識を重視する

(2) 理性の限界を認識したうえで、物理的、社会的環境という足場を活用する

(3) 社会や制度の革命を目指すのではなく、納得しながら漸進的に改良を重ねていく

Daniel Kahneman らの言葉を使えば、スローな思考がすべてのファストな思考を乗り越えられると信じたのがかつての啓蒙思想でした。しかしもし啓蒙思想が新たにその立場を復権するのであれば、ファストな思考とスローな思考をそれぞれ状況に応じて使い分ける必要があります。そして複雑化した社会においてより重要になってくるスローな思考をより頻繁に用いて、社会をより良くしていこうとしていく姿勢が必要なのではないかと考えています。

20世紀の科学の進展や、行動経済学等による人間性への知見を活かし、単に人間の理性だけを信じるだけではなく、人間の弱さを認識したうえで、より良い社会を理性で構築していけるような社会、その意味においてより蒙を啓かれた社会を、皆で創っていくべきではないかと考えています。

(1) 集団としての理性

Kant は啓蒙思想について『啓蒙とは何か』の中でこう書いています。

「人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである」
「みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである」
「自由を与えさえすれば、公衆が未成年の状態から抜けだすのは、ほとんど避けられないことなのである」

そして「自己みずからの悟性(理性)を使用する勇気をもて」というモットーが有名です。彼が望んだ啓蒙は、理性を公共的に使う自由でした。

カントやその他の啓蒙思想家の啓蒙思想を修正しようとするとすれば、彼は個人や自己というものを重視しすぎてしまったという点があります。一人一人が自らの理性を使用すれば、啓蒙的な社会がやってくるはずだと。Joseph Heath はこれを間違いだったと指摘しています。

このことは、啓蒙思想の理想をアップデートするとなったときに非常に重要だ。理性は自然のものではない。きわめて自然に反した(、、、)ものだ。同時にそれは、私たちを動物の心の束縛から抜け出させることができる唯一のものである。となれば、理性には私たちを自然状態から解放する可能性がある一方で、そのプロセスが簡単だと期待できる理由はまったくない。最初の啓蒙主義=啓蒙思想1.0の偉大な思想家たちは、ひとたび偏見と迷信を打ち破ったならば、どんなズレも後戻りも起こすことなく、理性がおのずと空いた座に収まるものと信じがちであった。現代の私たちはそうではないと知っている。だが、もっと重要なことに、なぜ(、、)そうでないのかを知っている。

なぜそうでないのかといえば、カーネマンの指摘するような速い思考に頼らざるを得ない部分があるからです。今の私たちは、人間が全体主義的な思想に惹かれる傾向や、リベラリズムがポピュリズムに敗北する理由を、反省や議論を通してよりよく知っています。そうしたある種の人間の弱さや理性の限界を、私たちは当時よりも良く知っているからです。

さらに Heath はこのように述べます。

新たな啓蒙思想の発展には、理性は多様な個人にまたがる非集権的で分散的なものであるという認識が必要だ。自分だけで合理的にはなれない。合理性は本来、集団的なプロジェクトである。(p. 28)

こうした集団を意識する思想はスローマンらによる『知ってるつもりー無知の科学』でも触れられています。

知性は個体の脳のなかではなく、集団的頭脳のなかに宿っている。個人は生きていくために、自らの頭蓋のなかに保持された知識だけでなく、他の場所、たとえば自らの身体、環境、とりわけ他の人々のなかに蓄えられた知識を頼る。そうした知識をすべて足し合わせると、人間の思考はまさに感嘆すべきものになる。ただそれはコミュニティの産物であり、特定の個人のものではない。

私たちが新たに啓蒙を進めていくためには、こうした集団の力を通して、集団の知性を引き上げていく必要があります。

(2) 環境に埋め込まれた理性

私たちの道徳の多くは、環境や状況によって左右されることが分かっています。理性的な人が正解を持っていたとしても、周りの人たちが不正解の意見を正しいとを言うと、理性的な人でも不正解な意見に賛同してしまう心理学実験が有名です。環境は人の理性を曲げてしまうことがあります。

一方で環境は人の知性を補助してくれるものでもあります。たとえば、Andy Clark と Chalmers による The Extended Mind の議論では、私たちの心は頭の中にあるだけではないのではということが、オットーとインガという架空の人物を例にとって説明されます。

