僕が家入一真さんに「『インターネットが大好き』がわからない。『はさみが大好き』と言っているみたいで」と聞いた先に。 -さよならインターネット-

家入一真さんの近著「さよならインターネット」の冒頭。

初春の季節が過ぎ去っただろうかという時期に、僕は家入一真さんと出会い、インターンとしてお手伝いすることになった。

家入さんの言葉を噛み締めることが多くなった日々のなか、ふと一つの何気ない疑問が湧いた。

「インターネット大好き」ってどういうことなのだろう?

当時の僕にはどうしてもその感覚が掴めなかった。

そして、僕は家入さんに直接聞いた。

ある日、仕事の合間にお茶をしていたときのこと。インターンシップをしていた20歳の学生が、ぼくにこんなことを言いました。
「家入さんは『インターネットが大好き』とよく言うけれど、ぼくにはその意味がわからないんです。なんだか『ハサミが大好き』って言っているみたいで」
インターネットがハサミ? 一瞬、意味がわかりかねたこの言葉。どうやら彼は「インターネットなんて、ハサミのようにあたりまえに存在するもので、わざわざ賞賛する価値があるような対象ではない」と考え、そうたとえたようです。
しかしぼくにとってのインターネットとは、10代半ばの引きこもりのさなかに光を与えてくれた大きな存在。
そこから紆余曲折を経て、インターネットにかかわる会社を設立。20代で上場を果たした後も、やはりインターネットを通じてたくさんの人とつながり、飲食店やシェアハウスなどを手がけ、ネット選挙解禁後には、それをフル活用して都知事選を戦っています。ぼくはまさにインターネットとともに、その人生を進んできたといえるでしょう。
また、陳腐な言い方だけれども、インターネットはやはり無限の可能性を秘めた世界であり、ときには見たことのないようなものを生み出し、ときには中央集権的な構造にとらわれていた、いろいろなものを私たちの手に取り戻してくれる、無条件に賞賛される存在だったと思います。
それだけに、自分より若く、同じくその可能性に胸をときめかせているものとばかり思っていた彼の言葉が、衝撃以外の何ものでもありませんでした。しかし一方で、彼の言葉をあらためて考えてみると、「ぼくの好きなインターネット」というイメージも、はっきりと形にすることができなかった。そのことも、また大きな衝撃でした。
彼は、続けてこう言います。
「『Facebook』も『Twitter』もぼくには必要ない。『LINE』さえあればいい。つながりたい人とだけちゃんとつながっていれば、それ以上は必要ありませんから」
この言葉を聞いて、今度はとある思い出がぼくの頭をよぎりました。それは福岡で美大を目指しつつ、絵を描いたりして暮らしていた98年、20歳のときのこと。
描いた絵がだいぶたまったのを見て、ふと画廊を借りて絵を展示してみたくなりました。
それは自分一人で描いていて、誰にも見せることのなかった作品が、第三者からはどう感じてもらえるのか、その反応を見たかったからです。もちろん絵が売れて少しでも収入になれば、という思いもあったので、画廊には結構な金額を支払って展示したのだけれども……。
結果はさんざん。このとき足を運んでくれた人は親しい友人以外、ほとんどおらず、絵もまったく売れませんでした。そこで、その頃興味を持ち始めていたインターネットを通じ、それらの作品を自作のWebサイトに載せてみたところ、こちらでは驚くべき反応がありました。なんと福岡県内どころか、海外からも絵を賞賛してくれるコメントが届いたのです。
インターネットの向こうには想像できないくらいに大きな世界が広がっていて、つながり始めている。そして、その世界こそが、これからの時代、自己表現や発信の中心となるに違いない。これからやってくるかもしれない未来の片鱗を目の当たりにしたぼくは、強い興奮を覚えました。そして21世紀となった今、彼の言葉からこの経験を思い出したのです。
(中略)
しかし最近になって、そういった実際の姿が見えていない人たちとのつながりが、いったいどれだけの価値を持ちうるのか、どこかで疑問にも感じ始めていました。最近だと、つながりすぎたせいなのか、伝えたいと思ってもいないような人にまで、メッセージは容易に届いてしまい、想定をしていないような反発をもらうことも増えていました。それだけに彼の言葉に驚きを覚えつつ、でもどこかで納得して、受け止められたのです。

その当時、僕はIT界隈に顔出すようになったばかりで、SNSに関してはTwitter,Facebook等はやっておらず、友達と繋がるためにLINEのみを利用していただけだった。

