鬼娘

冬の冷たい名残もすっかり溶けだし、今年も春は訪れた。
村の水田には紅紫色の蓮華の花が咲いており、燕たちも南の遠い土地から故郷の里に戻ってくる。
目に付く景色が少しづつ移り変わろうとしている。
だが私は季節が変わろうと年中、ボロボロでみそ簿らしい着物を纏っていた。
どう見ても私だけが浮いている。
仕方ないとはいえ、やはり、気恥ずかしくそして悲しい気持ちになってくるものだ。

私は村から少し離れた山の小川付近にある小さな洞に去年から隠れ住んでいる。
洞の近くには桜の木が一本だけ生えており、もう間もなく満開となる。
去年の冬頃に住み着いたばかりなので桜が花開く姿はまだ、見たことないのだが薄い桃色の花びらが夜には月光を帯び、それは妖艶な香りを漂わせることだろう。
ともあれ、あそこは私が唯一心安らぐ拠り所だ。

山で食べ物を調達し終えた私はその拠り所への帰路を裸足で歩いていた。
片手にぶらさげた麻袋にはフキノトウやセリなどの山菜と薪がいっぱいに詰まっている。
少し、取りすぎただろうか。
麻袋が重たく悲鳴を上げているのが気になる。

「破れないでよね」

私は頼むように麻袋に囁きかけた。
やがて、雪解けで湿った土の山道を抜けると目の前に小川が姿を現した。
私はそれを見て一息つきながら立ち止まった。
道は土から砂利へと姿を変化させている。
そっと、自分の足に視線を移し、大きなため息をつきながらそっと砂利道を踏んだ。

川の畔は大小様々な石と徐々に背を伸ばしつつある草だらけで、そこを歩くたびに、散りばめられた小石が足に突き刺さり、薄い柔肌を容赦なく傷つけていく。
歩くたびに痛みが足から頭の天辺にまで駆け巡り、自然と涙が溜まってしまう。
どうして、私がこのような哀れな醜態をさらさねばならないのだろうか。
悔しくてたまらない。
気が付けば、空に浮かぶ太陽はすっかり傾き、世界は儚げで、苛烈なまでの意志の強さと、生命力に満ち溢れた緋色へと染め上っていく。
早く、夜がきてこんな緋色の世界を漆黒で幽寂な世界へと塗りつぶしてしまえばいいのに。

「お前なんか……消えちゃえ」

私は沈みゆく太陽にそっと毒を吐き捨てた。
しかし、そんな私の言葉とは裏腹に太陽は幾つもの緋色の筋を力強く発し、自身の存在を世界に示している。
それはまるで雄大な緋色の海のようで、その存在の大きさに私の方が飲み込まれて消えてしまうのではないかと錯覚を覚えてしまう。
何て、私はちっぽけなんだろう。
私は沈みゆく太陽を眺望しながらそう思い、光から目を背けるように俯きながら歩調を早めた。
その間、私はずっと二つの痛みに耐えるよう唇を噛みしめていた。

洞の中は真っ暗で目蓋を開けていても閉じていても大差ない。
私は壁に右手をつけ、手さぐりに火打石を置いている寝床付近に近づいて行った。
壁のザラザラとした触り心地が手のひらを擽る。
足元にも注意しながらゆっくりと進んでいくと、やがて、私の目も闇に慣れ始めてか視界がボンヤリと開けてくる。
私は周りを確認してからゆっくりと手を離し、藁の塊が無造作に転がっている寝床を踏みつけ火打石を探した。
因みに私が、火打石が足元に転がっていることに気がついたのは、其れからしばらくたってからだった。

私は無駄な徒労感を味わいながら火打石を拾い、洞の外に出た。
外は流れ行く雲の合間から射し込む蒼白い月光が穏やかに流れる行く小川の水面に反射し、孤高の光を辺りに飛び交わせていた。
その光は昼間の太陽が照らしだす煌びやかな光とは違い、静寂で弱々しい、けれど心のザワメキをゆっくりと鎮静させていくような蒼と白銀の淡い光である。
風は少し肌寒く、私の頬をしきりに撫でていく。
その時、仄かに甘い香りが私の鼻孔に入り込んでくる。
その匂いはこの洞の目と鼻の先にある桜からするものだと私にはすぐに分かった。
私は持っていた麻袋と火打石を地面に置いて、桜の元に近寄ってみた。
目の前に佇む小さな桜の木は月光を帯びることで美しさを相乗させていた。
私は小川の流れる音に耳を澄ましながら、桜の幹にそっと愛撫する。
花も開き、明日にでも満開になりそうだ。

