無知は罪か
非文系の徒然なるメモ
昨今、様々な局面で「無知は罪」という雰囲気が通奏低音のごとく流れているように感じる。政治家の「不適切発言」、新社会人の教育現場、等々。「無知は罪」だという言い方は、一般的には「その役割を担っている人間は常識的に知っておくべきだ」という意味合いで使われ、ある局面では確かにその通りだ。「知らなかった」では済まされない問題が生じることはままある。
では、私たちは何を知っておくべきだろうか?これに答えることは困難である。「常識」は時と共に変化する。それでも「常識」について私なりに以下の3つに分解してみた。
1.生きる上で不可欠な知識
2.知っておくと生きやすくなる知識
3.ある特定の分野でのみ知っておかなければならない知識
まず最も基礎的な知識として「1.生きる上で不可欠な知識」がある。ここでは個人の生存に関わる知識が中心になる。赤信号では止まる、などだ。
次に「2.知っておくと生きやすくなる知識」がある。これは主に他者とのコミュニケーションにおいて活用される。言葉遣いなどはこれに含まれるだろう。ある概念を同じ言葉で共有できることは生存に不可欠ではないが、生きやすくなる。
さらに、「3.ある特定の分野でのみ知っておかなければならない知識」がある。これはIT開発会社におけるプログラミング知識などだ。
こうして分解してみると、主に社会的に「無知は罪」だという言い方が生じるのは「3.ある特定の分野でのみ知っておかなければならない知識」においてであろう。「政治家なら知っておくべき」「新社会人なら知っておくべき」など。「罪だ」とまで言い切ってしまうのは言い過ぎではあるが、「知っておくべきことが存在する」という事実には同意する。もちろん、その「知っておくべきこと」の教授の方法については議論の余地があるが、本筋と外れるので触れない。また、「1.生きる上で不可欠な知識」も無知は罪以前に、知らないと死んでしまうので問題にはならない。
私が問題にしたいのは「2.知っておくと生きやすくなる知識」のレベルで「無知は罪」なのか、だ。これには「罪ではない」と答えたい。集団の8割ほどが知っていて日常生活に活用している知識があるとすると、それを知らない場合、意思疎通ができず疎外される可能性は高まる。しかし、それさえも自分自身の生き方として選択しているのであれば、疎外は問題ではない。つまり自分自身の選択として無知を選んだのであれば、それは罪ではない。
しかし問題なのは、「疎外されうるということを知らない」ことだ。疎外されたとして、死にはしない。子どもであれば親の庇護のもと、何も知らなくても生きていける。しかし社会生活を営むようになると実情は変わってくる。どのような人生を選択するのか、そしてその結果がどのように日常生活に影響するのかについて、考えなければならない。結局、何を知っているべきかという質問に対しては、「ある知識を知らないことによって自分自身に何が起こるかを知っているべきだ」というある種循環論法のような答えになる。
繰り返しになるが、「2.知っておくと生きやすくなる知識」のレベルでは、知らないことがあって良いと私は思う。人は誰しもまったく無知の状態で生まれ、育つ過程でものを知る。知らないからと言って、それはまったく罪ではない。
しかし、知らないことを謙虚に受け止める姿勢は必要である。
知らないことを指摘され、その知識の有用性について少なくとも説明が成り立ったならば、「それなら知っておこう」と、ただ知識に誠実にあれば良い。
逆に、知らないことを指摘されて、拗ねてしまうのはまったく子どもだろう。なるほど人によって「常識」は異なる。しかし、(少なくとも指摘を受けた分野について)自分より知識量の多い人間から「知っておくと生きやすくなる知識」について指摘を受けたときに、先達の知識に対する敬意はあって然るべきだろう。「なるほど、それなら知っておこう」という態度はとれる。無知を指摘されて不快に思うその裏には、自分が優等生でいたいという欲求がある。知らないことを恥ずかしいと思っている。その前提は「無知は罪」という考えと同じだ。しかも、多くの人はその無知を自分自身の生き方として選択してきたはずだ。「あの分野は親しみがないから知らない」「ああいう人が見ているものは知らなくて良いと思う」など。無知を指摘されて不快に思うのは、自らが選択してきた知識体系のほころびを指摘されて、その延長上として、生き方自体を否定された気になるのだろう。感情的には理解できるが、考えすぎである。誰も生き方そのものを否定しはしない。知らないことは知っていけば良いだけの話なのだ。
知識というものは生きる上で必要であったり、他者とのコミュニケーションにおいて役立ったりする。しかし、知識はそうしたツール以上のものである。人が生まれ死ぬ、その間に得た知識を次世代に伝える。数千年、数万年と歴史において続けられてきたその営みに対して短絡的な「無知は罪」だという考え、またその裏返しとしての無知を恥じる態度には、知識の営みに対する敬意が感じられない。
知識とは、想像力の源泉である。知っていることを元に、人は過去から学び未来を予測する。そして、他者の心情を思いやる。こうした行為は想像力のなせる業である。知識は、「知らないことがある」ことを自覚的に認め、その未知の領域において起こることを想像するために使われる。無知ゆえに知を駆使するのだ。知識への敬意とは、無知への敬意と等しいのだろう。したがって私は、根源的に無知は罪ではないと考える。もっと言えば、「知らない」ということを愛することができたら良い。ソクラテスの「無知の知」の変種のような結論だが、こうした先人の知恵に敬意を払い、筆を擱く。