「善いこと」は「正しいこと」か?

非文系の徒然なるメモ

白味噌?赤味噌?

まず、とても日常的な例を出してみる。あなたの家は白味噌で味噌汁を作っていた。結婚したら、パートナーが赤味噌で作っている。両者ともそれが「個人的善」なのであるが、どちらに「正誤」があるわけではない。ただ、経験の違いでしかない。しかし、それでも夫婦げんかは始まる(こともある)。「俺の家では白味噌だったんだ!」と個人的善を「正しいこと」と置き換えて争いを始める。なんと不毛なことか、と頭では分かりつつも、五十歩百歩のことを様々な局面で人間はしている。

本稿で言う「個人的善悪観」とは、個人が生きてきた経験のなかで培われた価値観の集合である。一方、「社会的通念」としての「正誤」(これを社会的正誤と呼ぶことにする)はまた別物である。社会的に「正しい」「誤り」だとされることは様々にある。この「社会」とは狭くても広くても良い。狭義には上記のような家庭内を指すし、広義には例えば日本を指す。異なる価値観の人間が存在するある一定の範囲のことである。言葉の定義をしたところで、個人と社会の価値観の関係性を、非文系の私が試行として思考してみたい。

「社会的正誤」は、自分が善いと思ったことを行動に移す際の個人の判断基準とも言える。行為は必ず自分の外の世界に対して影響を与えるからだ。自分が善いと思って社会的にも正しいと考えられることは、進んで行為に移すだろう。もちろんここで言う「社会的正誤」は時代や状況によって変わりうる曖昧なものではあるが、例えば「殺人は善くない」という道義的発想(これも議論の要するところであるが本筋ではないので触れない)を持ち、人を殺さずに生きることは社会的にも「正しい」と言える。もっと簡単にいえば、正誤は「普通か普通じゃないか」とも言い換えられる。「殺人が良くない」と考え、行わないことは「普通」であろう。

このように、個人的善悪観と、社会的正誤観は、自分も含め多くの人はそれが「一致している」と思い込んで生活している。それもそうであろう、個人の善悪観は、基本的に属する社会によって育まれる。しかし、個人的善悪観が社会的正誤観に一致すると思っていも、それは結局その「社会」においてのみ機能する意識なのだ。

赤信号、みんなで渡れば怖くない…?

例えば、横断歩道が赤信号で渡るか、という行動は東西の差が大きいようだ(正確な統計をとった人がいるのか知らない)。ちなみに私は大阪出身、東京在住だ。大阪では車が明らかに通らなければ赤信号でも横断歩道を渡っていた。それが「普通」だったし、「正しい」ことではないにしても「誤りではない」と思っていた。東京に来た当初、車も通らないのに赤信号でぼーっと立っている人々に違和感を覚えた。もっとも、今では私も同じようにぼーっと立っているのだが。
さておき、大阪人が赤信号でもずんずんと渡っていくのを見て、それに拒否感を覚える東京人は少なくなかろう。「子どもが見てたらどうするんだ」「規則は守らないと」などと、自分が培ってきた「善悪観」を「正誤観」に置き換えて忠告をいただくこともあろう(実際私もありがたい忠告を何度かいただいた)。

このように、「個人的善悪観」は、その育った社会を一歩出た途端、「社会的正誤観」と一致するかどうかは怪しくなる。これは国際交流では常識的な話だ。自国での常識が他国で通じないことは普通だ。しかし、日本で生活して同じ日本語を話しはするが、「善悪観」や「正誤観」を共有していない隣人とどうやって折り合いをつけるかということは、気づきにくいが重要な問題であろうと思う。それがこのテキストを書く理由だ。

子どもから大人へ

子どもの頃は、自分の善悪観をそのまま正誤と置き換えて良かったはずだ。もしくは、周囲の正誤を自分の善悪観へそのまま導入してもよい。どちらであっても周りの大人たちに褒められただろう。思春期になり反抗期を迎えると「周囲の正誤」を「価値観の押し付け」に感じ始める(個人差はあるだろうけど)。そして大学に入って育った地域以外の友達と付き合い始めると、さらに価値観は広がり、自分の培ってきた善悪観が個人的なものであり、社会全体へ適用できるものではないと(無意識にでも)覚え始める。

しかし、それでも長年培ってきた善悪観だ。ふとしたことで他人の行動に「それは間違っている」と言いたくなったりする。「車がなくても赤信号渡っちゃダメでしょ」と言いたくなる。ましてや、冒頭の例のように生活の範囲が密接する人間に対しては、より一層「善悪観」を押し付けがちになる。洗濯はああだ、休日の過ごし方はこうだ…等々。それは分かる。しかし、それはやはり慎重を期すべきであろう。ではどうすべきか。

善悪観と正誤観の切り離し

私が考えてみたところ、以下の様な図となる。左から右へのシフトを想定している。

理想的には、右のように個人的な善悪観と正誤を一旦は切り離すことだ。他人の行動を見て、何かポジティブなりネガティブなりの感情を持ったとしよう。しかしそれがすぐ「正しいか誤りか」の判断につながってはいけない。つまり「この人の行為には、この人なりの理由があるのだろう」と考える態度だ。この態度はおそらく「理想的」である。言うは易し行うは難し、である。どっぷり漬かった価値観を一旦は置いておくというのは難しいが、無用な争いを避ける手段ではあろう。人は個人の善悪観を正誤に置き換えて争いをする。国家間でも、家庭内でも、二人の人間がいればこの争いは生じ得る。

上図でいえば、①と②、もしくは③と④は対立しやすい。つまり、あなたが「善いこと」だと思って「正しい行為」をして(①)も、それを「誤り」だとする(②)人はいる。逆に、あなたが「誤り」だと考えて実行しない行動(③)でも、それを正しいと考えて行動する(④)人もいる。
最初の味噌汁の例でも「私の家ではこれが普通だったのだ」と言ってしまいたい衝動を、一旦置いておけるだろうか?…私は自分を振り返ってとても難しいと感じるが、それでも志向することは続けたいと思う。