Diversityを考える

遡ること10年。これは僕が International School of Kenya でインターンをしていた当時の話です。

その日、僕は生徒たちと一緒にスクールバスに乗って帰路についていました。いつもと変わらぬ車内の様子。生徒たちは隣の子と楽しそうに話をしたり、本を読んだり、外の景色を見たりしていました。

ただの歌ではあるけど….

しばらくして、どこからともなく歌が聞こえ始めました。
季節外れのクリスマスソングだったのですが、 車内にいたある生徒が鼻歌を始め、それが隣の子を巻き込んで歌になり、徐々に周りの子たちがそれに加わって合唱になりました。最後はバス全体で歌っているような大合唱になり、みんなとても楽しそうでした。

…….そして翌朝。

学校に一本の電話が入りました。前日のスクールバスに乗っていた生徒のひとりの母親からでした。「うちの子がとても嫌な思いをしました」というの主旨の電話だったのですが、その理由を聞いてハッとしました。

その子の家族はイスラム系だったのですが、彼らの世界にはクリスマスはありません。だからその子は当然のように車内で歌われたクリスマスソングを知らなかったわけですが、自分が知らない歌をみんなが歌って盛り上がっていて困惑したと。かつ、クリスマスって何なんだという話にもなるわけですね。その家ではなぜクリスマスを祝わないのか、なぜその歌をみんなが知っていて自分が知らないのかなど、話をするのが大変だったと。

電話の向こうの母親としては、宗教的にセンシティブなものに関しては、学校側でもくれぐれも注意して欲しいと言うわけです。ましてや60カ国以上の国籍を持つ子供たちが集まるインターナショナルスクールで、こんな Diversity に対する感受性が低いようなことが起こるとはいかがなものかというクレームだったわけです。

幸い、この問題はこれ以上深刻なものになることはなかったのですが、その時に改めてハッとしたわけです。普通に考えれば自分自身もキリスト教徒ではありませんし、歌詞も知らず一緒に歌うこともできなかったという意味では僕もそのイスラムの生徒と同じ状況だったわけですが、もちろん気分を害したりネガティブに受け取るようなことはないわけです。むしろ、みんなが一緒に笑顔で楽しそうに歌っているその様子を見て、自然と顔がほころんで楽しい気分になっていました。

まあ、そもそも日本人は特殊な民族で、クリスマスやバレンタインやハロウィーンなどを宗教的な要素はすべて取り払って「単なるイベント」として消費しているので、前提として日本人は基本的に感覚がずれてしまっているというのはあると思います。かつ、僕はあくまでも部外者であり「大人」という立場ではあったので、そういう意味では疎外感を感じるような状況でもなかったとは言えるかもしれません。

ともかく、このケースのように、バスの中で自然発生的に他宗教の歌がうたわれただけで(悪気があってそうしたわけではないのに)こういうクレームが入るというのが、当時の僕にはある種「新鮮」に感じられました。「みんな楽しそうだったし、まあいいんじゃね?今度イスラムの歌教えてよ?」と言えば終わりな気もしたんですが、「被害者」側からするともっと深刻な受け止め方だったりするわけですね。

立場によっては、一見些細とも思えるようなことこそちゃんと対応しないとあとで大きな問題になったりするんだろうなというのを、この一連の出来事を通して考えたのを思い出しました。その生徒は生徒で複雑な思いを抱いているわけなので、「ま、気にすんなよ」と背中をバンバンと叩いて終わり、というふうにはできないわけです。

結局何が言いたいのかというと、Diversity を包含し、かつみんなハッピーでいてもらおうとすると、常々気にかけておかなくてはいけないことがとても多いし、自分の普段の感覚では感知できないところで誰かが傷ついたり怒ったりするんだということを肝に銘じておかないといけないということですね。

多様だということは、その分コストが発生するということ

食事におけるDiversityなんかも分かりやすいですが、宗教的に豚肉がダメとか牛肉がダメとかはもちろん、主食がパンや麺(小麦粉)だったり芋だったり米だったりもバラバラですし、加えてベジタリアンやビーガン(両者の違いを知らない方は自分で調べてみてください)などもあるわけで、多種多様な食生活の人たちが一緒に生活するような場所でみんなに向けて食事を提供しようとするのは想像以上に大変です。

