犬と猫と考えたこと

読書の秋です。涼しくなってきましたが我が家の周りにはまだまだ蚊がたくさんいます。いつのまにやら世の中に出来ていたシルバーウィークという休日を利用して引きこもり、猫と犬たちとソファーでごろごろしながら、買ってきた本をただただ読んでいました。犬たちとは10年暮らしているので、 基本的に目だけで会話できていますが、この数日でわかったことは猫は明確に言語を操れるということでした。「みゃー: 遊んでくれよ父さん」「みゃーみゃーみゃー: おなか減った」「ぐるぐるぐる(低音で): 耳をちゅーちゅーさせてくれたらふみふみします」。そんな牧歌的な風景とは非情なまでに無関係に、世の中は何やらおかしな方向に走っていることは疑いの余地の無いことです。

先日、国会前のデモに参加して感じていた違和感についてしばらく考えていたのですが、安保法案に関するドタバタ劇とか、新国立競技場の問題とか、オリンピックのエンブレムの問題とか、いろいろ考え出すと、この国で起きていることが、さて、おかしいことなのかそうでもないことなのか、正直よくわからなくなってきたので、こんな時こそ歩みを止め、ゆっくり考えるために本を読んでみたのです。本はアマゾンで選ぶのではなく本屋を歩きまわって捕獲するという古くからのスタイルを実行した結果下のような選書となりました。

【読んだ本】
・戦後後論 / 加藤典洋
・ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来 / 広井 良典
・時代の正体――権力はかくも暴走​する / 神奈川新聞「時代の正体」取材班
・決定版インダストリー4.0 第4次産業革命の全貌 / 尾木 蔵人
・日本の反知性主義 / 内田樹編
・国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由 / 古市憲寿,トゥーッカ・トイボネン
・服従 / ミシェル・ウエルベック
・啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために / ジョセフ・ヒース

ひとつずつ書評を書く勢いで読書に望んだのですが、どうやらそれだけで3年ぐらい掛かりそうです。未だ違和感の原因が解決したわけでもなく、もやもやとしたままで正解など持ち合わせていないのですが、少しまとめておかないと前に進めそうもないため、とりあえず現段階でなにか文にしてみようと思いこれを書いています。全体として感じたこととして、「感情」と「知性」(または理性)という古くからの問題が、哲学的で基本的な問題が、もしくは、「感情と知性」「戦争と平和」「右と左」そういった対義するもののねじれの問題が、情報化とスピード化の現代にあらためて「反知性主義」という形で顕在化してきたのだということを挙げておきます。

アメリカに端を発する「反知性主義」という代物が次第に強靭化し、確実に日本でも花開いています。反知性主義という言葉はリチャード・ホフスタッター — 『アメリカの反知性主義』という本に登場するのですが、元来それは、「現実的には役に立たない机上の空論を振りかざす、上から目線のエリート層・知識人に対する反発で、一般的な市民の身体感覚に根ざした感情のほうが優位にあり、誰もが自然に発揮できるという平等思想」ということであり、陪審員制度を生み出したアメリカらしい、民主主義を体現するようなものです。あまり悪い意味ではありません。しかし、それは諸刃の剣でもあり、権力者によって巧みに利用される時、愚民政策用の便利な道具にもなるのです。現在は、後者の悪い意味としての「反知性主義」が蔓延しているのです。

感情の力は知性よりも大きいので、そこに為政者は目をつけます。福祉や教育の問題を理路整然と説明したり、日本の戦争責任の取り方について再度議論をすすめようとしても、大抵は「わしゃそんなむずかしいことはわからん」「終わったことは終わったこと」となりますが、 「美しい日本を取り戻す」とか「他国が攻めてきたらどうするのですか?」「経済を回復する!」というのは、直接感情に訴えてくるのでわかりやすいのです。情報過多でスピード化の時代には、判断スピードも要求されます。そして感情の判断スピードは理性よりも圧倒的に早いので、反知性主義の悪用は容易となります。

反知性主義の利用者としては、安倍晋三現首相、「自民党をぶっつぶす!」いった小泉純一郎、「東京ばかりいい思いをするから大阪こそがんばらなあかん」という大阪庶民が喜ぶキャッチフレーズで大阪都構想を推進しようとした橋下徹などが代表格でしょう。アメリカに関しては枚挙に暇がありません。いわゆる「B層」「ヤンキー層」などというマーケティング的な取り扱いをされているマス・ターゲット層に、響くキャッチフレーズで票を獲得するのが反知性主義の狙うところです。我が国の政治は選挙による代議制を取っているゆえに、票の獲得こそがすべてですから戦略としては正解でしかありません。