その話の中で、オットーはアルツハイマー病を患っていて、博物館への道をメモに書いて持っています。一方、インガは健常な人で、博物館への道を自分の記憶の中に持っています。オットーはメモを見る前にも、自分は博物館への道を知っているという信念を持っていると言ってよいでしょう。またインガも記憶をたどる前に、自分は博物館への道を知っているという信念を持っています。このとき、オットーはメモという環境までを拡張して、心と頭脳があると言ってもいいはずです。このように、環境は私たちの知性を補助してくれる存在でもあります。

『大衆の反逆』などで有名なオルテガも『ドン・キホーテをめぐる省察』の中で「私は、私と私の環境である」と述べたそうですが、実際、私たちは決して私たちだけで完結するものではないはずです。

そうした環境を良くする重要性を Heath はこのように語っています。

ただ一つの真の解決法は、環境を変えることだ。もっと有効な対応は、現代政治の急速なペース、日々のニュースでの催眠術めいた反復、圧倒的な量のビジュアルな情報ソースまでもが、すべて理性の行使に有害であるという認識に存する。私たちの目的が本当に「正気を取り戻す」ことであるならば、いっそう高度な戦略を、理性の声が聞いてもらえる機会を得られるように環境を再構築する戦略を、推し進めていく必要がある。
啓蒙思想1.0の見方と、それが促す政治戦略の体系の中心をなす限界は、それが完全な個人主義であることだ。合理性の大規模な失敗に直面した際に、啓蒙思想の見方が提供できるのはせいぜい、もっとよく考えるように促すことくらいだ。それに対し、合理性が高度な足場によっており、この足場が外的かつ社会的であることを認めれば、理性は一種の社会事業だと考えられるようになる。少なくとも、ここから、私たち自身の理性を損なう環境を作り出すことの影響について、もっと真剣に考えていくべきである。もっと野心的になるならば、社会環境の現状を合理的思考にもっと役立てられるように改善することを目標とした集団行動に取り組んでもいいかもしれない。

ここで指摘されるように、環境はある意味、私たちの理性の足場架けとなってくれます。たとえば家のどこに鍵を置いたか毎回忘れる人は、置き場を毎回決めていれば忘れづらくなります。2桁同士の掛け算をしようとしたとき、近くに紙があれば私たちは紙で筆算をすることで、答えを出すことができます。このように私たちは自分の頭で考えるだけではなく、環境をうまく使って考えることで、より複雑な問題に答えを出すことができます。

環境をよくすることの例として、どのようなことが考えられるでしょうか。たとえば啓蒙思想2.0では、ニュースはセンセーショナルなものを垂れ流し、しかも繰り返すことになるので、ニュース番組で報道するニュースの長さを〇分以上にする、といった対策が一つ挙げられています。あるいは食事の取り放題であれば、最初のほうにサラダを置いて、健康に悪いものは最後のほうに置いたり、取りづらい場所に置いたりすることです。こうした環境を足場架けにすることで、私たちは食事の際により理性的になることができます。

しかし同時に、人の知性が環境に補助されるものであれば、私たちがこれから作る環境に対して倫理観と責任を持たなければなりません。環境が悪くなってしまえば、私たち自身が良い知性を身に着けられなくなる、という危険性もはらむからです。たとえばパーソナルレコメンデーションによってフィルターバブルが起こることを良しとするかどうか、といった議論がこれまでよりも重要になってくるとも言えます。

近年の自己責任や市場主義を重視するトレンドの中で、環境が人に影響する部分が過小評価される中で、どうやって自分たちのために環境を良くしていくかという視点はもう少し強く主張されても良いように思います。

(3) 漸進的に良くなることを目指す理性

イノベーションを破壊的イノベーションと漸進的イノベーションの2つに分類することがあります。確かに使われる技術や製品が、わずかな期間で根本的に変わることがあります。しかしそれを受け入れる社会が大きく変わることはあまりありません。イノベーションが破壊的なものであったとしても、社会や制度は漸進的に変化していく必要があります。むしろ抜本的に変わりうる社会や制度は危険性を孕みます。

現代の社会や集団は複雑であり、依存関係が多いため抜本的な改革は難しいケースが多々あります。しかし我々は継続的に改善していけるはずです。Popper のいうピースミール社会工学 (piecemeal social engineering) という形で漸進的に進めていくことで、革命を望むのではなく、できることからコツコツと問題解決を積み重ねていく社会を望んでいます。

しかし人はどうしても悪い状況に陥った時、「何か一つが悪い」と考えて、その一つの原因さえ解決できればすべて良くなると考えてしまいがちです。移民問題、医療問題、高齢者問題などの「ワンイシュー」を定めて扇動する人もいます。あるいは革命を望む人もいるでしょう。

