カンポンさんの一言説法 〜淋しさと心の拠り所〜

タイに住む一人の障害者、カンポンさん。

彼は24歳の時に事故に遭い、全身麻痺。

苦しみを背負って生きてきました。

しかし40歳の時、気づきの瞑想に出会い

「体に障害があっても、心まで障害をもたなくてもいい」

と気づき、人生が一変します。

お坊さん以上に、お坊さんのような深い学びと気づきを

シェアしてくれる存在となり、人々は彼を

「苦しみを超えた人」と呼びます。

そんな彼の言葉です。

心の拠り所

気づきを高めることというのは

心の拠り所を探すということです

なぜなら

私たちは知っていますか?

今後の人生はどうなっていくのか

ということを

時々私たちは

どこにも行けなくなってしまいますよ

家の中にただいるしかなかったり

病気やケガになってしまったり

点滴を受けるためにベッドの上に

横わっていなければならなかったり

どこへも行くことができなくなってしまいます

そんな時には

私たちはどうしたらいいのでしょうか

インターネットもできないかもしれませんよ

電話もできないかもしれません

寂しさでどうしようもなくなってくる

そういう人はとてもかわいそうですね

もし気づきというのがあれば

淋しさはありません

自分で自分の問題を解決できるからです

自分がどこにも行けなくなり

動けなくなったとしても

寂しくはありません

私たちは年を取り

だんだん体が動かなくなって

病気になり

誰も訪れてくれる人がいなくなっていきますよ

そうなったら

淋しさがすぐに訪れてしまいます

でも気づきというものがあれば

気づきによって自分を見守ることができれば

それに熟練してくるようになれば

気づきというのが

私たちのいのちと共にあることが

できるようになります

淋しくありません

一人でいても

寂しくないのです

少しづつ、少しづつ

自分を見守っていきましょう

しっかりと自分が

今原因を作ることに専念すること

結果がどうなるか

心配しないこと

そうしていくと

内側に拠り所ができてきて

心の変化を感じることができるでしょう

良きことをただ積んでいく

そうして

私自身の心が満たされていくこと

ぜひ体験していただきたいですね

淋しいのは当たり前? 淋しさは苦しさ

カンポンさんと出会って

いろんなエピソードを聞いたりして

私の中の当たり前だったことを

崩してくれたものの一つが

「淋しさ」

ということでした。

以前私は、

淋しさというものに

あまり洞察を向けていませんでした。

むしろ

淋しさは人間に自然に起こるものだから

別になくす必要などはないとも

感じていたのです。

しかし

それは淋しさをしっかりと

感じていなかったから

頭で言えることであって

淋しさにハマってしまうと

これはまた苦しい。

私の場合は

自分の心を洞察していくことで

幼い頃に父を失った淋しさが

心にあることに気づいた時に

「あー、淋しさというのが

こんなに苦しいものなんだ」

ということに

だんだん気づいていきました。

ただその苦しさに気づいた頃

こんなエピソードがありました。

淋しさはどこから起こる?

カンポンさんがまだ

講演にとびまわっていた頃です。

その頃私は東京に住んでいて

ちょうどタイに来ていたので

バンコクの近郊での講演に

タイの人たちと一緒についていきました。

その車の中で

カンポンさんが私に

「ファーさん

何か日本の歌を歌って!

あー、スキヤキがいいねー」

と、おっしゃいました。

スキヤキソング

そう、「上を向いて歩こう」

世界的に有名なこの曲。

タイでも有名で

もちろんカンポンさんもご存知の曲。

私はリクエストにお答えして

歌いました。

そうしたら同乗していた

タイの方が

「この曲は何を歌っているの?

どういう意味なの?」

と尋ねてきました。

私はしばらく考えて

歌の意味を感じ取ってみて

「淋しさ」

と答えました。

すると

その方が「ふーん」

といったような感じで

ちょっとピンとこないような感じでした。

曲だけからくるイメージと

違っていたようです。

そしてその方が

カンポンさんに

「カンポンさん
『淋しさ』はどこからくるのですか?」

と、唐突に尋ねられました。

するとカンポンさんは

間髪入れずに

「思考」

と、ただ一言

おっしゃいました!

それにみんな

ワハハハー!!

と笑って

「そうだよねー、サートゥ」

(サートゥとは「善哉」という意味で

仏法の話の締めくくりなどに言います)

と何気なくその場は

過ぎていきました。

単なる思考に過ぎない淋しさ

あまりに単純明快で

拍子抜けしてしまった

カンポンさんのバッサリ!

でしたが

本当は、淋しさが起こる時というのは

気づきなく思考にはまっていってしまい

感情が自分を覆ってしまっている時なのですね。

淋しさを洞察できずにいた段階から

淋しさをしっかりと受け止め

さらにその淋しさのカラクリを知って

ちゃんと手放す

私の中で

そういうプロセスが起こってきました。

あのカンポンさんの

「思考」

が、なければ

気づくということの大切さに

価値を見いだせていなかったと思います。

淋しさを温かな見守りに変えていく「気づき」

さて、カンポンさんの今日の説法。

一人でいても

気づきとともにいることで

淋しくないということ

どんなにたくさんの友達がいても

最後は必ず

一人になりますね

一人になることに慣れていないと

いざ一人になった時に

「淋しさ」の奴隷になってしまう

今日の説法は

そのことをお伝えしたかったのでは

ないかなと思っています。

気づきの瞑想は

他の誰にやってもらうことはできません

ちゃんと一人になって

自分でやるしかないのですね

どんなに家族や

親しい友人がやっていようと

助けにはならない

ちゃんと一人になるトレーニングが

瞑想なのだと思います。

心の拠り所は

外側にはない

そう気づいたら

淋しさは自然と

温かな見守りへと

変わっていくのでしょう

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Originally published at urasakimasayo.blog.jp.