愛されてるのかわからないのは、きっと愛されるということ

好きな連載の記事を読みました。赤裸々な相談文に対してスイスイさんが実体験などを踏まえてアドバイスする連載の記事です。

リンク先を読むと、良い子で居続けたという相談者さんが 性格の悪さを外に出しても愛されてみたい、
親でもない他人からは、いい子でいるしか愛されないのか?
といった内容の相談をしています。
スイスイさんの回答を要約してみます。

ありのままの自分とは無理な気遣いや演技をしなくて済む自分のことのはずだけど、自分自身でも把握できないことが多い。
文章を書いてみると、書き出すうちに自分自身と向き合うことができる。
そしてその本音の文章を公開すると、さらけ出した自分らしさと気の合う人が自然と現れてくれるので試してみよう。

また、あふれる負の感情をぶつけつつメリットがないありのまま愛されたいといっても、
どんなに傍若無人な人でも見えないところでメリットを提供しているもの。
家族でもメリットなく愛し愛する関係だとあなた(相談者)は勘違いしているようだけれども、家族間でもこれは同じ。

私の人間関係の解釈も似たようなものです。
メリットというのは他人にはわかりにくかったりするあらゆる利点、得られるもの(あるいは得られると期待するもの)を含みます。
それは愛する側が勝手に見出すものです。
例えば、「自分はわがままで人を振り回す、これは欠点だ」とあなたが思っていたとしても、そこを「人を導いてくれる力のある人だ」と認めて慕う人もいるでしょう。もしかしたら、あなたと初対面で何の変哲もないお喋りをした相手が、そのお喋りであなたを心地よさを提供する人物と認識したのかもしれません。

しかし好かれる側、メリットを提供する側は、与えられ得るメリットを完全に自覚することはできません。言動全てに他人を意識するわけでもないでしょう。他人を意識して行動したところで、想像しない受け取り方をする人もいます。

ですから、感性が違う他人を「みんな」とまとめて意識して好かれる努力をするよりも、既に他人に見せている部分に食いついてくる人だけを意識するほうが楽です。(そしてそれが、素の部分に食いついてくるのならなおさら…)
私をメリットのあるものだと認識する素質を持っている人、私が無理なく自分でいる姿から何か得るものがある人、そういう人にまず向き合いたい。そしてその相手から些細でもメリットを得られるのなら、そこから初めて関係性を深める努力をすればいいと思っています。「離れるのも辛いけどやっぱり一緒にはいられない」「大事なこの人を傷つけない努力をしよう」と考え始めるのは、私が無理してない姿に振り落とされない素質を持つ人に対してのみ。その最初の素質、好みとも言いましょうか、その部分のマッチングが縁ともいえるのではないかなと。「最初」とは言っていますが、時間がかかってようやく見えてくる良さもあるかもしれません。良さがまだ全くわからない相手に礼儀だからと無理して尽くしたり、あるいは自分の良さを全く見ようとしない人に悲しくなるほどの努力をする必要はないんじゃないかなということです。

私は計画性もなく憧れられにくいけどわかってくれるんだよむき出しのこの心を………!…(…わかりにくいですが、バンドTRICERATOPSのChange Your Lifeという歌が好きなのでもじってみました。ちょっと恥ずかしい…いい曲なので聞いてみてください)

世界にはたくさんの人がいるので、確率的には私を好きになれる人はどこかにいるはずです。
そして、それは人との出会いを増やせば仲間が増えることにつながるでしょう。

すでに死んだ人との出会いでも「この人は自分を支えてくれる、きっと味方だ」と思うことはあるでしょう。故人にこれから好かれることは叶わないでしょうが、自分が「好きだ」と思えるものが増えるほど、「きっと自分も好かれる」という確信につながると思います。あなたが好きだと思えるものの中には、きっと好かれる側が好かれる期待をしてもいなかったものもあるはずです。

私は自分の様々な点や面が好きです。情けなさ、恥ずかしさ、愛され足りないもどかしさをどうしようもなく感じることはたまにありますが、その揺さぶりを自覚する段階にまでいけば、自身の不完全さ不安定さすらも愛しい。私の好みは、私の自然な在り方とおそらくマッチしています。それはたまたまかもしれないし、無意識にそう都合よく認識する努力をしているのかもしれません。それでも好きになれない嫌いな自分の一部があっても、不完全ゆえに発生する劣等感などの感情は私にとって大事なものです。

そんな自分大好きな私と趣味が合い、私のことを好きになってくれる人がいてそして、趣味が合わなくて私の代わりに私の嫌いなところを肯定的に受け止める人もきっといます。私は自分の中の消化しきれない部分にも「きっと無意味ではない」と期待をしています。

また、こんなツイートも見かけました。

価値観のアップデートによりわかるものが増えてきて、人間関係にも変化が及びます。他人の言動が許容できなくなったり、気づけなかった良さを発見したり。また、ツイートの内容の通り、自分がしでかしたことに後で気づいたり。

他人の良さを「わかる」と思うのは、語弊があると感じます。「わかる」とはまるで本質を見通すかのようですが、ただ他人を自分が勝手に解釈して良さを見出しているだけのことです。「わかってもらえた」と思うのも、自分が見出した良さと他人が見出した良さが一致したことで(というのもただの解釈で…)。「わかる」というのは、「心の柔い部分で受け止めることに自分も納得している」ということなのでしょうか。

正直言うと、先ほどあげたTRICERATOPSのバンドの歌の良さはおそらく一部しか私にはわかりません。しかし「あ、ここ好きだな」と思った部分は本当に好きだし、自分の生活には納得のいく部分だけでも取り込んでいます。トライセラが表現したかったことを知ることはないでしょうが、私の「好き」は私のものです。

これから何がどうわかってくるのかは見通せませんので、愛し愛され続けるにはその時の自分ができる限り(というのは無茶を含まずに)誠実に生きるのを続けるしかないんでしょう。そんな生き方をしてたら、もしかしたら、「この人のこともわかりたい」という動機を他人の中に植え付けることもあるんでしょう。世界は途方もなく広く深くて、一体何を理解することができるのか。でもわからないからこそ可能性に希望をもてます。

Photo by Annie Spratt on Unsplash Photo by Annie Spratt on Unsplash