ただ多くの課題には、銀の弾丸があるわけではありません。テクノロジが発展すれば解決できる、というものでもありません。メディアに取り上げられやすい極論を振りかざしても、しばしばそれは実現不可能です。であればやるべきなのは、理性に基づいて少しずつでも社会を良くしていくことです。

それは人にも言えます。メディアに出る天才や、すべての問題を解決するようなカリスマ経営者や、そしてカリスマ政治家、ヒーローを待望してしまいがちです。しかし私たちは一人の人としては不完全な普通の人たちが、集団で少しずつでも良くしていける社会を望みます。科学の積み上げや制度の積み上げを望みます。むしろ単純で美しい理念を基に、合理的かつゼロから制度を作る革命を望むことは危険だと考えます。

様々な複雑な制度は、人間の弱さを前提に作られています。さらにいえば、制度を作る人間も決して常に強いわけではありません。制度設計は間違うこともあります。そうした間違いを許容しつつも批判できるような、漸進的な進歩ができるシステムがヒーローよりも重要なはずです。なお、漸進的と言うと小さな改善ばかりを想像するかもしれませんが、漸進的な改善は大胆な改善も含んでいます。

この漸進的な進歩については、「ひらかれた社会」の二つ目の意味である「開かれた」の名前を持つ、Karl Popper の『開かれた社会とその敵』の議論につながってきます。

啓蒙思想の弱さ

一方で啓かれた社会を目指すときに、啓蒙思想が陥りがちな弱さというものもあるように思います。たとえば、過度にパターナリスティックになりすぎたり、自分たちの思想に合わない人たちを未開的な人たちだと排除したり、自分の考えたユートピアを他人に押し付けたり、あるいは理想を掲げて全体主義的に傾きがちというところです。

そうした弱点があるとしたら、どのように予防線を張れるのかを考えました。そこで開かれた社会の概念を導入してバランスを取りつつ、「ひらかれた」のダブルミーニングを使うことにしました。


2. 開かれた

「ひらかれた社会」の一つ目の意味は「啓かれた社会 (enlightened society)」、つまり啓蒙的な社会です。そして「ひらかれた社会」の二つ目の意味は「開かれた社会 (open society)」です。

開かれた社会と聞くと、以下のようなイメージを持つかもしれません。

  • 自由に対して開かれた
  • 機会に対して開かれた
  • 希望に対して開かれた
  • 幸運に対して開かれた
  • 議論に対して開かれた
  • 未来に対して開かれた
  • 多様性に対して開かれた
  • 可能性に対して開かれた

実際、オープンソースという言葉は一般化しましたし、近年ではオープンフィランソロピーといった、可能性へのオープンさを求める動きも出てきています。

しかし今回は、Karl Popper のコンセプトである「開かれた社会」に基づいて、批判に開かれた社会について考えていきます。

啓蒙思想的な意味での啓かれた社会にするには、より多くの自由と合理性、平等と人権、寛容を保護し、多様な個人に対して開かれた社会である必要があります。理性を公共のために行使する自由があり、合理性と批判に基づく判断を評価し、そしてマジョリティの意見に対して異を唱えらえるように、多様性と寛容があり、かつインクルーシブな社会でなければ、より一層の進歩を実現できません。

Popper が『開かれた社会とその敵』で詳細を語っていますが、開かれた社会とは集団的で呪術的だった『閉ざされた社会』と対比して、個人が決定に直面する社会だとされます。閉ざされた社会は集団が優先されて個人の意見を表明できないため、反省することや改善することが叶いません。

一方、開かれた社会は個人が合理性に基づき、批判を通した漸進的な改良ができる社会です。また、開かれた社会でありつづけることは、かつてのナチスドイツのような全体主義的な流れを止めたり、かつての共産主義圏のような「計画に基づくユートピア」に対抗できる仕組みでもあります。

多様性に開かれることがなぜスタートアップが作り出す社会において重要なのかと言えば、それは多様性に対して寛容であることが、次なるイノベーションにとっても重要だからです。たとえば天動説を唱えたガリレオは、当時の地動説が常識の中で異端的な発想をしていました。そしてそれが進歩をもたらしました。

スタートアップはスタートアップはある意味、周りの人たちと異なる考え方をするからこそ、そして常識に対して批判的であるからこそ急成長することができます。スタートアップはある意味異端的な存在であり、それを主張して実行できる程度には寛容的な社会であるということです。その多様性や批判を許容する環境があるからこそスタートアップが可能であると言えます。今後スタートアップが続々と生まれてくるためには、少なくとも経済面や文化面での多様性を維持し続ける必要があります。