3万人とも10万人とも言われる8月30日の国会前のデモは、「デモに参加することから始まりだ!」というもので、現場では「憲法守るぞ」「安倍やめろ」のコール一辺倒だったのだけれど、どうしてもそれは反知性主義の劣化版で、反体制側が叫ぶネガティヴ・キャンペーンは多くの人の場合、感情のほうが受け付けません。感情は自分にとって得だと思う方の言葉、「儲かる!」とか「美しくなる!」とかを選ぶのです。

法案にを可決する際の強行採決というやり方は前代未聞のお粗末なものでした。まともに考えれば議席数で上回る与党はルール通りにやれば法案を可決できるはずです。茶番劇に仕立てる必要などありません。ここであえて茶番劇にした理由は、感情でなく理性的に法案に対する反証を挙げるべき野党を、感情バトルに持ち込み最後は肉弾戦にもってくれば、野党の理性による反論という役割を根こそぎ無効化できるからに他なりません。

絶対にあきらめないSEALDsは、次は法案に賛成した議員を選挙で落とすと言っていました。デモでなく選挙でという箇所は正解だけれども、愚民政策としての反知性主義が一応の成功を見せているこの国では、おそらくは「選挙で落とすぞ!」のアンチフレーズは成功し得ないと思われます。理由は先に述べた通りです。

条件全てが与党有利にそろっています。特定機密保護法、安保法案の可決、10月からのマイナンバー法と続々と怪しげな法案が揃ってきています。連想ゲーム的にはこれからから導かれる単語は、間違いなく「戦争」です。そして、敗戦国である前の戦争で日本が学んだことはただ一つ「もう二度と戦争をしない」ということでした。私も戦争は断固として反対です。自分の子どもたちが戦地へ送られる可能性のある法案など認めたくありません。「もう二度と戦争をしない」ということが明文化された憲法9条はたとえ他国から与えられたものだとしても、素晴らしいとものだと思います。しかし、「もう二度と戦争をしない」ということは学んだけれども、独立した国家としてのの運営は上手くありませんでした。アメリカの庇護の下、根本からのルールを書き換えるような変更ではなく、騙し騙し運用で対応という現場でのクルージ(おおよそエレガントではないがその場がしのげる効果的な解決法)で乗りきってきたツケが回ってきたのが戦後70年の今なのです。

現実的には世界から全ての武器がなくならないことには「自衛」ということは避けて通れない道です。ここで「自衛」とはどういうことか?の問いを世界基準できちんと考え答えを出さなければならないのに、今度は「感情」のほうが悪いバイアスを働かせ「戦争」と「自衛」を混同し全てにNOを出したりします。こういうときに「知性」の出番なのですが、その知性を発動することのできる人間があまりにもいないことに気づきます。戦後の教育の良くない点がまさにここに集約してきたのかのようです。ここで「知性」とは個人的なものでなく集合的なものだと、知性を定義した内田樹の慧眼には感服します。集合的な知性を発揮させることこそ、民主主義の最大の長所であり、逆に言えば発揮させず感情をうまく操作することこそ悪者の願うところだからです。

長くなりすぎましたが、知性と知性同士の対話による解決ができるような土台づくりが魅力ある国家としての責務です。今の日本はそれを放棄することを自ら望んでいるように見えて仕方がありません。反知性主義の良い意味でのあり方、例えば、映画「12人の怒れる男」で陪審員8番を起点に、一般の人々の集合的な知性で無罪を証明したような方法が、とりわけ国家にとって重要な法案については適用されるべきだと考えます。特に戦争のような物理的にも精神的にも金銭的にも痛みを伴うことに関連する(またはしそうな)法案ならなおさらです。それはとんでもなくめんどくさくてみんな嫌がるし、いつ終わるともしれない長丁場になるかもしれないけれど、本気で戦争したくない場合には最低限必要なことなのではないでしょうか。70年ほど前、感情を優先させ知性を使わない結果どうなってしまったかだけは誰もが知っていることだと思います。

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