「早く、満開になってね……」

小さく囁きながら微笑みを浮かべた。
桜はそれに応えてくれたかのように体を揺らしざわめく。
私はこの桜が大好きだ。
村人たちのように私を嫌わないし、母様や父様とは違い私を置いて去ってはいかない。
ふと、脳裏にあの時の光景が鮮明に駆け巡る。
形容しがたい恐怖が襲い掛かり、私は咄嗟に木の幹に抱きつき、目蓋を強く閉じた。
ザラザラな表皮は何も拒絶することなく私を迎え入れてくれる。
しばらくその状態が続き、私の恐怖は何とか桜が吸い取ってくれた。
やはり、私はこの桜が大好きだ。
そう思いながら私はそっと桜の幹に唇を触れさせた。

私はこの山を少し越えた地にある小さな村で生まれた。
そう、他の子供たちと同じようにありふれた出生だ。
しかし、私は生まれながらにして普通の者とは違う存在だったのだ。
瞳はあの夕暮れの太陽のように赤く、肌は雪のように白い。
なぜ、このような姿で生まれたのは分からない。
父様も母様も黒い瞳に普通の肌色なのだ。
しかし、実際このような姿で生まれてきてしまったことに変わりわない。
このような姿では必ず、何らかの迫害を受けるに違いない。
そう思った母様と父様は私を村人たちから守り隠したのだ。

一方、当の本人である私はというと家の中から同い年くらいの子供たちが楽しそうに遊んでいる声を聞きながらいつも泣いていた。
鏡に映る自分の姿を見るたびに気持ち悪くなり、自傷行為を繰り返す日々。
この瞳とこの肌がいけないのだ。
私はこのような姿は望まなかった。
普通とは明らかに違う存在なんて息苦しいだけなのだ。
私は何度も死にたいと心うちで叫び続けていた。

そんなある日だった。
村の長が数人の若い村人たちを連れて私の家に来た。
そう、いつまでも隠し通せるはずがなかったのだ。
私の存在はいつの間にか村中に広まってしまっていた。
案の定、村人たちはそんな異形の私を恐れた。
そして、村の長は私は厄災を齎す鬼子だ。殺さねばならない。
そう、言い放ったのだ。
封鎖的で狭い視野でしか世界を見れない彼らにとって異形の私は得体の知らない化け物と同じであったのだ。
彼らはすぐに私を引き渡すようにと父様を叱責した。
その時の彼らの表情は今でも良く覚えている。
恐怖と嫌悪で醜く哀れに歪み、喉からは毒を吐き出す。
村人たちは私を化け物と呼んだ。
けれど、私には彼らの方が化け物に見えて仕方なかった。

父様は私と母様を逃がすため、村人たちに抵抗し呆気なく死んだ。
彼らは親の仇とでも言わんばかりに父様の体に狂気の刃を突き付けた。
何度も、何度も、繰り返し突き付けたのだ。

それからの夜は毎日が恐怖との闘いだった。
いつ村人たちが私を殺しに来るとも限らない。
家に引きこもっていた頃はあれ程までに死にたいと思っていたというのに、いざ死というものに近づくと怖くてたまらない。
そして、何よりあの時の彼らの姿が目に焼き付いて離れない。
目蓋を閉じるたびに、浮かび上がってくるあの狂気の表情。
あれは人間ではない。
あれは化け物だ。
地獄より這い出てきた醜い鬼たちなんだ。
そう思わずにはいられなかった。

しかし、それは私だけでなく母様も同じだった。
そして私より先に母様は限界を迎えてしまった。

「ごめんね……」

それが最後に残した母様の言葉。
きっと、沢山の意味がそこにはこもっているのだろう。
私をこのような姿に生んだこと。
私を残して先に逝くこと。
そして、父様への謝罪。
母様は自分で舌を噛み切り苦痛に悶え死んでいった。
頬に流れる涙は悲しみに溢れていた。
隠れ住んでいたあばら屋の中、私は苦しむ母様の隣で泣くしかなかった。
ただただ、泣くしかなかったのだ。

ひんやりと冷たい火打石を使って火を熾し、薪をくべて勢いをつける。
オレンジ色の火は陽炎のように揺らめき、熱を放出する。
私はそんな朧げな姿を矯めつ眇めつ眺めながら手をかざし温まった。
暗がりの中、ただ一か所のみが明るさを放ち、闇をかき消す。
虚空には煙が立ち上り、消散していく。

「父様、母様……もうすぐ桜が咲きそう。そしたら、きっと暖かくなって山菜も沢山取れるようになると思う」

私は焚火に向かって囁く。
意味なんてない、ただの独り言だ。

「そうそう、今日はセリとフキノトウを見つけたの。嬉しくてつい、採りすぎてしまったけれど、とても美味しかったよ」

ああ、なんて馬鹿馬鹿しいことをしているのだろう。
こんなことで寂しさを紛らわそうとしたところで、さらに惨めさが増すだけなのに。
もう、何もかも止めてしまいたい。
考えることも、息することも、生きることも。
何もかもが辛い。