また開かれた社会は、完全なものは存在しないがゆえに、常に反駁と批判をされる可能性に開かれている社会です。ユートピアを目指す大規模な革命ではなく、ピースミールで漸進的な改革によって、トライアルアンドエラーを経ながら漸進的に良くしていける社会です。ときには間違えつつ、常に不完全でありつつも、常に漸進的な改善を目指す社会が開かれた社会であり、そのため「Make the world better place」の「より良さ」について議論したり、実験と仮説検証をしながら進むことができる社会です。そしてそのオープンさは、未来の社会に参画する未来に生まれる人たちに対して、現在の私たちの説明責任を果たせることに繋がります。

仮説は反証されない限りにおいてとりあえず有効であり、度重なる厳しい反証テストや批判的検討を経ることで仮説の信頼性(強度)が上がるとされる、という考え方は科学哲学で Popper の考えを学んだ人であれば知っていることでしょう。この立場に立てば、反証が実質的に不可能な理論は危険であるということになります。こうした反証や反証可能性、批判的合理性を重んじること考え方を、Popper は科学だけではなく社会にも応用しているようにも思います。社会が良くなるためには仮説検証のプロセスが必要で、社会は合理的な批判にさらされる必要があるという考え方です。

再度振り返ってみれば、Popper はどんな理論でも間違いうるという可謬主義(および批判的合理主義)の立場を取ります。彼はその「どんな知識も間違いうる」という考え方を科学だけではなく、社会にも適用して考えます。それが開かれた社会の概念に繋がってきます。

開かれた社会は間違いに開かれた社会です。そのため絶対的に盤石な基礎を持つわけではありません。常識だと思っていたものが反証されるかもしれないからです。もちろん、強度の高い基盤を持つことはできますが、100%間違いがないかというとそんなことはありません。

一方、閉じられた社会は構造化されていて、変化がなく、安心をもたらすかもしない社会です。ある意味それは全体主義的な社会とも言えます。政府や強者が「それは正しい」と言えば正しい社会であり、間違うことはありません。しかしその分進歩もありません。

開かれた社会は間違いを認めることと批判を受け入れることで進歩を得られますが、同時に、自分たちの基盤がゆらぐ不安や、自分たちが発露せざるをえない意思に対して批判を受ける不安があります。でもそれは人類が人類であるために払うべきコストだとPopperは考えます。これは『開かれた社会とその敵』でも言及される「文明の圧迫」や、フロムの言うような「自由の不安」に通じる考え方です。

「良いことを増やす」ことと「悪いことを減らす」ことは、似ているようで実は大きく違います。たとえば Popper の指摘する通り、単一のユートピアという理想を目指してしまうと、全体主義に陥る可能性があります。それよりも漸進的な改善ができるように、常に批判に開かれている社会であることを目指したほうが最終的には社会全体は良くなっていくはずです。最大多数の最大幸福はなせないかもしれませんが、最小不幸はできるかもしれません。最善の人を選ぶことができる社会ではなく、悪しき人を解任できる社会はなしうるかもしれません。完全を目指すのではなく、可謬であるものの合理的討論により反駁を許す社会、そのための寛容を保ち続けられる社会を作ることが、これからのスタートアップにとって重要な基盤となるのだと思っています。

新たなユートピア像を作ることを『隷属なき道』のルトガーらは求めているようですが、いかなるユートピアも仮説として持つことができるけれどそれらに対して批判的であることができる社会が、ある種のユートピアだと言えます。

一方で、Popper の開かれた社会には多少の修正が必要だと考えています。Popper は開かれた社会を「in which individuals are confronted with personal decisions(個人が自らの個人的な決断に直面する社会)」という風にしていました。これは Kant のように、個人の意思決定に大きく依拠しているため、Heath による指摘を踏まえたうえで、もう少し集団をうまく使う風に修正していくと良いのではないかと考えます(ただし集団主義になるのではなく)。

Popper もそのように考えていた形跡があり、『開かれた社会とその敵』以後に書かれた『よりよき社会を求めて』の中で、Popper は

「われわれの客観的な推測知は、いつでも一人の(、、、)人間が修得できるところをはるかに超えでている。それゆえ、いかなる権威も存在しない。このことは、専門領域の内部においてもあてはまる」
「新しい原則は、学ぶためには、また、可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさに自らの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である」
「誤りを発見し、修正するために、我々は他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ、とりわけ、異なった環境のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた、寛容に通じる」

