Founder at Mobingi, Inc — Cloud Native Application Lifecycle Management Platform.
著者: Wayland Zhang
劉家の書物に記載された明かされぬ歴史はまだ終わっていなかった。最後に記載されていたのは彼らの先祖劉理の神秘的人生についてだった。
劉備は皇帝に即位した年、関羽は兵を率いて荊州北部の樊城を攻めた。この戦いで関羽は七軍を水没させ、龐徳を斬った。しかし曹仁の守りから襄陽、樊城を落とせないまま終ってしまう。この時孫権は呂蒙・陸遜らに命じて関羽討伐の軍を起こした。
曹操は約束を果たした。赤壁の戦いから彼が他界するまで、曹操は劉備を攻撃することはなかった。この残酷で幾多の意見が飛び交う戦争の後、劉備軍は急速に力を付けた。まず荊州を奪回し経済と農業の発展を進め、国を富ませ、軍事を強化し6年後には西川を討ち取った。その後国力はどんどんと強くなり、人材にも恵まれた。紀元221年に成都で皇帝となった。
劉備も曹操との約束を守り抜いた。
赤壁の戦いで曹操は大敗し、手にしたばかりの荊州を失い許都に兵を戻すこととなった。劉備はチャンスを逃すこと無く荊州の領地を奪い、軍力を付け自身の政治地位を蓄えた。歴史の面白さは全てが予測不能ということだ。絶対に勝てると思っていた勝負でも結果はそうでは無かったりする。覇業も些細な事が原因で全てがひっくり返ったりする。曹操の今回の失敗も予測不可能な要素が原因になったと言えよう。でもそんな予測不可能な要素ですら怪しい原因などはある。諸葛亮がどのように曹軍に感染症を患わせ、風向きを変えたかを聞いた曹操は、錨を覚えたが、どうする…
この日は太陽が登るのが早かった。しかし初冬の寒さは厳しかった。
長江はいつもと変わらず静かに西から東へと流れた。両岸には孫軍と曹軍の戦旗がなびいていた。間もなく戦争が勃発しようとしていた。孫権の帳では静かさの中に緊張が走っていた。
火計を開始する東風を待っていたのだ。
感染病は何千人にも伝染していたが、曹操はそれに気がついてなかった。医療の発達していない時代、疫病や熱病はよくあったのだ。しかしこの小さな油断が、赤壁の戦いで曹操を敗北に導いた。
孫劉軍の協定は結ばれた。208年長江の両岸で戦いは勃発した。この戦いの勝敗は皆も知っていることだろう。何ヶ月もの長江両岸での対立は、最終的に黄蓋の偽りの降伏の夜に、孫劉軍の火計によってほぼ決着が付いた。水軍を壊滅させられた曹操は、撤退を余儀なくされるが、孫劉軍の追撃によって破られた。