母様も父様も、そして村人たちもきっと悪くない。
そして、私も悪くない。
本当は分かっている。
誰も悪くないんだ。
分かっていても、それで抑えられるほど私の恨みは小さくない。
けれど、それで村人たちを恨めば私は彼らと同じように自身の憎悪の鬼に潰されてしまう。
そんなのは絶対に嫌だ。
私は鬼には死んでもなりたくない。

母様は鬼になる前に自分から命を絶った。
だけど、私は自分から命を絶つ勇気はない。
生きていたい。
けれど、生きていることを止めてしまいたい。
私はどうすれば良いのだろうか。

焚火をじっと睨めつけても答えなんて出てきてくれやしない。
ため息をつきながら、私は焚火の上に土を被せ火を消した。
すぐに火は消え失せ、一筋の煙が空へと昇っていく。
火の暖かな光はなくなり、蒼い月明りが世界を照らし始める。
暖かくない、冷たい光だ。
私はそんな紺碧の光から目を背けるように洞の中へと戻っていった。

藁を敷いただけの質素な寝床から起きてみると洞の外から明るい光が射し込んできていた。
私は眠気と戦いながら重い体に鞭を打ち、外に出た。
太陽は蒼天高く昇り燦々と地表を照らしている。
どうやら、昼時まで眠ってしまっていたようだ。
空を見上げてみると紺碧の海がそのまま投影されているかのような黝然な蒼穹の空が何処までも延び続けていた。

「……空ってこんなに大きかったんだ」

私は空とはこうも雄大な景観であったとあまりに身近すぎて忘れていた。
自然と僅かな笑みが起こり、心地好い気分が一杯に心を満たしていくのを感じる。

とりあえずは顔を洗おうと陽光が反射し銀色に輝く小川に近寄る。
腰を下ろし、流れるの水面に顔を覗かせる。
水面に映りこむ私はお世辞にも綺麗とは言えない黒く長い髪をしている。
手入れをしてないから枝毛ばかりだ。
そして、私の両目は相変わらず赤色をしており、肌は生気を感じさせない程に白い。
それが目に入った時、水面に映る私の顔が一瞬、歪む。
私は複雑な気持ちを孕みながら両手で水をすくい、顔を洗った。
冷たい水が私の顔を弾き、流れて落ちていく。
眠気が消えていくのが分かる。
まるで、頬を滑っていく水滴に吸収されていったかのようでなんとも不思議だ。
着物の袖で顔を拭い、ふと足元に桜の花びらが落ちているのに気が付き、桜の木を見てみる。
桃色の花は綺麗に咲き誇り、豊潤な甘い香りを私に運んでくる。
気が付かなかった。
桜は満開となっていたのだ。
待ちに待った桜の満開に私は思わず、「満開だ!」と、はしゃぎながら勢い良く立ち上がり喜んだ。
桜は薄い桃色の花びらで出来た衣をその身に纏わせている。
その様は優雅で何者にも左右されず悠然と構えている淑女のようであり、とても美しい。
すると、桜は私の言葉に答えるかのように花びらを数枚ほど散らす。
馥郁たる香りと薄い桃色の花びらが清風に乗って私の首筋を撫でていった。
ヒラヒラと舞い踊る花びらはとても楽しそうに私の瞳に映る。
その桜の姿を見るだけで元気がでてくる。

「うん、今日も頑張るよ」

私は桜に言う。
すると、桜はその言葉に答えるかのように花びらをさらに散らし、煌びやかで色気のあるなめかしさを私に見せつけた。

私はこの桜の満開を見て決心がついた。
父様や母様が残してくれた命。
やはり、もう少しだけ使わせてもらうことにしよう。
生きているからこそ、こんなに美しいものが見れるんだ。
そもそも、生きる理由なんてそれだけで十分だったんだ。
もっと見てみたい。
この桜が見せる夏の荒々しい生を感じる瑞枝の新緑めいた姿も、秋の茶色と緑色が入り混じる少し寂しい姿も、冬の丸裸で立ち尽くしながらも悠然でいるその姿も、そしてこの桃色に染まった妖艶な姿も。
例え、寂しくたって、辛くたって、痛くたって構わない。
私は生きていく。

「見つけたぞ……鬼子め」

背後から聞こえてくる鬼の狂気じみた声が私の心に石を投げ込む。
心臓は激しく脈を打ち、体中の血液が暴れ狂うように駆け巡る。
桜はその途端、小刻みに震えだす。
怯えているのだ。
村を追われた時の私のように。

「大丈夫、私は死なないよ」

私は子どもをなだめるように桜の幹を優しく撫で、心の中、桜にそう嘘を囁き、ゆっくりと後ろを振り返った。

その後、少女がどうなったか、それは誰にも分からない。
ただ、その日から川沿いに一本だけ生えているあの桜の木は少女の瞳の色と同じように赤色の花びらを毎年咲かすようになったという。