とも述べており、個人ではなく集団での進歩について配慮している点が見受けられます。

こうした議論も考慮して、今回「ひらかれた社会」という言葉を採用しました。


「より」ひらかれた社会へ

ここまで、「ひらかれた社会」という言葉を選んだ理由を解説してきました。

今回のミッションを単に「ひらかれた社会」ではなく「よりひらかれた社会」とした理由は、「より」を付けないと我々の現在の社会がまだひらかれていないという感覚をもたらすからです。今現時点でも、多くの面において、私たちの住む社会は、かつてより随分とひらかれた社会になっています。

また啓蒙思想は常に過程の段階にあり、到達するものではないという態度から、「より」という言葉を使っています。カントもまた、『それでは「われわれはいま、啓蒙された時代を生きているのであろうか」。その問いには、「そうではない。しかしいまは啓蒙されつつある時代だろう」と答えよう』と「啓蒙とは何か」の中に書いています。啓蒙的な社会とは常にアップデートされ続けている社会のことです。(なお、啓かれた社会の論者には Habermas が、開かれた社会の論者には Popper がそれぞれいますが、両者ともにカントのリベラルな啓蒙思想を受け継ぐ哲学者と位置付けることも可能です。)

Popper 的な開かれた社会も閉ざされた社会の議論でも、いずれも相対的なものであることが述べられており、完全に開かれた社会があるわけでも、完全に閉じられた社会があるわけでもないことが指摘されています。ですので、私たちは相対的な中で「より」開かれた社会を志向していくべきではないかと思っています。

夢想された啓かれた社会と開かれた社会のアップデートをするべきという意味でも「より」というものを付けています。

まとめ

よりひらかれた社会は、これまで以上に多様性と自由と寛容を重んじ(開かれた社会)、その社会に生きる人同士が学び合うことで、集団的な理性を作り上げ、社会の漸進的な進歩を信じます(啓かれた社会)。

その社会を実現するためにゆとりを作る必要があります。人々にとってのゆとりを作ることで、多くの人が挑戦したり、その人が持つ潜在能力を最大限自由に発揮したりできるようになり、人の幸せにつながるはずです。

そんなゆとりを作るために、今でも多くのイノベーションが必要とされています。スタートアップはイノベーションによって、社会に対して、自由と寛容、理性と進歩、そして意志としての楽観を提供することができると考えています。そして逆方向を考えてみても、社会から私たちに自由と寛容、理性と進歩、意思としての楽観が与えられることで、より多くのスタートアップやイノベーションが生まれてくると信じています。そのために、私たちはそうした社会を作ることを見据えながら、スタートアップを支援していきたいと考えています。

インパクトチェーンで言えば、以下のように整理できます。

FoundX では、よりひらかれた社会を作るスタートアップを支援します。決して完璧にはなれないせよ、私たち自身もまた、よりひらかれた社会に生きる一人の人間であることを体現できるよう、漸進的かつ理性的に進歩しながら、かつ開かれているように努力したいと考えています。そして我々自身がひらかれた社会の一員であり続けるため、自然科学や技術やだけではなく、社会科学系や人文系の研究を理性的に活かしたいと考えています。そうしたバリューについては別記事でまとめようと思います。

ここには書いていない様々な議論もありましたが、今回ミッションを定めた背景は以上の通りです。もしこうしたミッションに共感する人がいてくださったのであれば、ぜひ FoundX の取り組みの中でお会いさせてください。


補足

社会的なミッションを設定することの戦略的メリット

内閣府が実施した国際調査によると、日本の若者は他の国に比べて、社会を変えられると思っていないようです。

しかし同時に、自国の役に立ちたいという気持ちは他の国に比べても高く出ています。

そして本レポートでは、自らの参加により社会現象を少しは変えられると考える若者は、自国のために役立ちたいという思いが強いため、若者の社会形成・社会参加に関する教育をはじめ社会形成への参画支援を一層進めることが重要だとしています。

社会的なミッションを持つスタートアップを起業したり、あるいはそのスタートアップに参加することは、若者にとっての有意義な社会への参画となるはずです。

こうした背景からも、スタートアップが社会的なミッションを設定することは、他の国のスタートアップに比べても受け入れられやすいと思いますし、そうした社会的なミッションを定めることが、他の国のスタートアップと比べたときの優位性となって出てくるのではないかと思っています。

