ビットコインで価値形態論のことを思い出したこと
貨幣やらマネーやらの条件とか、あるいは交換
http://jp.reuters.com/article/jp_column/idJPTYEA1Q02K20140227?sp=true
マネーというのは、稼ぎやすく(一般的流動性が高い=偏在してない)、かつ使えて(交換機会が十分に多い)、あとは「マネーはマネーだ」という、ある意味「神様は神様だから神様」のような信仰というか空気みたいなものがあることが、マネーたる条件だという。
その上で、なんでbitcoin信奉者がいるのだろうとか考えてみると、おそらく、当局や発行母体の介入が既存マネーのマネーとしての純粋性=条件を奪う事に対する疑念やら反発があったりするからだろうし、それは政府機関に限らず、金融専門家・企業の既存マネーへの影響力過多(要は偏在)もまた同じことで、そういう「マネーとして一般性を失い堕落したマネー」の補完としてより純粋な形のマネーが求められるからだろう。だから、その需要に技術で応えるというのも、よくわかる話だと思う。
簡単に言えば、どこの店でもbitcoinで支払い(交換)できて、尚且つ、円建てコスト(日本銀行券を稼ぐコスト*円建て額面価格)<bitcoin建てコスト、だったら、みんなbitcoinを使って日本円を使おうとは思わないんじゃなかろうか。 あるいは「働けど働けど、給料安い」とみんなが感じてて、そういう現実の裏側に当局や金融屋の影響を疑い、それにうんざりしていたなら、「やってられんわ。自分たちの交換のためのよりフェアなメディア(=マネー)作ろう」となるのも、そうおかしな話じゃないよなあ、と。
bitcoinが最初に注目を集めたのはギリシャの通貨危機での回避地として、その後は、中国での投機熱による価格高騰のためという。そこに投機できる、価値の保存というか入れ物としての機能はあるんだろうけれど、多分bitcoinの一番の問題点は購買の決済に使用されているという実態が少ないことだろうと思う。例えば、どんな弱小通貨でも、その通貨が実際に使われている場所がある限り根拠地を持つけれど、bitcoinには、今のところ、そういう根拠地がない。
そういう、通貨にとっての根拠地というのは国の枠組みと大体一致するから、兌換紙幣でもない限り、通貨取引というのは実態的な国家経済を器として、その器の信用力の指標を取引してるようなものだ。そこで、bitcoinは?というと、根拠地の信用力を担保に価値を持ったわけじゃなく、ただ、価値の入れ物の機能を”使われた”ことで高騰したということになる。これは、美術品のコップとただのコップの違いにも似ているかもしれない。
とはいえ、bitcoinを使った決済サービスもけっこう出てきているようだ。今はまだアメリカが主なサービスらしいけど、そのうち筍みたいにボコボコと世界中で使える場所が出てくるようになるのかもしれない。そうなれば、bitcoinの根拠地は、ほんとに自生的に、あるいはwebの思想に共鳴するような人がそういう根拠地を生み出していくということでは、地下茎的に生まれ拡がっていくのかな、とか思う。
「bitcoinはマネロンとか闇取引に使われるのでいかん」とはよく指摘されることだ。それでふと思ったのがマルクスの価値形態論のことだった。価値形態論では、貨幣と貨幣と交換される商品の違いについて、相対的価値形態と等価形態という言葉で区別される。自分もしっかりと理解しているわけではないけれど、その違いは、価値を示されるもの=相対的価値形態=商品、と、価値を示す物=等価形態=貨幣、というようなことだと思う。ここで話を元に、bitcoinとマネロンの話に戻すと、要は「なにとでも交換できる状態にあるとみんなに信仰されている状態(であるとみんなに…(であるとみんなに…))」が等価形態であって、そこに善悪の判断なんか関係ないのにも関わらず、不道徳とされることを防ぐ目的でマネーを様々な形で規制(例えばidふったり)してみたところで、それは既存マネーのマネー性(=等価形態であること)を棄損するだけで、結局「交換しづらいものを交換できるメディア」への需要が減るわけないんじゃないか、と思ってしまうのだ。じゃあ大体、独占的に既存マネーをおもちゃみたいに好き放題している主体なんかはそもそも「マネーに対する犯罪」なんじゃないの?とかも思ってしまう。
もしbitcoinが死んでも、そういう既存マネーのマネーとしての矛盾が吹き出る状況はあるわけだし、そうである以上、どうせまた第2第3のbitcoinは出てくるんじゃないだろか、とか。
Email me when a publishes or recommends stories