上記インターナショナルスクールでもキャンパス内にカフェテリアがあり、そこで毎日ランチが提供されていました。いくら学食レベルであっても最低限のケアは必要ですし、ベジタリアンフードもちゃんと用意されていましたが、本気で全員を満足させるような食事を提供しようとすれば恐ろしいコストがかかるはずです。素材だけでなく、調理方法やスパイスや味付けの好みも多様なわけですから、誰かの好みに寄せると他の人たちの好みから遠くなったり、みんなにとって無難な味にすると誰もあまり満足しないようなもになったりなど、どうバランスを取ればいいのか考えるだけでも一苦労です。

※そんな中、フライドポテトはまさに万人が好きな料理のひとつだと感じました(笑)健康的にどうかという問題はもちろんありますが。

余談ですが、Google の社内カフェテリアは世間的にも有名だと思いますが、基本的に上述のようにあらゆる食習慣を持つ社員に対して提供することを想定しています。ただ、日本オフィスであれば、どうしてもマジョリティは日本人社員なので味付けやメニューが日本人寄りになってしまう傾向はありました(少なくとも僕が在籍していた頃までは)。

そうなると、やはり非日本人の社員たちや海外オフィスからのビジターたちには評価が良くなかったりするわけですが、とはいえその人たちのためだけに別途食材を確保して別の調理法や味付けで提供するとなると、それはもちろん可能なわけですが、相応の人的・経済的コストはかかってきます。Google のように資金潤沢な会社であれば、そういった課題をお金の力で対応することはできるのですが、普通の会社ではなかなかそこまではやりたくてもやれないわけですね。

また、食事だけでなく、習慣的行動や服装などにも違いはあります。敬虔なイスラム教徒の場合は1日に何度もお祈りの時間がありますし、お祈り用の絨毯を引いて跪いたりできるスペースを用意してあげなくてはいけません。授業中であろうが仕事中であろうがお祈りの時間になれば作業を中断しても良いというルールも必要になってくるでしょう。そうなると、お祈りの時間は給与が発生するのかとか、もし勤務時間とみなさないのであればその時間分は給与から控除すべきなのかとか、その類の問題も考えないといけません。

服装で言えば、イスラムの女性であればスカーフのようなもので顔や肌を覆っていたり、敬虔なユダヤ教徒の場合は今でもキッパと呼ばれる小皿を裏返したような帽子をかぶっていたりしますが、学校のような環境ではそういった外見的な違いというのは中傷やイジメの対象になりやすいので、余計に注意が必要というか、事前のしっかりとした周知も必要になるでしょう。

日本のようなそもそも民族的・宗教的・食事的な多様性が低い国においてさえ面倒なことは多々あるわけですから、上記のインターナショナルスクールの生徒たちのような集団を引き連れてBBQやキャンプに行くとか修学旅行に行くとか考えると……もはや想像するだけで大変です。

また、最近では人種的・民族的・宗教的 Diversity に加えて、いわゆるLGBTという性的なDiversityも世界的に認知を得始めていますが、改めて考えてみると人類は本当に Diverseな人たちの集合体なわけです。

みんなが納得するルールを作る?

そして、そういった多様性の中で秩序やフェアなルールをつくって運用するというのも大変なことです。グローバル企業や多民族国家の運営が相当に大変であることも想像に難くないですよね。

ここでちょっと冒頭のエピソードに話を戻すと、このケースをふまえて、その後どういうルールを作れば再発防止につながるでしょうか。バスの中で歌っても大丈夫な歌リストをつくっておけばよいでしょうか。それとも、宗教に関連する歌を歌ってはいけないということにすればよいでしょうか。または、そもそも歌うこと自体を禁止にするというのはどうでしょう。

「子供が何を歌うかを管理なんてできるわけない!好きなように歌わせて何が悪いんだ!」と突っぱねればいい、という意見もあるでしょう。ただ、あなたが上述のようなDiverseな生徒構成を持つ学校の校長の立場に立った時、本当に当該生徒や親御さんに面と向かってそう言えるでしょうか。

これはあくまでも些細な一例でしかないわけですか、Diverse な人たちが同じ空間を共有したり一緒に行動するというのは、多くの日本人が想像する以上に大変なことであり面倒臭いものだということです。日本は世界でも類を見ないほどの民族的文化的に同質な国としてここまでやってきているので、そもそも Diversityに疎い地盤があります。