ゆとりの英語 scholē について

今回、ゆとりという言葉の英語版には scholē (スコレー) を採用しました。

スコレーはギリシャ語で「閑暇」などを意味する言葉です。しかし単なる暇な時間というよりももっと前向きな意味合いを持ち、たとえば思索や対話、自己充実や主体的活動のための時間という意味を持っています。また scholē は school の語源にもなったとされており、こうした scholē の時間があったから、ギリシャ哲学が発展したともいわれています。たとえばアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の第十巻では、幸福はスコレーに依存するのではないか、という考えが表明されています。(なお、同書の英語版で scholē は leisure と訳されることが多いようです。)

今回のミッションで用いている「ゆとり」は時間的なものだけではなく、お金や心の部分まで含んでいますが、scholē では時間の概念しかカバーできず、お金や社会的資本の部分が漏れてしまいます。しかし leeway や slack、leisure といった訳語は、今回示したいゆとりと少しニュアンスが異なりそうなため、最終的に scholē を採用しました。

ただし古代ギリシャの scholē は奴隷制度の支えによるものであり、一部の特権的な人間がスコレーを享受していました。決してそれを再現したいというわけではありません。その意味でも for all people という風に all をつけています。

よりひらかれた社会を作るためにはゆとりだけで良いのか?

もちろん、ゆとりだけでひらかれた社会が実現できるのか、というと、そんなことはないように思います。ゆとりや時間があるだけで、人々がもっとよりひらかれた社会のために行動するような時間になるかどうかは分かりません。例えば、イノベーションによって生まれた新たなゆとりを、すべてソーシャルゲームなどに使うのであれば、よいひらかれた社会は実現できません(※ゲームをするなと行っているわけではなく、ゲームだけに使われると良くないのでは、ということです)。

ゆとりだけではなく、機会も重要です。たとえば考える機会や学ぶ機会をきちんと生んでいく必要があります。スタートアップにはその機会を提供したり、機会を作り出すような環境をデザインしていくような形であって欲しいと考えています。実際、アントレプレナーシップは「自らがコントロールできる資源を超えて、機会を追い求めること」だとも言われます。「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉もあり、機会も重要ではないかと考えており、「ゆとりと機会を生み出す」が最初のバージョンのミッションでした。

しかしこれもスタートアップでどうにかするというよりは、社会制度としてどうにかしていくほうが良いように思いました。そして機会があったとしてもゆとりがなければその機会を見つけることも、活用することもできないことから、今回は機会という言葉を外しました。

また機会が提供されるだけでは、その機会を有効に活用できるとは限りません。平等に機会があるとされたとしても、そこへ至るために資源が必要であれば、実質的には不平等です。たとえば世の中には教育機会に溢れているように見えますが、多くの人はその機会を享受することができませんし、そもそも気づくことができません。

こうした不平等はゆとりの不平等から起こっているように思います。まず解決するべきはゆとりだと考え、ゆとりのほうを残しました。

再配分も一つの問題として考えています。ここでの再配分という言葉は、ロールズ的な分類に従って、効率のための再分配 (reallocation) ではなく、公正のための再配分 (redistribution) です。 『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか』でも、ユートピアの最大の難関は生産力を上げたり富を増やしたりすることではなく、再配分の問題である旨が指摘されています。

仮に国家公務員にゆとりが生まれれば、そうした社会制度を設計したり、あるいは学ぶ時間が提供できるはずと考え、私たちのミッションから再配分の問題は外しています。

ひらかれた社会となめらかな社会

『なめらかな社会とその敵』という本が話題になりましたが、そのタイトルの元となったのはPopperの『開かれた社会とその敵』であると思います。なめらかな社会は個人ではなく分人という概念を提唱していますが、ひらかれた社会はもう少し集団寄りの話になります。

持続可能な社会のためには、よりひらかれた社会が必要

ミッションを考えるうえで SDGs (Sustainable Development Goals) という世界的なテーマに頼ることも考えました。たとえば「持続可能な社会を創る」というものです。実際、現在も気候変動や不平等をはじめとした、長期にわたる複雑で厄介な (wicked) 課題が山積みになっています。

しかし持続可能な社会は技術の発展だけで成し遂げられるわけではありません。それを使う人間や社会も成長いていかなければなりません。社会が複雑になり、課題もまた複雑になるにつれて、それらを直接的なアプローチで解決できないように思えます。

また、そもそも持続可能な社会にしていくためには、これらの課題についてちゃんと討議や熟議できる環境が必要です。前提となる平和が必要ですし、十分な議論ができる時間や解決のために動ける金銭的なゆとりが必要です。さらに、公共圏の問題や、共有地の悲劇の問題は、単純なやり方では合意を取ることが難しいため、様々な知識を通して議論していく必要があります。つまり、持続可能な社会をきちんと議論していくうえで、社会をより啓蒙していくということが前にもまして重要ではないかと考えています。そこで今回は「よりひらかれた社会」のほうを採用しました。