そしてまた、僕は平成生まれで、パソコン通信もインターネットの始まりも経験としては何も知らない。社会的な意識を持ち始めた小・中学生頃の年代にはインターネット、パソコン、携帯がそろっていた。誰かと連絡を取り合うようになった頃には、当たり前のように既にメールがあった。

そんな僕から見たインターネットは、空気のように当たり前に存在して必要な時にだけ使うツールとしてまさに「はさみ」だった。

その当時の僕からすれば、TwitterやFacebookといういわゆるソーシャルネットワークサービスと呼ばれるものは、社会に自己を表現する必要がある人のもので、そこから繋がりや情報を得たいと思ったときに使えばいいと考えていた。同様にGoogle検索等も、知りたい情報をフォームに打ち込み、1ページ目にある一番有益そうな情報だけを見れさえすれば満足だった。

限られた入り口から、一部の有益だと信頼できるものだけ掬い取って利用する。その一つの側面だけが僕の知っているインターネットだった。

そんな僕からすれば「インターネットが大好き」という考え方はまさにクエスチョンマークでしかなかった。

ただ、そこからしばらくの月日が経ち、僕はインターネットというものをIT界隈の中から学び、また自分でもインターネット上にいくつか小さなサービスをだしたり(誕生日に贈ったゲーム人を褒めるサービス)、TwitterやFacebook、ブログもやり始めた。

そんな中で掴んできたインターネットの感覚は家入さんの言っていた「インターネットが大好き」というもの近いものだった。

インターネットは何時しか遊び場のような場所に感じられ、それは僕にとって公園の砂場に近かった。好きなものを作り、人に見せたり、一緒に作ったり、そこから新しい出会いがあったり、またインターネット上の繋がりが実生活の物事を進展させてくれることもあった。

サービスやコンテンツを作る人、情報を提供する人の側に立てば、インターネットは公園の砂場ように好きに遊べる場であり、無限の可能性を秘めていた。

「インターネットが大好き」というのは、こういうことだったのかと少しずつ実感した。

ただ振り返って思う。

僕はIT界隈に来て、作る側の立場に立ち、「インターネットが大好き」という感覚を掴み始めてきて、初めてインターネットが公園の砂場のような存在になった。ただそれがなければ、僕にとってのインターネットは「はさみ」のままであり、当たり前にあって利用するだけのものであった。それは現在、ITに近い立場をとっていない人にとってはほとんどがそうなのではないかと思う。

パーソナライズ化が進み、個人が手に入れる情報は偏向したものばかりになりつつある。好きなものばかりが手に届き、個人にとっては都合の良い小さな部屋のようなインターネット。ただ世界と繋がっていることを忘れて非常識なこと一つすれば、突然インターネットは様変わりして個人を淘汰することも(バカッター騒動のように)。

利用者側に立てば、インターネットは確実に狭くなっている。それは信頼性のある情報を効率的に手にすることができるように進歩し、その外側に行く必要がなくなったためではあるが。

コロンブスがアメリカを発見して、探検・開拓、国家建設、経済大国として成長してきたように、インターネットは開拓から始まり飛躍的に成長してきた。そして利用者すべてに良質な情報を豊富にもたらしてくれた。そして、今もなお、更に少量の取捨選択で良質な情報が手にはいるように進歩している。

インターネット全体に響くように何かを作ったり、提供したりする人にとっては無限に可能性を秘めたインターネット。それは、感情的に大好きと捉えることもでき、公園の砂場のように表現を楽しめる場所。

それとは違う立場で、インターネットを情報取得のために利用する人にとっては、効率的で便利で、冷たい無機質なはさみのようなもの。手荒に扱えば、手を切ることも。

現在、インターネットは未だに無限の可能性を秘めている。ただ、多くの人にとってはインターネットははさみのような存在で、「インターネットとは、上手に扱わなければいけないもの」と感じさせているのではないだろうか。

提供者側にいるごく一部の人にとっては依然インターネットは暖かい世界なのかもしれない。ただほとんどの利用者にとってはそこは冷たい無機質な世界となってきているのかもしれない。

それが今後、このままより冷たい世界となっていくのか、提供者側に廻る人が増えていくのか、利用者にとっても暖かい場所が出来ていくのかは分からない。

だけど、僕は次のインターネットをより暖かいものに喩えられたらいいなと思う。


最後に、僕の何気ない質問を丁寧にお聞きくださり、書籍という形で考えを教えてくださった家入一真さんには大変感謝しています。

高田 優太

・『さよならインターネット』 - 家入一真 -

http://www.chuko.co.jp/laclef/online/interview/150560_94419.html