Diversityというテーマは、元をたどればおそらく人種差別や白人主義へのアンチテーゼという形で生まれたものの発展系の概念だと思いますが、かつてはアファーマティブ・アクション(affirmative action)と呼ばれていたりなどしていたわけですが、本質的には同じことの延長線上です。

最近ではEUにおける問題であったり、世界が経済的にも密接な共依存関係にあるという事情から、 お互いが好む好まざるに関係なく、「おたくはおたくで勝手にやってください」みたいな態度をとることができなくなってきていると思います。誰かがずっこけると、芋づる式にみんなずっこけてしまう、というような世界においては、仲が良かろうが悪かろうが一蓮托生みたいな状態だったりします。

そのため、現在の世界においてDiversityというテーマは、かつてに比べて遥かにリアルな課題として受け止められつつあると思いますし、その変化は直近10年が大きかったのではないかと見ています。それまでは、アファーマティブ・アクションだろうがなんだろうが表面的にそういうポーズをとっておけばとりあえず叩かれなくて済む、というような偽善的な対応は散見できましたが、そういう小手先のやり方が通用しない時代環境になりつつあるのではないでしょうか。

「個人」という希望

世界ではもちろん今でも多くの紛争やテロやヘイトクライムなどが起こり続けていて、Diversityの概念の普及がそれらに対してこれまで実質的な解決に寄与したのかという疑問もあるとは思います。ただ、「国家」というシステムの上でそういった問題を根本的から解決することは極めて難しいということは、20世紀を通して人類は散々見てきたという気もします。国や国連による軍事力の行使なども本質的な解決を生まないどころか悲劇を増幅させるだけに終わることが多いということも、嫌ほど見てきました。

「希望はないのか?」という思いにもなりますよね。
……やはり最終的には、国家という幻想を超えた「個人」という概念に行き着くのではないかと僕は思っています。ここ最近は「企業」単位で近しい役割を担い始めていると思いますが、今後はさらにブレイクダウンしていき、最終的には企業という枠組みよりもっと「ゆるい」形でつながった個人たちが、テクノロジーを駆使して活躍し始めるのではないかと思うわけです。

この10年で地表のほとんどがインターネットで網羅・整備され、つながってさえいればどこにいても情報発信や共有、リアルタイムにコミュニケーションができるようになりました。かつ、ほとんどの人たちがスマホをはじめとした携帯端末を持ち歩いているということもあり、個人レベルでも不特定多数の人々に対して瞬間的に大きな影響力を持つことができるようになりました。スマホの出荷台数も世界の人口を超えてしまいました。

10年以上前の世界では、SNSやWeb上で大きな発言力や影響力を行使できる個人というのは非常に限られていましたが、今ではまったく違う様相を呈しています。各個人がメディアとして動くことができ、かつ皆が皆を監視することもできる社会です。もちろん、こういったテクノロジーは悪意のあるものたちにも利用されるので、そういう意味では悪意のある行為もテクノロジーで武装し、さらに手強くなってきているという見方もあるでしょう。

ただ、これまで国家が寄ってたかっても解決できなかった様々な問題というのは、今後も変わらず国家によっては解消され得ないのだろうなと思います。結局のところ、個人レベルで腹落ちするような密度でのコミュニケーションだったり、相互理解が形成されない限り、根源となる問題に対して何かできるとは思えませんし、それを国家を通して行うというのはどう考えて難しいだろうと思うわけです。

国家間でどんな謝罪や譲歩や賠償があったとしても、それぞれの国の国民たちが簡単に納得したりしないわけですね。これまでの歴史は、失われた命や蹂躙された魂はどうなるのか、みたいな話が延々と続いていってしまいます。国家というトップダウンな和平でそれに蓋をするというのはさすがに厳しいだろうと思うわけです。

もちろん、個人に委ねればすべて何とかなると楽観視しているわけではありませんし、少数の影響力のあるヒーローや活動家たちがそういうことをやってのけると思っていたり期待したりしているわけでもありません。

もっと、いゆわる一般人の個人たちが、地道に、草の根的にそういう努力を各地でやっていくことが、ある時ふと見渡すと大きなシフトになっているという流れがくるのではないかと思っているということで、そこでキーとなるのが「個人 x テクノロジー」ということなのではないかと思っているわけです。

今後10–20年というタイムフレームの中で、この「国家から個人へ」という大転換期を目撃していくことになるのではないかと思っています。

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