ゆとりを作った人が儲けても良いのか

現在の資本主義において、持続可能にしていくにはビジネスとして稼ぐほうが事業として持続可能になると考えているため、解決される社会課題の大きさに応じた利益が、経営者や執行者に与えられるべきだと考えています。つまり大きな社会課題を民間で解決することができたのなら、その人は大きく儲けても良いと考えています。願わくば、そこで得た個人の金銭的なゆとりを、寄付などの形で社会や環境に還元してほしいと思っています。

ゆとりという言葉を使うことのデメリット

ゆとりという言葉を使うことで、計測が難しくなるというデメリットがあります。時間であれば、どれだけ効率化できたか、といった形でその進捗を計測可能です。しかし上述の通り、効率化だけを目指してしまうことは間違った道に進む可能性が高そうなので、計測の容易さという観点で時間を選ぶのも問題ではないかと考え、ゆとりのままにしています。ゆとりの計測の方法はおって考えることになります。

人々にとってのゆとり

英語版には schole for all people ということで、for all people という言葉を付けています。これはゆとりを単に個人のために作るのではなく、多くの人たちのゆとりを作ってほしいという願いを込めて付けています。

ゆとりとスタートアップ

スタートアップがゆとりを生むための最適な手段の一つかどうかを検討する必要があります。もしゆとりを生むことが他の手段でもっと効率的に達成できるのであれば、その他の手段を採用するべきだからです。

既存事業の拡大によるゆとりの拡大はおそらく大企業のほうがしやすいでしょう。しかし新たなイノベーションを起こす手段として、スタートアップという形態は他の新規事業などと比べて起こしやすいと考えています。成果物として新たなゆとりを生み出す可能性が高いのがまずスタートアップだと考えています。

またビジネスの成果物としてゆとりを生むだけではなく、そのアソシエーションで働く人たちのゆとりが拡大しているかどうかも重要な観点として挙げられます。

昨今の日本では、働き方改革という御旗のもとに労働時間の短縮などを行おうとしています。もし本当に労働時間を短縮しようとするのであれば、単に効率的に仕事を終わらせるだけでは不十分であると考えます。むしろ、短い労働時間で高い価値を生み出せるように、ビジネスモデルの変更こそが本丸なはずです。しかし、そうしたビジネスモデルの変更を既存の組織で起こそうとすることは至難の業です。そこでスタートアップという新興企業が、何度も失敗しながら試していくモデルのほうが適しているように思います。

また、労働力不足が課題になっていますが、労働力を増やそうとしたとき、既存の人事システムが出来上がってしまっている既存企業では対応することが難しいことが多いと聞きます。たとえば体力の落ちた高齢者でも能力が発揮できるビジネスや、女性の社会的能力を活かせるビジネス、時短などのフレキシブルな働き方に対応できるビジネスなどを生んでいくことで、彼ら彼女らの潜在能力を十全に発揮してもらい、金銭的な資本を受けたり、社会資本を身に着けてもらい、ゆとりを生むことができます。これもスタートアップのほうがやりやすいのではないかと考えています。

これらの理由から、ゆとりを生むためにスタートアップ支援は最善の手法の一つであると考えています。

啓かれた社会とゆとり

ゆとりと啓かれた社会の関係性についての検討が必要だと考えます。

まずゆとりがあることで、スローな思考である理性を意識的に使うことができる余裕が生まれます。

逆に、ゆとりがない場合はどのようなことが起こるのでしょうか。その一例として、貧困に陥った人はお金にまつわる心配や睡眠不足などで、IQが13ポイント落ちることが知られています(欠乏の行動経済学)。たとえば13ポイント違うと、「平均」が「優秀」に分類される可能性があり、逆に13ポイント下がると「平均」から「知的障害との境界線」に分類される可能性があります。これは貧者と富者の違いではなく、同じ人が欠乏状態に陥ったらこれぐらいの差が出てくるということです。そのため、それなりに頭が良くて、様々な物事を考えられる人でも、貧困に喘いでしまえばいわゆる「頭が悪く」なります。つまりゆとりがなければ、理性を使おうにも使えないような状況になってしまう、ということです。その結果、個人の人生として新たな貧困の連鎖になるだけではなく、投票行動などで自分の意思を社会に対して示すことも難しくなるでしょう。

