チッコリーニ、語る。

「アーティストに個性など必要ない」ピアニスト Aldo Ciccoliniの厳しいことばに、ふと思い出す安部公房の演劇論。従来の日本の国語教育で育った人には衝撃的…かもしれない、表現者の精神の極北。

L’ART D’ALDO CICCOLINI 1925–2015

アルド・チッコリーニといえば、当時はまだブームになっていなかったエリック・サティの全集を録音したことで初めて知った、という感じだが、特にサティのスペシャリスト、というわけではなく、忘れられた過去の音楽を網羅的に録音するのが好きだったようだ。

以下はどうしてショパンを長い間弾かなかったのか、と訊かれたチッコリーニの答え。
アルフレッド・コルトーのことばの引用を含めた最後のところがなかなか厳しいので、引用しておくと:

Je l’ai simplement moins joué en récital. Le public s’est fait une idée stéréotypée de ce compositeur, modèle du romantique phtisique portant son coeur en bandoulière, avec des langueurs et des poussées de fièvre nationaliste. J’ai eu peur à mon tour de tomber dans cette caricature, de l’exposer à cette déformation tentante, puisqu’un interprète peut projeter dans cette musique toutes ses angoisses : à mon âge, en faire une sorte de confesseur ne m’intéresse pas. A ce propos, Alfred Cortot avait une phrase très juste, qui sonne comme un avertissement : « La musique n’est pas une poubelle dans laquelle on jette impunément ses échecs personnels. »

– Aldo Ciccolini https://www.telerama.fr/musique/entretien-avec-le-pianiste-italien-aldo-ciccolini-le-public-applaudit-a-n-importe-quoi,122348.php

曰く、 
ショパンの音楽には演奏者の苦悩をみんな投影することができる。 
この歳になると、汚れた魂を告白することに興味はない。
コルトーの警告した通りだよ:音楽は、ゴミ箱じゃない。罰を受けることなくそこに個人的な失敗を抛りこめるものじゃない。

…そのチッコリーニの晩年のショパンがYouTubenにあったが、こんな感じ:

CHOPIN Nocturnes op.62 n.1 et n.2

…びっくりするくらい、遅い(笑)

しかしチッコリーニにいわせると、interprétation、解釈、演奏者の自由、とは、

Où est, alors, la liberté de l’interprète?
Dans sa liberté d’exister tel que la nature l’a fait ou comme l’homme qu’il a voulu devenir. Si l’on demandait à dix pianistes d’interpréter les mêmes dix mesures en tenant compte de tous les signes, pas un ne jouerait de la même manière. Parce que ma pulsation cardiaque est différente de la vôtre, et votre circulation sanguine différente de la mienne. Et je ne parle pas de notre état psychologique.

http://www.lefigaro.fr/musique/2013/02/08/03006-20130208ARTFIG00471-aldo-ciccolini-la-musique-est-un-jeu.php

人により、心臓の鼓動の打ち方のような生理的な条件は違う、それが演奏に反映されるもので、心理的なものではない
…つまり、あくまでも身体性、生理学的問題によるもので、精神の問題ではない、という立場。

これを読み、はたと思いついて調べてみたら、やはり、安部公房は1924年生まれ。
チッコリーニは1925年生まれ。
子どもの頃、どうも自分はこの世代のインテリの考えに、かなり影響を受けたところがあったんだ、と思い出す:
安部公房の演劇論を読んだのは多分1979年前後だったが、とにかく人物を演じる時に、その人物の心理を想像し、共感し、そこに感情移入して演じる、というような方法論を、徹頭徹尾否定しているのが安部メソッドで、当時は真面目に芝居をやっていたこともあり、感情を作って演じる、ということを当たり前に考えていた、むしろそれ以外に道があるとは考えていなかったために、それまでの価値観を全否定されるようなインパクトがあった。

例えば音楽でも、文学でも、情緒や共感に頼って作品を捉えよう、と無反省にいうことには、近年、ますます批判的になるのだが、そこにはなにより、大きな流れへ警鐘を鳴らしたい、という面がある。
日本の国語教育は、文学教育、テクスト自体を正確に読む力を培う、というよりも、むしろそんなのそっちのけで、文章の書き手の意図を(文章に書いてあること自体を超えて)想像する訓練を通じ、人の気持ちを思いやることのできる*日本人の情操*を育てよう、という一種の国民化教育、実用教育を(どこまで自覚的にかはともかくも実際上)行ってきたのではないか。

今日の多様化する価値観を(消費促進の点などから)否定はせず、 しかしその結果必然的に生まれてくる多種多様な問題を目前にしても、 具体的な解決策を求めることなく、従前通り、さらに共感力をただひたすらブクブクにフォアグラ化させて、
その非言語的、非論理的、非科学的な、
つまり客観的には説明不可能な力(=オカルト的な力)によって対処しろ、ということに、結果的になっている。
*思い*(ということばが、現在の日本で異様に連発されるのは、その左証、だと思うが)の力で *一念岩をも通せ*とでもいうような、精神論で解決しろ、というようなことになっている。
そこに異を唱える識者の声が、聞こえてこない。
トランプ時代の和解し難いアメリカの状況を見ても判る。今必要なのは、共感力をこの上さらに肥大させることではなく、たとえ共感できない相手であっても、共に生きていくことのできる客観的な知性の力であり、揺らぎなくそれを支える哲学、ではないか。

しかし、こういった現在の自分の考えは、何も自分一人で作り上げたものではなく、その一枚下、大元には、このチッコリーニの世代の人たちの、非常に厳しい考え方の影響があったんだなぁ。。ということに、今回改めて思い至った。

そんなチッコリーニの考えは、さら押し進めていくと、こういうことになる:

« Un artiste ne doit pas avoir de personnalité, provoque-t-il dans un sourire. Comme un acteur qui un soir incarne Othello et le lendemain Armand Duval, le musicien est un transformiste. Et certainement pas une superstar ! »

https://www.la-croix.com/Archives/2009-12-18/Aldo-Ciccolini-flamboyant-doyen-du-clavier-_NP_-2009-12-18-360354

アーティスト(演奏者)というのは、パーソナリティ、個性など持ってはいけないもなのだ、と…。
あるいは今日の日本の教育を受けて来た人には、これもまた、ほとんど価値観をひっくり返されるようなようなことば、かもしれない…。

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— 入手困難となっていた晩年の録音を中心としたボックスセット。


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