「書き言葉の息苦しさについて」

近頃「書き言葉(テキスト)の息苦しさ」について考えていた。いろいろと考えを及ばせてみると、様々な面で「書き言葉」は「話し言葉」に劣っているのにも関わらず、なぜますます「書き言葉」に頼る世の中になるんだろう、と。
例えば、ある日カフェでコーヒーを飲んでいる時に、良さそうなアイデアが浮かんだとして。僕らはそのアイデアをどうするだろうか?人によるかもしれないが、多くの人は、まずノートにそのアイデアを書き留めるのではなかろうか?私の場合、絵が下手なのでEvernoteにその考えを書き留める。もしくは、ノートに書き出したそのアイデアを写真に撮ってEvernoteに放り込む、という事をする。
その日から一週間が経ったとして。僕らはそのアイデアを見返すだろうか?私の場合は、まずNoだ。「書き言葉(テキスト)」に姿を変えたそのアイデアから、僕はもはや何も感じない。そもそも時間をかけて見返そうとは思えない。下手をしたら、書き留めた事自体を忘れているかもしれない。この現象は何なんだろう?と近頃考えていた。
「書き言葉」にすると消えてしまうその「非言語情報」を、仮に「インスピレーション」と呼ぶとしたら。僕らはそのインスピレーションをどのように再現し、どのように他者と共有する事ができるんだろうか? これはなかなかの難問かもしれない。
例えば小説家だったら。その”インスピレーション”を物語として再現して、広く共有する事ができる。吉本ばななだったら、身近な人の死の後に続く日常。辻仁成だったら、遠い昔に愛した人との記憶。村上春樹だったら、異なる場所にいるはずの二人が交わる現象だったり、喪失感だったりを描く。小説家は、形は変えてその「インスピレーション」を何度も再現しようとしている、と言えるかもしれない。
例えばアニメーターだったら。細田守監督の「時をかける少女」を観ると、まるでその世界が、この世の中に確かに存在しているかのような錯覚を呼び起こす。新海誠監督は、息を呑むような美しい風景を何度も描くし、宮崎駿監督も子供の頃に夢見た冒険を、僕らに何度も描きだしてくれる。
さらに言えば、小説やアニメーションでなら触れられるそのインスピレーションが、「書き言葉」になった瞬間に、事を難しくする、とも言えるかもしれない。例えば、僕がアインシュタインの相対性理論の素晴らしさを理解できなかったとして。半分は、自分の頭の悪さのせいだろう、と諦める。しかしもう一方で、アインシュタインが相対性理論を発想した瞬間のインスピレーションが、「書き言葉」になった瞬間にこぼれ落ちていっている、とも考えられるのではないか。
僕らはどうだろう? 小説も書けない。絵が描けるわけでもない僕らは、今も変わらず「書き言葉」で表現し、コミュニケーションをとっている。Slackで、「書き言葉」でコミュニケーションをする。Facebookで「書き言葉」で自分の日常をシェアする。どれも「書き言葉」だ。
しかし、それでどこまで伝わるんだろう? と悲しくなるのです。今こうして書いていても、ここまで読んでくれるあなたは、なかなかの変わり者でしょう。秋の終わり、そんな事を反芻して歩く落ち葉の積もる公園。