啓かれた社会とスタートアップ

理性よりも直観を、頭よりも身体を重視するのは、いわゆる「頭の良い」エスタブリッシュメント層に対する不信と反感がその背景にあるとも考えられます。世界的に経済的な中間層が徐々に減っていき、金融危機などでエスタブリッシュメント層への不信が溜まる中で、エリートによる搾取という反感が生まれるのもやむを得ない状況だと思います。私個人の体験としても、いわゆるエスタブリッシュメント層の人たちが、Brexitやトランプ大統領の選挙で投票した人たちに対して、「バカだ」と蔑むような現場を何度も見てきました。多少なりともエスタブリッシュメント層に属する東京大学関係の人たちであれば、そうした態度を取ることではなく、多くの人たちに便益をもたらし、考えてもらうためのゆとりを与えること、それが今、少なからず東京大学の名前を持ってスタートアップを始める人たちにとっても求められる態度ではないかと考えています。

理性を使うことで経済成長と再分配が実現でき、多くの人にゆとりをもたらすことができることを、スタートアップという手段を通じて見せていくことが、一つの理性の復古の方策であり、漸進的な人間の進歩を止めることなく進んでいくことができるはずです。

開かれた社会とゆとり

ゆとりがあることで、多様性に対してより寛容になることができます。自由と人権をより。討議をすることも、お互いを合理的に批判をすることもできます。そうして漸進的に社会を良くしていけるはずです。

開かれた社会とスタートアップ

ピースミールで漸進的な進歩をスタートアップは提供します。そしてこれからも異端的なスタートアップが継続的に出てきて進歩を達成するためには、開かれた社会で居続ける必要があります。

そしてリーンスタートアップなどで仮説検証の有効性について学んでいるスタートアップの皆さんにとっては、開かれた社会は親和性がある考え方なのではないかと考えています。

また、テクノロジと全体主義の相性の良さがある点にも注意が必要です。スタートアップのテクノユートピア思想は、全体主義へと容易につながります。戒めるうえでも。理性を行使する自由を担保するには開かれた社会である。我々は間違います。システムは最適化できても、社会は常に最適化ができず、漸進的な改良を目指したほうが良いことを。

開かれた社会とソロス

投資家として有名な George Soros は Popper に影響されて、Popper の方法を金融市場で利用できるように発展させ、成功できたと彼自身が述べています。彼の主要概念は以下の3つです。

  1. 誤謬性 (falibity)
  2. 相互作用性 (reflexivity)
  3. 開かれた社会 (open society)

なお、彼は『グローバル資本主義の危機』の序論の中で、市場原理主義が今日においては開かれた社会の脅威になっている点を指摘しています。政治への幻滅が市場原理主義を育み、市場原理主義の台頭が政治の失敗を導くという悪循環の中で、市場メカニズムと利益追求願望が、それらとは関係のない活動分野(道徳的価値観、家族関係、美的および知的成果等)にまで侵食してしまっているという議論です。興味があれば読んでみて下さい。

東京大学とのビジョンとの整合性

東京大学はその基本理念に 「卓越性と多様性の相互連環」を置いています。上述の通り、多様性を維持するためにはひらかれた社会である必要があり、東京大学のビジョンと FoundX のミッションはアラインしているものと考えています。またイノベーションを可能にし、広げるための研究も同時に行うことで、東京大学が目指す「知の協創の世界拠点」の計画に貢献できるものと思います。

広すぎて感情が湧かないという批判

今回のミッションは広範なものです。その分、フレーミングが難しい、つまり感情を引き起こすことが難しいという課題もありました。これについては、関連して Joseph Heath の『啓蒙思想 2.0』でこのようなことが述べられています。

ここに進歩派が直面している中心問題がある。進歩派の政治情勢および政策提案はたいてい保守のそれよりも、本来フレーミングがしにくいことだ。効果的なフレーミングは感情の共振を作り出す。

フレーミングができなければ、興味を持ってくれる人は少なくなるでしょう。しかし感情を引き起こすためのフレーミングを優先してしまうと、副作用があることも同書では指摘されています。

今回のミッションは理性を訴えかけるものですので、感情を優先することも憚られました。結果、今回のような長い説明を加えることにしました。

その他のアクセラレータのミッションについて

参考までに掲載しておきます。

なぜ自分がスタートアップをやらないのか、という疑問

こうした支援側にいたときに良く聞く批判として「なぜ自分でスタートアップをやらないのか」というものがあります。その批判ももっともだと思います。

もちろん自分たち自身でスタートアップをすることを検討したこともあります。しかし現時点では、支援側にいたほうが自分の能力は活かせそうであるというのと、この仕事を最もうまくできるのは自分たちだと考えていて、しばらく支援側にいようと考えています。