消費者をバカにするな

Yusei Nishiyama
4 min readMay 14, 2018

--

「世の中に良質なコンテンツが減っているような気がする。」

「いや、単なる自分の感受性の老化と想像力の欠如だ。」

この間を毎日行ったり来たりする中、たまたまこういう記事が目についた。

あくまで、こういうものはプロレス的なエンタメとして機能しているだけで、真に受ける人はそんなにいないだろうと信じてはいる。ただ、一部では好意的に受け止められているようでとても不安な気持ちになった。

何がこれほど自分を不安にさせるのだろうか。少し考えてみた。

消費と生産は二項対立ではない

当たり前だが、あらゆる人間は消費者でも生産者でもある。例えば、自分を例にとっても消費と生産の境界は非常に曖昧だ。

  • 音楽を聴くし、演奏する
  • ソフトウェアを利用するし、それを作る仕事をしている
  • 本を読むし、本を書いたことがある

僕のような無名の存在ではなく、「生産者」と誰もが認めるような人物であっても、興味がない分野では一消費者でしかないだろう

消費の素晴らしさ

先に述べたように、僕が生産(もしくはそれらしきこと)をしている分野がいくつかある。それは、まぎれもなく素晴らしい消費に恵まれたからだ。

失意のどん底から救ってくれるような音楽、素晴らしい未来への展望が見えるプロダクト、自分のアイデンティティの根幹を築いた文学作品。こういうものとの出会いがあった。

そして、その背後にある生産者の強い意志や、純粋な喜び、そういうものに心を打たれ、自分も少しでもそういうことができたら幸せだろうなと思ったものだ。

こういう消費者を見下したような態度をとる人たちは、そういう体験をしてきていないのだろうか。

ここまで書いて、なんとなく違和感の正体が分かってきた。彼らの言う「生産」はあくまで消費のためのものでしかないのだ。だから、消費と生産は一方通行で、それゆえに、消費者と生産者は別物なのだ。

人間は人間にしか感動しない

本来、消費と生産は、こうした一方通行の関係ではないはずだ。消費することが、生産の糧になるような素晴らしい物事が世の中にはある。

そして、そう思わせることができるのは、商品や作品自体でも、それを可能にしたテクノロジーでもなく、生産者そのものである。なぜなら、そこにしか次の生産者である自分を投影できないからだ。

僕はスポーツはあまり見ないが、実は非常に分かりやすい優れた生産の例ではないかと思っている。ただ、そこに「異常な速度で走れる人」がいる。それが自分と同じ人間であり、それゆえに、人間活動の無限の可能性を見出すことができる。

近頃は色々な理由で「生産者」が見えなさすぎるのではないだろうか。大人の事情、複雑な産業構造と意思決定プロセス、多様化する受信チャネル。一体誰が、どんな気持ちで作ったものなのか分からないものに溢れている。もしかしたら、探ったところで、本当に何もないのかもしれない。

インターネットは色々な負の側面もありつつ、改めて生産者個人にスポットライトが当たる可能性を提供した。従来型のメディアが苦戦しているのはこういうところに原因があるのではないだろうか。

冒頭の記事のすべての論調に反対というわけではない。生産者に積極的になることを説いてる点は、大いに賛同できる。けれども、その理由が消費が「ダサい」からというのはあまりに悲しすぎる。そうやって、消費者から抜け出すことだけを目指して生産されたものこそが、こうした虚しい消費を産んでいるのではないだろうか。

こうした生産者優位の考え方はこれからますます危険になっていくだろう。近年のレコメンデーションシステムの目覚ましい発展によって、人間の消費をコントロールすることはますます容易になってきている。だから、この記事にあるように「二極化していく」というのはその通りなのだ。だけど、ここですべきことは消費者を「凡人」と突き放すことではなく、生産者の良心を問うことではないのだろうか。

「消費=悪」のような価値観を持つ人たちが生産者代表のようにならないことを切に願いながら、この取るに足らない僕の生産活動をおしまいとする。

--

--

Yusei Nishiyama

A man with limited interests: music, technology, and philosophy. Site Reliability Engineers at SoundCloud.